14:お調子者の祭り
晴れ空の下、竹竿に差し掛けられた毛布が心地よさげに揺れている。
街からサナトリウムの間は一本の小道で繋がれてい、
門の辺りでは、入院患者が見舞客を見送る姿がよく見られる。何度も振り返りつ振り返りつしながら去っていく家族、あるいは友人を見送るその背はどこまでも孤独で物悲しいが、しかし、次を約束して別れられるうちはまだ幸せなのだと、最近では思うようになった。
今日から明日へ架かる橋を渡ることなど、造作無いことと思っていた。だが、橋を渡るには切符がいるのだ。切符はしかし、一定数しか配られない。
門を離れて少し行くと、そこはお栄さんの領分だ。
猫の額程の小さな畑に、四季の彩りを見せる花壇。畑は、今はその大部分に雑草が生え散らかしているものの、畝が幾つも残っているから、過去には興盛を誇っていたこともあったのだろう。
その背後には灌木の茂みが列をなしている。
このサナトリウムの木々はどれも思い思いに枝を伸ばしているが、しかし唯一の例外がこの躑躅である。月に数回、新島が鋏を入れている。
理由は単純で、この灌木は、お栄さんが洗濯物を広げるに高さとして申し分ないのだ。長物の類は竹竿に架けられるが、それ以外は常緑の枝の上に広げられる。その際、枝があまり好き勝手伸びていては都合が悪い。いたずらに引っ掛かり、衣類の
躑躅の列の合間合間に、少しく高い木が混じっている。これは
一説によれば、椿はその散り様が打首を連想させるからと武士に忌み嫌われ、爾来縁起が悪いとされているが、此処の住人はあまり流説には頓着しない
ここ数日の晴天のお蔭で、毛布に染み付いた魚臭さはじき失せた。
此方としては有難い限りであるが、矢野医師だけは少し寂しげな顔を見せた。聞けば、漁村の生まれだと云う。
「そりゃあ、僕にとっては日本海が産湯代わりみたいなものでしたから」
矢野医師は熱い汁物に息を吹きかけながら、故郷を懐かしむように目を細めた。
「山を背負った辺鄙な土地ではありましたが、随分と漁業が盛んで。味噌汁なんかはもう、色々な魚の
「俺ァ、出汁と云えば昆布出汁だな」
佐伯さんの言葉に我も我もと続く声あり、いいや鰹節だった、うちは煮干しだとの出汁談義で盛り上がったが、さて我が家はどうであったろう。とんと分からぬ。気にしたこともなかったのだから仕様がない。
ついでのように訊かれたので正直にそう話すと、
「進藤さんは、どこか
と、矢野医師がどこか憐れむような目で云った。納得がいかない。
不本意さを全身で表していると、不意に遠くでどろどろと音が鳴った。雷だ。
ひと降り来るかと窓を見遣るも、硝子の向こうには澄み切った冬の闇が垂れ込めるばかりで、雨の気配は感じられない。ならば突然来るかと身構えもしたが、暫く待っても一向に雫は降ってこなかった。
さては聞き間違いかと窓際に立つと、またどろどろと音が鳴る。今度は随分と近くなった。
硝子に手を当てて外の様子に目を凝らす。すると、風もないのにざわざわと藪の一角が揺れているのに気が付いた。獣であろうか。
尚も目を凝らしていると、音もなく人が隣に立った。佐伯さんである。すっかり外に気を向けていたもので、思わず声を上げそうになったが、佐伯さんがしぃっと人差し指を立てて見せたため寸でのところで堪えた。
佐伯さんは懐手をして窓に向かい、
「ひゃあっ、この時期の雷は恐ろしいなあ」
と、どこか芝居がかった調子で云った。すると、まるでその声に応えるようにして、どろどろ……と雷が鳴る。
「うへえ、かなわん、かなわん。おおい進藤さん、あんたンとこの雷ってえのは、一体どんな様子だったかね」
「雷ですか。そりゃあもう、どろどろ、ぴしゃんと云う具合に」
その言葉が終わらぬうちに、云った通り、どろどろぴしゃんと雷が鳴った。いよいよおかしい。
顔を背けて肩を揺らし、どうやら笑っているらしい佐伯さんを突ついて説明を求めると、
「狐。きっと未だ子供だろう。覚えたての化け術が面白くて仕方ないのさ」
と小声で云う。
興がった面々がぞろぞろと窓辺へ集まって来たものだから、雷様はいよいよ調子付き、どろどろぴしゃんの大合唱。光がないのに音だけはいやにおどろおどろしいから、奇妙なことこの上ない。
「僕のところでは、も少しこう、鐘に似た音だったように思うけどなあ」
面白がった矢野医師がそう云えば、ゴォ……ンと荘厳な鐘の音が応える。年の瀬を思わせるその音に、一同わっと喜びの声を上げた。
「違う違う。うちじゃこう、もっと甲高い音だった。ちょうど祭り囃子の当たり鉦のような」
「いや、此方のは笛の音に似ていたぞ」
途端、どろどろゴォンと鳴っていたところに、コンコンチキチキ、ぴいひゃらら、と陽気な音が混ざってくる。
すっかり気分は祭り囃子、佐伯さんなどは今にも踊り出しそうにうずうずと足を動かしている。
楽しくなって、ああだったかな、いやこうでもないと騒ぎたて、雷様もいちいち律儀に真似をするものでいよいよ興が乗り、さて次は何を頼んでみようかと唇を湿していると、不意に不機嫌な声が割って入った。
「俺の地元の雷ときたらもう、まるで天高く鳴く狐の声にも似た音だったがね」
新島だ。渋い顔をしている。
すっかり調子づいた雷様は、浮かれてひとつ、コォン!と涼やかに鳴いて見せたが、鳴いた弾みに化け術を忘れたか、ついに狐の姿を現した。狐の驚き顔なるものは初めて見た。
と見えたのも僅かな間で、
後に続こうかとも思ったが、迷っているうちに取り残された。仕方ない。新島とて、叱る相手がおらねば腹立ちも治まるまい。
新島は音を立てて椅子を引くと、荒々しく腰を落とした。
「まったく、あの連中ときたら。ここが療養施設ということを分かっているのか」
持っていた湯呑みをぐいと傾ける新島の向かいに、恐る恐る腰掛ける。新島は眼鏡の下からじろりと此方を睨んだが、取り立てて責めるようなことは云わなかった。
「そんなに喧しかったか」
「たいそう喧しかったですよ。東館の窓が震える程に」
「それは……すみませんでした」
「いいよ。どうせ煽ったのは佐伯さんだろう。あの人は楽しい事となると周囲が見えなくなるからな」
事実その通りであるが、此方にも非がないわけではないので肩身が狭い。小さくなっていると、眼鏡を外し、眉間を揉みながら新島が云った。
「いいからお前も早く休め。今夜は眠る努力をせねばならんだろうし」
「眠る努力?」
「祭り囃子を喜んでいたのは、何もお前達だけではないと云うことだ」
思わせぶりな新島の言葉にあっと叫び、慌てて自室に戻ってみると、果たして室内には陽気な囃子が未だ鳴り止まずに響いている。巻貝である。過日の祭以来すっかり大人しくなっていたものが、陽気な音を聞いては我慢ならなくなったとみえる。
「子守唄には騒がしかろう。預かっておいてやろうか」
ついて来た新島が扉の処から顔を覗かせたが、礼を云って断った。半纏に包んでしまえば我慢できないこともない。
何事もそう。過ぎたるは猶及ばざるが如し。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます