13:枯蓮




 山路を散策しての帰り道、露濡れた草の上に何かを見つけた。

 薄めの茶褐色で、浅い椀型をしている。ははあ枯蓮かれはすか、もうそんな季節になったか。つい蓮根の煮物に向く意識を無理に捻じ曲げ、与謝蕪村作の句をひとつ。


  蓮枯れて 池あさましき 時雨かな


 枯蓮の姿に物悲しい風情を感ずるのは、日本人の心として至極まっとうであるように思う。

 腰を折って拾い上げ、おやと思った。本来であれば大小の穴が空いているはずの表面は、気泡のようなざらつきがあるものの平らかである。そもそも、周辺に水場はなかったはずだ。


「こりゃあ、河童の皿ではありませんか」


 談話室に持って行くと答えはすぐに知れた。矢野医師は皿を取り上げてためつすがめつしていたが、この大きさだとまだ子供ですねえ、と云うと、関心が失せたように皿を差し出した。


 矢野医師が花札の輪に混じってしまったので、仕方なく新島に向き直る。

 大きな火鉢に小型の手焙りも総動員し、談話室は一定の温度に保たれている。これまでは自室の手焙りで頑張っていた新島も、流石に身体に堪えると見え、最近は時折談話室にも顔を出すようになった。雑談にはほのりと耳を傾けている様子であるが、花札には興味がないらしい。我関せずといった顔で、筋張った手を揉んでいる。


「河童の皿とは、取り外しのきくものなのか」


 新島は、茫洋とした海を眺むるかの如き目をしていたが、欠伸混じりに、


「外れんこともないが、皿を失えば河童は死ぬ。昔、河童の皿が不老長寿の妙薬になるとの誤った情報が広く流布し、乱獲騒ぎに繋がったこともあったと聞くが、今はどうであろうな」


 遠き阿弗利加アフリカの地では、心無き密猟者のために象が絶滅の危機に瀕していると聞く――そんな調子で云うので困惑する。河童も象も、この目で見たことは一度もないため余計だろう。いやいや、本や新聞の挿絵でならば見たことがある、筆と墨でもって描かれたその姿は、どちらも実際不気味であった。

 混乱をきたし、墨絵の河童と象とがぺらぺらの身体を舞わせ、相撲の取組を始めようとしたところで、ざらりとした皿の手触りにようやく気を持ち直した。


「では、これは河童の死骸ということか……」


「いや、それは河童の干物だ」


 干物。唖然とする此方をよそに、新島は両の掌で呑気に頬をごしごしこすった。


「おおかた、霖雨に喜んでついつい遠出し過ぎたのであろうよ。水場に帰るまでに力尽きたと見える」


「このままにしておくと、まずいか」


「まずいとは」


「死んでしまわないか」


「死なん。ただ雨を待つ」


 では、迂闊に持って帰って悪いことをしたであろうか。しかし、次にいつ雨が降るとも限らぬ。寒空の下、身動きも取れず、いつ降るとも知れぬ雨を待つのは苦しかろう。


「そう云い出すだろうと思っていた。別に、放っておいても問題ないが、無駄に気を揉むくらいならばお栄さんを頼るといい。確か、廃棄前の金盥があったはずだ」


 素直にお栄さんの処へ行ってみる。お栄さんは、手の中の皿を見るとすぐに合点したようで、小さく頷くと一度部屋を出て行った。実に頼もしい後ろ姿である。戻って来た時には水を張った金盥を持っていた。


「これに沈めておくと宜しいでしょう。一晩浸けておけば、いい具合にふやけます」


 凍り豆腐の戻し方を教えるようにあっさりと云う。あやうく、河童と象の紙相撲の土俵に凍り豆腐頭の行司が乱入するところで、慌てて莫迦げた妄想を打ち払った。



 早速部屋へと持ち帰り、金盥の中心へそっと皿を落とした。乾いた皿にしゅんしゅんと水が染み込み、細かなあぶくがぶつかり合いながら水面に浮かび上がってくる。まずはこれでよし。


 圖書室に向かい、句集を二冊持ち帰る。枯蓮――実際には河童の干物であったが――を見て与謝蕪村を思い、久方ぶりで俳句に遊びたくなったのだ。


 自室に戻ると新島がいた。金盥を覗き込んでいる。手には毛布を持っていて、どうやら各部屋に配り歩いているらしい。

 このサナトリウムにお手伝いさんなどと気の利いた人員はお栄さんしかおらず、当然あちこちに手が回らない。自然、医師も雑用を請け負わねばやっていけないわけで、ここの医師が見せる気安さというのは、そういったところから生じているのやもしれぬ。


 礼を云って毛布を受け取ると、新島は金盥の方に顎をしゃくった。


「外へ出しておいた方がいい。生身に戻れば勝手に水場へ帰るだろうから」


「しかし外は寒い。夜になると尚更だ」


 新島は眼鏡を押し上げながら溜息をついた。


「おい、流石にお人好しが過ぎるぞ」


「お人好しではない、これは義務だ。一度請け負った以上は、最後まで面倒を見てやらねばならぬ。でなければ大福に顔向けできん」


「何だ、大福とは」


 新島は訝しげに眉をひそめた。


 大福とは、幼少の頃、我が家で飼っていた鸚哥インコの名である。父の会社で取引のある人から無理を云って譲り受けたのだ。家族はよせと云ったが、聞かずに幼い我儘わがままを通した。うぐいす餡のような優しい色が愛らしい鸚哥であった。

 父は私に、お前が飼うと云ったのだからお前が世話を見るようにと約束させたが、私はそれを破ってしまった。日光浴のため軒下に鳥籠を吊っておいたものを、本に夢中になるあまりすっかり忘れ、けたたましい物音に慌てて駆け出した時にはもう遅かった。鳥籠は地に落ちて割れ、大福の姿はそこになかった。


 夕暮れ時の蛮行は猫の仕業に違いなく、竹籤たけひごに混じって散らばるうぐいす色の羽根は、幼い私に強い衝撃を与えた。少しくすんだその色は、しかしいやに鮮明に目蓋の裏に焼き付いて、数日の間離れなかった。

 その夜、父から厳しい折檻を受け、その痛みにべそべそと泣いた。しかし時が経つにつれ、別の痛みが私をさいなんだ。幼稚で、無責任な我儘への後悔が、今もおりのように心の底に積もっている。


 此方が引かぬ気でいると知ると、新島は諦めた様子で手を振った。


「もういい、分かった。好きにしろ。ただし、一度水に浸けたものには決して触るなよ」


「何故だ。弱るのか」


 新島は毛布を揺すって振り返った。


「臭いのだ。これ以上なく魚臭い。数日のうちは、何を食っても腐った生魚の味がする程だ」


 これまた大仰な。新島は昔から、わざと大風呂敷を広げて見せては慌てる聞き手の顔を見て笑うような一面があった。人を揶揄からかうことが好きなのだ。


 苦笑いしながら金盥を覗くと、皿の様子が始めと違う。水を吸って膨れたものか、拾った時よりふた回りは大きく見える。

 それよりも奇妙なのは、皿の周りを取り囲む半透明状のものだ。氷よりは濁り、水饅頭よりは澄んでいて、どちらかと云えば蛙の卵に違い印象。金盥の縁を持ってそっと揺すると、半透明の被膜は、水の動きから半拍遅れて気怠げに揺れた。


 気になる。どんな触り心地がするのであろう。


 好奇心を否定してはいけない。古くより、好奇心は発明の母とも云うし、それに物書きを自負する以上、分からぬものは目で見て触って確かめて、確固たる自信を得た上で筆を握るが当然であろう。


 それで、そろりと人差し指を差し込んでみたのであるが、まず水のぬるさに驚いた。元は刺すように冷たい井戸水であったのに、人肌程まではいかぬものの、随分と手触りがやわくなっている。

 さて肝心の被膜であるが、その感触は納豆の粘りけを孕んだ煮凝にこごりの如し。指でさせばぐずりと崩れ、抜くとしつこく皮膚に絡み付いてくる。とても触っていて心地いいものではない。二度ばかり頑張ってみたがこれ以上は我慢ならず、すぐに指を引き抜いたが、この指がまた恐ろしく臭い。こうも悪意ある悪臭は初めて体験した。漁村という漁村の空気を集めて煮詰めて天突きに注ぎ、押し出したらばこんな臭いに違いない。


 慌てて井戸端に行き、無心に両手を擦り合わせていると、渡り廊下を歩く新島に見つかった。流石に気不味い。

 新島はカルテで顔を隠していたが、肩が震えていたのできっと笑っていたに違いない。今になって思えば、わざと触るよう仕向けられたように思えなくもない。もしや、新島得意の『美学ある悪戯』に嵌ったのであろうか。


 指の悪臭は、擦り合わせたことで両手へとその範囲を広げた。どのみち、どこから漂おうが構わない程に強い悪臭であったから、別に、意味もないのだけれど。



 此処へ来て初めての不味い飯を自室で食らい、半ば不貞寝のていで布団に潜った。これではせっかく配られた毛布にも臭いが移るだろうが仕方ない。構わない。もはやどうにでもなれ、という心境。窓は閉めているが鍵を掛けてはいないので、河童も程よくふやけたならば勝手に出て行くが宜しい。

 臭いと苛立ちのためになかなか寝付けずにいたが、いつしか入眠していた様子、明け方に一度びょおと寒い風が駆けていったので、さては河童が帰って行ったなとは思ったものの、起き上がるのも気怠かったので構わずにおいた。


 朝になって起きてみれば、河童は金盥ごと消えていた。廃棄するものだと云っていたので、無くなったところで構いはすまい。窓はぴたりと閉められていたので、そこは感心。しかし案の定、窓枠の処に被膜がべたりと付いていたのでかなわない。早々に拭ってしまおうとお栄さんの元へ行くと、


「河童の悪臭ですか。ならばお酢がよいでしょう」


 と云う。まるで、太陽が傘を被っているので、数日のうちに強い雨風があるでしょう、とでも云うかの如き確信に満ちた面持ち。縋る思いで酢を垂らした水に両手を浸してみれば、なんと、本当にあの悪臭が消えてしまった。重く垂れ込めた濃霧が目の前でたちまち晴れてしまったにも等しい感動、まさしく亀の甲より年の功、に尊きは人が培ってきた経験と知恵であると深く感じ入る。

 ボロ布にも酢入りの水を染み込ませ、それでもって拭ってやると、被膜は雪のように溶け、臭いも失せた。流石に毛布はどうしようもなかったが、仄かに磯の香りが漂う程度、このくらいであればご愛嬌。海辺のサナトリウムらしい趣があっていいではないか。


 おい知らなかったか、河童の悪臭には酢だぞと自慢してやりたく待ち構えていると、採血の時間になって現れたのは新島ではなく、矢野医師であった。


「明日より三日の間は進藤さんの採血を代わるようにと、昨夜、夕飯の御菜二品で買収されまして」


 悪びれもせず裏取引を暴露する矢野医師に愕然とする。悪臭はもう失せたというのに、取引が成立してしまっていてはどうしようもない。

 言葉を探し狼狽える此方をよそに、矢野医師はひくひくと鼻腔をうごめかせた。


「やあ、海の匂いがする」




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