05:福々しき種




 に美しきは自然そのものの有り様であるように思う。刻一刻と形を変えゆく層積雲、葉脈を伝うぷくりとした朝露、蟻の列、世代を繋いで蜂々が作り上げた正六角形の重なり。

 中庭に面する廊下には縦長の窓が並んでい、其処からそういった種々を心ゆくまで楽しむことができる。飾り気のない窓枠は自然の風合いを損なうことなく、中庭の風景を一枚の絵画に仕立て上げている。


 窓枠が切り取る自然の風景画は見る時期、時間毎にその姿を穏やかに変えゆくが、目下における堂々たる主役、プリマドンナは紛れもなく紫陽花アジサイである。

 基本的に院長先生は放任主義であるから、草花は思い思いの場所で好きに実を結んでいるが、ことこの紫陽花に於いてのみは、この廊下より眺むることを前提として植えられたように思われてならない。訊けば確かに、この花はかつて院長先生が手ずから植わえたものだと云う。院長先生の亡き奥方が、特にこの花を好いていたそうだ。

 愛妻を喜ばせんと土に屈んだ若かりし日の院長先生を思えば、この風景画にも一層の趣が感ぜられるというものだ。凡そ芸術とは、その背景を知ることによって一段と味わいを増すものである。


 雨上がりの中庭に出てみれば、ひと足差し出す毎に水を含んだ土が柔らかく沈む。土の鳴き声を楽しみながら紫陽花の元へ。


 紫陽花は、半球状の株周辺を囲む四五枚の花弁をこそ花と捉える人も多いが、あれは装飾花と呼ばれるものであって、花弁に見えるものは実際のところ萼弁がくべんである。半球状の中央を成す無数の粒こそが花弁であり、こちらには花本来の機能――生殖機能――が備わっている。装飾花は謂わば客寄せ、受粉を助ける虫を誘引するためのだけの存在だ。


 実に健気ではないか。

 見目は本来の花よりも遥かに華やかであるというのに、己自身は子を成せず、学者連中には『不完全花』などと不名誉な名称で呼ばれ、少しばかり聞き囓っただけの私のような物書き崩れには、浅はかな知識の誇示のためだけに己が本質を暴露されるというのに、それでも尚文句も言わず、客寄せの務めに徹しているのだから。


 そういうわけで、私はこと紫陽花においては萼弁を贔屓しがちである。

 白い生地に山梔子さんししの汁を慎重に落としたかの如き繊細な色。中央の粒は、皺の具合がまるでにこにことした笑顔のように愛らしく……顔。


 まさか、本当に顔の形をしている!


「うわあッ」


 あまりの事に腰が引けたが、しかし気付けば腕だけは目一杯前へと伸ばしていた。当然、体勢を崩して尻餅をつく。


 受け止めねばとの使命感に駆られて突き出した両手の上に、わさわさと顔が落ちてくる。顔、顔、顔。芥子粒ほどに小さいそれは転がりながらむくむくと膨らみ、瞬く間に小指の爪ほどな大きさとなった。仄かに温かく、柔らかい。顔のついた大豆のようである。


 腰を抜かしたままでいると、掌の上で無数の顔がくふくふと笑った。まるで初心うぶな女学生かのように、か細く身を(あるいは実を)震わせている。得体の知れぬものではあるが、妙に愉快で、愛おしい。自然と目尻が垂れてくる。


 しかしこの手をどうしよう。こうも愛らしいものを地面に落とすことなど到底出来ぬ。戸惑っていると、背後から声を掛けられた。


「どうなさいました?」


 お栄さんである。少しの緊迫感もないその声に、背中の力がふゥと抜ける。私は両手の扱いに困り果てたまま、


「顔が咲いてしまいました」


 と、何とも間の抜けた事を云った。

 お栄さんは捧げた両手を覗き込むと「あら、まあ」と若やいだ声をあげ、それはもう満足した様子で、


「咲いたのではなく、成ったのですよ。ほんに、今年の恵比寿様もよい御顔だこと」


 これは来年の紫陽花も満開でしょうねえ、と嬉しげである。


 恵比寿様とな。恐る恐る見てみると、なるほど確かに恵比寿様である。細められた目は春の波のように穏やかで、頰は福が詰まっているかの如く丸く膨らみ、口許には温かな微笑を湛えている。あまりじっと見つめすぎたせいか、恵比寿様は丸い頰をほんのりと染めてくふくふ笑った。


「それで、どうすればいいのでしょう」


「そりゃあ、あなた。埋めて差し上げればいいに決まっているじゃありませんか」


 埋める。


「そんな事をしてよいものか……土の中など苦しそうではありませんか」


「どの生き物にだって、生きるに適切な場所というのがあるものです。私達は水の中では暮らせませんが、河童は三時間と潜っていても平気な顔ではありませんか」


 それは初耳である。しかし、訥々とつとつと話すお栄さんの言葉には妙な説得力があった。


 埋めるようにと云われたものの、くふくふと笑う恵比寿様を見ていると土を被せることも憚られ、そもそも笑い声がするのは空気を吐き出していることの証左に他ならず、吐いたらば次には吸いたくなるのが世の道理との考えに至り、結局埋めることはせず、柔らかな土の上に置いておくのみとした。



 翌日、例の如く枕の上に半纏を積んで読書に耽っていたところ、何やらかさかさと音がする。まさかと思い、傍の机に目をやってみて驚いた。何か御利益があるやもしれぬとの俗欲に囚われ、恵比寿様のひとつをこそりと持ち帰っていたのであるが、それが机上で震えている。

 慌ててそっと摘まみ上げると、福々しき御尊顔が、なんと、閻魔様の如き恐ろしい形相へと様変わりしているではないか。皮の具合も心持ち硬くなっている。


 これはいかんと廊下に飛び出し、通りがかった矢野医師を捕まえ、何か柔らかな布か脱脂綿はないかと縋り付いた。あまりの狼狽ぶりに不吉を感じたか、矢野医師はこちらが申し訳なく思うほどに青褪めたが、手の中のものを見せると得心したようで、すぐに湿らせた脱脂綿を持ってきてくれた。それでもって閻魔様を包んで差し上げると、心なしか、吊り上がった目尻から若干険が抜けたように思われた。


「危ないところでしたよ、進藤さん」


「いや、実に申し訳ない。まさかこうも御不興を買うとは思わなかったのです」


 どうすればよいかと訊けば、埋めて差し上げるがよかろうと云う。やはりそうするが良いらしい。己の勝手な価値観を押し付けてしまってはよろしくないと猛省する。

 早速、紫陽花の元へと急いだ。昨日置いてきたままの恵比寿様も、一緒に埋めて差し上げよう。悪気はまるでなかったのだ。芯から謝れば、きっと御許し頂けるだろう。そう願いたい。


 不安を胸に中庭へ向かうと、紫陽花の前には先客がいた。洋服を着た少女である。歳の頃は十に満たないといったところか。足音で気付いたか、此方を認めるとにこりと人懐こい笑顔を見せた。初めて見る顔であるゆえ患者ではなかろう。随分と若い見舞い客である。

 少女の汚れた白い手と、最近触られた様子のある土を見、また恵比寿様の姿がないことに気付いて、さてはこの子が埋めてくれたかと思い至った。


「もしかして、あなたが恵比寿様を」


「はい。少し乾いてしまっていたので、余計なお世話かとも思いましたが土を被せておきました」


 思いもかけずはきはきと礼儀正しく答えるその姿に少し驚く。思ったよりも年長なのやも知れぬ。しかしそれでもまだ幼いであろうに、実に感心な子供である。

 ついうっかり感じ入っていると、脱脂綿がぶるりと震えた。早くせよと急かしておられるらしい。断ってから少女の隣に屈み、いじられたばかりの土の傍へと閻魔様を埋める。そっと土を被せ、掌で優しく押さえてみると、土がにわかに温もりを帯びたように思われ、内心で胸を撫で下ろす。恐らくは御許しいただけたのであろう。


「来年も咲いてくれるでしょうか」


「見事、咲いてご覧に入れましょう」


 笑みを含んだ少女の声に顔を上げると、白い肌の子供はもう何処にも見当たらなかった。


 せめて名前だけでも訊いておけばよかったように思う。




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