04:六月のサナトリウム




 雨の日が続いている。梅雨に入ったのであろう。洗濯物が乾きづらくて困ると、おえいさんがこぼしていた。

 お栄さんは、我々の衣食を世話してくれるご婦人である。あの旨い食事はこの手指から生まれ出づるかと思えば、腰を折り、よく漬け込まれた梅の実の如きその指先を額に押し戴いて、感謝の言葉を述べたくなるのも必定である。いつか本当にやってみようか。しかしいきなり女性の手を取るのは気が引けるし、お栄さんとて驚こう。確たる信頼関係を育んでからにしようと思う。


 梅雨入りと前後して、少し陽が長くなったように感ずる。これが明ければ本格的に夏到来となるだろう。

 サナトリウムを囲む森の中には幾つか細い川が走ってい、少し足を運べば蛍が見られるのだと矢野医師から聞いた。実は、蛍がどういう生き物か自体は知識としてっているものの、この目で見たことは一度もない。内心楽しみである。


 それにつけても問題は雨だ。

 元々、雨自体はさして嫌いでもなかったが、此処へ来てからは矢鱈と雲行きが気に掛かるようになった。


 症状の度合いにもよるだろうが、入院患者には毎日半刻はんとき(およそ一時間)の外出が認められている。外の空気を吸い、疲れない程度に足を動かすがよかろうとの方針からだ。しかし雨の日には一切の外出が禁じられる。万が一にも身体を冷やし、風邪を引こうものなら大事おおごとであるゆえ仕方ない。仕方がないが、少し寂しい。かつては埃じみた四畳半を我が城として昼夜構わず引き篭もっていた私である。まさか外出を心待ちにする日が来ようとは思わなかった。


 東京で暮らしていた頃には散歩などまずしなかったから、此処へ来てからというもの、いっそ健康になったような心地でいる。西館の患者達は皆一様に元気であるため、余計にそう感ずるのだろう。しかし余り間抜けにえへらえへらと笑ってばかりではおれぬことにもまた気付いている。

 顔を強張らせた新島が恐るべき速歩で急ぐ姿は何度も見たし(患者を不安にさせぬよう、医師は走らぬが掟というのが彼の信念だ)、矢野医師が目を腫らしてほうけている様も二度ばかり見かけた。新島は東館へと急ぎ、矢野医師は東館から帰って来た。つまりはそういうことだ。


 サナトリウムへ入院した初日、退院率は約三割だと新島は云った。しかし今となっては、その数字には新島なりの優しさが含まれていたように思う。仮に真実であったにしても、およそ病とは歳を重ねた者ほど治りが悪く、このサナトリウムの入院患者は比較的若い世代が多いというだけのことであって、世間一般には、胸の病の快復率は二割にも満たないとされている。

 それを教えてくれたのは佐伯さえきさんという西館の患者だ。入院してからもう四年が経つという強者である。


「何も新入りを脅そうって訳じゃあねえが、他ならぬ手前テメェのことだ。本当のところをちゃアんと知っておいた方がいいだろう」


 生粋の江戸っ子を自称する佐伯さんは、巻き舌混じりにそう云った後、


「まあ、八にも二にも転ばない、俺のような男もいるってこった」


 と笑った。その笑顔が無性に心強い。

 度々問題行動を起こしては矢野医師のお小言を食らっている佐伯さんであるが、根は面倒見のいい御仁だ。談話室仲間のよき兄貴分である。




 ある日、自室のドアを控えめに叩く人があると思ったら、院長先生が立っていた。手には将棋盤を持っている。


「どうだろう、一局」


「いいですねえ。ああ、しかし、一寸お待ちください。片付けますから」


 寝台傍の机は、新島に貰った原稿用紙で散らかっている。全て白紙だ。久しく執筆から離れていたので、手が書き方を忘れたらしい。かつては我が内に溢るる活字の渦が、早く此処から出せとばかりに胸を叩いたこともあったというのに、今の私には、四〇〇字詰めの原稿用紙ただ一枚が、途方もなく広大な砂漠のようにすら感ぜられる。


 慌てて片付けていると、肩越しに院長先生が覗き込んできた。小柄な院長先生は、どうやら爪先立ちをしているらしい。


「君、書き物をやるの」


「ええ、まあ」


 手慰み程度には。そう付け足しておいてから、己が卑屈さにうんざりする。しかし院長先生は垂れた目をいっそう細めて頷いた。


「それはいい。進藤君、是非とも僕を読者第一号にさせてはくれないだろうか」


 思いもしない申し出に、言葉にきゅうして口が粘つく。第一号どころか、誰に読ませるつもりもない。そもそも、書けるかどうかすら怪しい状況なのだ。とりあえずは笑って誤魔化しておく。


 院長先生には椅子を進め、私は寝台へと腰掛けて向かい合い、将棋盤の上に駒を並べる。準備を終え、さてお手並み拝見となったところで、少し待つよう言い置き院長先生が離席する、かと思えば両手に湯呑みを持って戻ってきた。お偉い立場の方であるのにけして偉ぶらず、こまやかな気配りをなさる御仁である。恐縮して受け取り、その熱さに驚く。院長先生は平気だったのであろうか。としを重ねるとはに凄まじきこととおぼゆ。

 小脇には長方形の缶を抱えている。中身は煎餅であった。何方どなたかの手土産であろう。缶は濃紺に金地のラインが入ってい、きっと質の良いものに違いないとの予感に口中が潤う。海苔の巻かれた一枚を選び、いざ対局。

 パチリ、パチリと駒を指す音の合間合間に、パリリと煎餅を囓る音が混じる。どちらも熟考の間は口がお留守になっているから、パチリ、パリ、パチリ、パリと、音が交互にやってくる。


「進藤君は東京から来たのだったね」


「ええ。生まれは神奈川の方ですが」


「僕は生まれも育ちも静岡だけど、東京には一度だけ行ったことがあるよ。新婚旅行だった」


 パチリ、パリ。懐かしげに細められた目が、皺の中に埋もれている。


「銀座のパーラーで家内と食べたアイスクリンの味が、未だ忘れられなくてね。当時、アイスクリンなんて洒落た物は、まだ都会でしか食べられなかったから」


 院長先生は流石の試合巧者であったが、私もそれなりによく戦ったと自負している。院長先生の打ち込みぶりがその理由である。

 気付けば陽は西へと傾いてい、院長先生は長々と腰を伸ばすと「やあ、もうこんな時間か」と欠伸混じりに呻いた。終局の合図である。


「負けました。しかし、折角のお休みをすっかり頂戴してしまいましたね」


「うにゃ、目下仕事中であるよ」


 事もなげに云う。院長とはくも時間を持て余した職なのだろうか。

 考えがそのまま顔に出るのは我が悪癖で、今度の時もそうであったか、院長先生は此方を見るとにやりと笑った。


「このところめっきり暇でね。実にいいことだ」


「いいことですか」


「医師が急ぎ慌てている様ほど、人を不安にさせるものはないよ」


 なるほど。新島の信念は院長先生からの受け売りとみえる。


「しかし、暇が喜ばれる仕事というのも珍しいですね」


「そうさなあ。医師の他には、政治家くらいか」


 院長先生は悪戯っぽく片目をつむり、将棋盤を手に立ち上がった。空いた湯呑みを持とうとするが、いいからお休みと押し留められてしまう。


「毎年梅雨の時期になるとね、不思議とこう、建物全体が静かになるのだ。まるで、騒がしさや煩わしさまでもが雨と共に土へと吸い込まれてしまったかのように」


静謐せいひつ……」


 口を突いて出た呟きに、院長先生が笑顔で振り返った。


「流石は進藤君。実にいい言葉を知っている。静謐。まさにそれだね、此処の梅雨は。……うん、益々君の書いたものが読みたくなった」


 調子付いて余計な事を云ったやもしれぬ。


 だからというわけでもないが、院長先生が行ってしまってから、再び机に原稿用紙を広げた。パチリもパリリもなくなった部屋に、雨が葉を打つ音がさやかに聞こえてくる。更に耳を澄ませば、土が水を吸うシュワシュワというあえかな音すら聞こえてきそうな……


 少し、雨のことが好きになったような気がした。




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