06:英国からの客人




 このサナトリウムには青い眼をした御仁がひとりいる。名をスティーブ氏という。生まれは西の島国、英吉利イギリスと聞く。

 この御仁、談話室にも時折姿を見せるのだが、まともに言葉を交わしたのは初めて会った時の挨拶ぐらいで、以降は廊下ですれ違う際に簡単な挨拶を交わす程度である。これと云って苦手意識があるわけでもないが、何とは無しに近寄りがたい雰囲気があるのだ。それは見上げるほどに優れた身丈のためか、陽光に透ける淡色あわいろの髪のためか、それとも、全てを見通しているかの如き不可思議な色の眼のためか。


 異国人自体は銀座界隈でもよく見かけたし、大学にも阿蘭陀オランダから来た教授がいたので、異国人そのものに耐性がないわけではないように思う。それなのに氏の前に出るといやに緊張してしまうのは何故であろう。

 思えば、これまで近辺にいた異国人は、皆一様に年嵩であった。そして髪色は我々と同じく黒、あるいは赤茶であった。氏のそれは、いっそ白に近い。我が民族は年を経るにつれ髪色が薄くなる傾向にあるが、まさか異国では逆なのだろうか。ひとくちにホモサピエンスといえども目鼻の形だけでここまで違ってくるのだから、髪色の移り変わりようが真逆であったとしても不思議ではない。


 医師は皆白衣を着てい、一方のスティーブ氏は和装であるため患者仲間であろうと考えていたが、ある雨の日に、片手に小さな虫籠を提げ、雨ゴートから水を滴らせた氏と廊下ですれ違った。傘は用いていなかったものか、白銀しろかねの髪が濡れている。


「何か拭くものが入用ではありませんか」


 風邪を引いては一大事と慌てたが、氏は少し困ったような笑みを浮かべ、どうぞお気遣いなさらず、と流暢りゅうちょうな日本語で云い、自室へと入って行ってしまった。

 そのまましばらく氏の体調を案じていたが、落ち着いて考えてみれば、彼がもし患者であるなら雨の日の外出は禁ぜられているはずだ。佐伯さんのように度々規則を破る患者もいるが、スティーブ氏はそのような御仁ではないように思う。


 それで新島に訊いてみると、やはり患者ではないと云う。それでは職員か何かかと訊けば、それも違うと首を振る。


「ではいったい、彼は何者なのだ」


「このサナトリウム唯一の下宿人だよ」


「下宿人……」


「院長に頼み込み、西館の一室を借り受けているのだ」


 更に訊けば、スティーブ氏は元々患者として此処へやって来たのだという。東西の島国の交歓益々盛んなるを願い、我が国に招聘しょうへいされた学者連の随行員であったそうだ。恐らくは通訳としての役目を担っておられたのであろう。遠き異国の地での発病は大層ご不安に思われたに違いないが、そもそもが軽度であったし、持ち前の体力も手伝ってか、ものの数ヶ月で無罪放免、晴れて退院の運びとなり、お仲間には少し遅れて帰国を果たした。

 それなのに凡そ半年ばかり経つと、彼は再びサナトリウムへと舞い戻って来たという。右手に金の詰まった鞄、左手に小さな虫籠を提げて。


 確かに此処は住み心地がよい。飯は旨く、空気は澄み、夏でもあまり気温が上がらず過ごしやすい。避暑地代わりにはちょうどいいと思ったのやも知れぬ。

 避暑地ならばの国にもあろう、金持ちの考えはよく分からぬ、しかしまあ静岡のこの緑を愛してくれたならばそれもまた良しと、あまり深くは考えなかった。




 このところどうにも身体が怠い。熱っぽさはないため風邪ではなかろう。梅雨が明け、夏到来となっても東京ほどの暑さはないが、少し空気が重くなったように感ずる。傍に水場があるためであろう。それで体力が奪われ易くなったのだろうか。無理はいけないと、近頃は散歩より読書に熱を傾けている。


 その日、読み終えた本を片手に圖書室へと向かうと、室内の椅子に腰掛け、スティーブ氏が本を前に難しい顔をしていた。此方に気付くと、例の困ったような笑みを浮かべる。英吉利の国民性には詳しくないが、彼のこの笑みには、どこか日本人らしい恐縮の気配がある。島国特有の性質であろうか。


「すみません、ミスター。この漢字の読みがどうしても分からないのです」


 ミスター、という慣れぬ呼称は少し気恥ずかしい。緊張を押し隠しながら長い指が指し示す先を覗き込み、「それは『るつぼ』と読みます」と答えてやれば、氏は、るつぼ、と小さく口中で繰り返した。


crucibleクルーサブル


「ああ」


 しかしまだ合点いかない顔をしているので、


坩堝るつぼの中は高温ですから、『興奮の坩堝』といったように、熱気が溢れる様を表す時によく用いられます」


「なるほど、それで理解できました」


 ようやく氏の顔から憂いが除かれ、私としても内心嬉しい。氏は実に流暢に日本語を話すが、いかに我々には馴染みある慣用句であっても、日常会話でまずお目にかからぬ表現などにはそこまで精通していないものと見える。


「興奮の坩堝、ですか。日本語の響きには、こう、独特の美しさがありますね」


「ありがとうございます。あなたの話す日本語も、とても美しい」


 氏は今度こそ満面の笑みを浮かべ、しかし少し恥ずかしげに、ありがとう、とはにかんだ。




 ある夜、談話室での晩餐を終えて自室へ引っ込もうとすると、佐伯さんに呼び止められた。蛍狩りへ行こうと云う。

 しかし、暗がりでなければ蛍の放つ光は見えまい。夜の外出は禁ぜられていたはずだ。また規則を破るおつもりですかと云いかけて、喉元の所で止めておいた。しかし顔には出ていたようで、佐伯さんはいかにも不満げな面持ちで腕を組んだ。


「外出が必要な理由を伝え、事前に許可さえ貰えば大丈夫なんだ。小沢の傍に腰掛け、蛍のあえかな逢瀬を眺める。夜に出歩く理由としてこれ以上のものがあるかい」


「ありませんねえ」


 西瓜を頬張りながらそう同調するのは矢野医師である。こと注射の腕以外に於いては彼を信頼しているため、許可の面では心配なかろう。矢野医師は西瓜の種を口から摘まみ出しながら、


「少し暖かな格好で来てくださいね。水の傍に寄ると冷えますから」


「おや、矢野先生も行かれるのですか」


「無論です。院長先生もいらっしゃいますよ」


 それでは新島も行くのであろうか。


「新島先生はきっと今年もいらっしゃらないだろうなあ。あの人はこういったことに興味がないから」


 まあ、医師が全員出払ってしまっては流石に心配ですから、進んで残っていただけるならそれはそれで有難いのだけど。後半は独り言のように呟く矢野医師である。

 静かになったサナトリウムで、電燈の灯りの下、ひとりカルテに向かう新島の姿を想像すると、何やら少し申し訳ない気持ちになった。


 矢野医師の言葉通り、小沢の流れが耳に届く頃にはすっかり空気が冷えていた。建物内より五六度は気温が低く感ずる。持参した膝掛けを肩から垂らし、胸元をひたと合わせて風が入り込むのを防ぐ。


「おっ、やってるやってる」


 控えめに佐伯さんが上げた歓声につられて目を凝らせば、なるほど、枝枝に遮られて見えづらくはあるが、黄色の光がちらちらと揺れている。これが蛍か。思ったよりも随分と光が鮮やかだ。

 我々人類が苦労の末にようよう発明した電気の光を、誰に教わるでもなく操る蛍は、まこと神秘の虫である。


 矢野医師の先導で開けた場所へと移動すると、飛び交う蛍の姿が一層よく見えるようになった。ふたつの光が交わって大きくなったり、水面に反射している様は、まるで自動幻画の一コマのように幻想的で、どこか現実離れしている。


 誰も言葉を発することなく、ただただ無言で蛍を眺める。

 ふと周りを見れば、一際背の高いスティーブ氏の姿が目に入った。いつぞやの雨ゴートを防寒着代わりにした氏は、小さな光を食い入るように見つめていた。他は皆感動の面持ちでいるのに対し、小さな光に照らされた氏の表情は、どこか逼迫した緊張感のようなものに包まれて見えた。


 やがて院長先生に促され、少しの名残惜しさと共に、連れ立ってサナトリウムへと戻った。身体が少し冷えてはいたが、心はぽかぽかと暖かい。自室の寝台に寝転ぶも、先程の光景が目に焼き付いて離れず、どうにも眠れそうにない。無理やり目を瞑ってみるも、瞼の裏ではまだ蛍が舞っている。


 心ではそう思っていても、身体は存外疲れていたらしい。いつしかすっかり寝入っていたらしく、微かな物音で目覚めて初めてそれと気付いた。

 しかしすぐに、これはまだ夢の続きであると思い直した。部屋の中が、無数の小さな光に満ち溢れていたのだ。ケサランパサランもどきに寄りつかれてからというもの、必ず網戸を閉めるようにしているから、まさか蛍が入ってくるとは思えぬ。

 夢に見るほど興奮したかと苦笑していると、視界の隅に黒い人影を認め、慌てて上体をもがき起こした。


 光に浮かび上がったのはスティーブ氏の横顔であった。小沢沿いで見た時同様、緊張に強張っている。光の具合であろうか、此方を向いた氏の目は少しばかりぎらついて見えた。

 氏は人差し指を口の前に立てると、子供をあやすように細く息を吐いた。そしてそのまま視線をついと上げる。それを追って顔を向ければ、黄色く明滅する光の中に、一際大きな白い光があった。


 両腕を伸ばし、鳥の雛を掬い取るような優しい手付きでそれを包み込んでしまうと、氏は淡い光が漏れる両手を私の前に差し出した。そっと大きな手を開けば、光の正体は小さな小さな小人こびとであった。言葉を失くし、氏の掌の上でくつろいだ様子の小人を見つめる。


「ヤレリー・ブラウンです」


「ヤレリー……」


「小妖精です。愛らしい姿をしていますが、悪さばかりして人を困らせる嫌な奴です。昨年の夏、私も此処に身を寄せていたのですが、蛍を見ていた折に此奴を見かけたように思いまして。まさか極東の国にヤレリー・ブラウンがいるとは思えず、その時はそのまま一度国元へと帰ったのですが、どうにも気になり戻って来ました」


 捕まえられて良かった、と云う氏に、私は深く感じ入った。何という善人、何という心優しき御仁であろう!


 同時に深く己を恥じた。氏が此処に逗留するのはどうせ金持ちの気紛れ、暇潰しの道楽であろう、などと失礼極まりないことを考えていたのだ。悪戯好きの小妖精が悪さをせぬよう、遠く離れた東の島国にまで海を渡って駆け付けてくれた真の紳士を、私は金を持て余した道楽者と勘違いしていたのだ。

 黙ってはおれず、真実をありのままに告白し、許してくれなどと云うつもりはない、ただ謝らせて頂きたいと頭を下げると、氏は慌てて我が肩を掴み、顔を上げるよう促した。


「何の説明もしなかった私が悪いのです。不安にさせたくなかったもので。ですから、ミスター、どうか謝らないでください」


 硝子玉のような青い瞳が、困ったように揺れている。私は今、初めてこの異国の御仁と心から言葉を交わしたように感じた。


 数日後、見事務めを果たしたスティーブ氏は、小さな虫籠を片手にサナトリウムを去って行った。




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