12:霖雨




 雨が冬を連れてきた。しとしとと、あえかな音と共に。

 同時に、紅葉の季節が去ろうとしている。細く降る雨に鮮やかな葉が濡れ、その身を一段黒く落とし、やがて色の境を失くしてなずみゆく。


 物静かな雨は趣があってよろしいが、夕刻頃からどろどろと空が鳴り始めた。雷である。大気を震わす音に天を仰ぎ見れば、遠く彼方で雷公が曇天を縦に横にと切り裂いていた。

 重苦しい雲から伸びる稲光は、まるでちろちろと伸びる白い蛇舌のよう、そう思っていたら、数日置いた墨の如き陰鬱な雲が、蛇本体のように見えてきた。地上に獲物を見つければ、たちまち、地獄の裂け目の如き口をがぱりと開けて襲いかかって来そうな。厭だ。這って進む類の生き物は、どうにも苦手である。


 気温差のために結露した窓硝子にそっと指を滑らせる。無機質な硝子はひぃやりと冷たい。

 そうしている内にも空は二度ばかりどろどろと鳴き、白い舌が素早く地面を舐めた。どうやら徐々に近付いているらしい。風向きのためであろうか。あるいは佐伯さんのせいかもしれぬ。


「佐伯さんがあまり熱心に『こいこい』を繰り返すもんだから、雷様が勘違いしてしまったではありませんか」


 室内に向き直り、飽きもせず花札に熱中している輪に混じる。手元のカス札を睨みつけていた佐伯さんが、器用に片眉を吊り上げて見せた。


「こっちへ『来い来い』って。雷、近付いてますよ」


「俺にそんな通力があるかってんで。どうせ来るならツキが来いッ」


 今日の佐伯さんはめっきり不調のご様子。口惜しさを隠さず歯噛みするその姿に、談話室が笑いに包まれた。


 とその時、目も眩まんばかりの閃光が走り、室内がびかりと白く染まった。あまりに強い光に影が吹き飛び、居並ぶ面々の顔が、まるで紙に書いたお面のようにのっぺりと見える程の眩しさであった。


 笑い声が一転緊張へと変わり、誰もが耳を塞いで轟音に備えた。しかし、二秒、三秒と待っても何も起こらない。たっぷり十を数えた頃になって、ようやく、そろそろと顔を見合わせながら耳から両手を離した。

 それでも暫くは空の機嫌を伺っていたが、流石にもう何もなかろうという段になると、誰ともなく溜息をこぼし、次いで擽ったい気恥ずかしさが蔓延して、あちこちで忍びやかな笑い声が上がった。恥ずかしさを取り繕うように、からっ雷なるものは知っていたが音のしない雷とは不思議だ、もしや、町の方にできたとか云う電気工場で何かあったものか、との憶測が飛び交ったが、やがて興味はより現実的で手近なところへと収まった。手持ち札の役である。



 翌日は久方ぶりの快晴、館内の気配もいつもより幾分軽く感ずる。朝食を終えると同時に外出届を記入、それを手にそそくさと執務室へ向かうと先客がいた。佐伯さんである。院長先生の判を待ちながら、にやりと笑みを交わす。


「そうだ、進藤くん。今日から外出時間を延ばしていいよ。追加でもう半刻はんときだ」


 おめでとう、と云いながら判を捺してくれる院長先生に、おうッ、と思わず歓声が洩れた。二重の意味で喜ばしい。


「快方に向かっていると捉えても?」


「というより、もともと君は西館の中でも軽度な口なのだなあ。ただ、念には念をと口喧しく云う者があったから」


 そう云うと、院長先生は悪戯っぽく片目を瞑り、


「心配性な友人を持つと大変だねえ」


 と笑った。さては新島の仕業であったか。


「奴の場合、心配性というよりは極度の完璧主義なのです。あれでよく精神が参ってしまわぬものだと感心します」


「そうかなあ。しかしまあ、時間厳守で頼むよ。僕が怒られちゃうからね」


「勿論です。では」


 いずれにせよ、外出時間が延びたことは重畳である。これで自由に出歩ける範囲がぐんと伸びた。

 それで、今日はいつもと違う道を行くことにした。普段は海の方へ向かうのであるが、真反対の山路へ。慣れた散策路を取らなかったのには、ここ最近、海を渡って冷やされた風が身に凍みるようになった、という理由もある。少し傾斜があったが、院長先生の言葉に励まされたか、脚が軽い。


 足元は少し緩くなっていたので、目を配りながら慎重に歩く。だからだろうか、木々の間から伸びるそれに、いち早く気がつけたのは。


 白い枝であった。白樺であろうか、杖にするに塩梅がよさそうだ、と思って近付いてみてぎょっとした。枝と見えたがどうにも様子が違う、どだい、この山で隆盛を誇っているのはブナの木で、白樺は未だ見たことがない。それに、そもそもが白すぎる。零れ落ちる木漏れ日以上に、どうやら自発的に光ってさえ見える。


 恐る恐る距離を縮めて、ひゃっと後退った。

 蛇である。いや違う。頭に何か生えている、まさか、これは、もしかすると……


 いつでも逃げ出せるよう重心を後ろに置きながら、少しずつにじり寄る。

 見た目はほとんど蛇と変わらない。頭に生えた対のツノ――そう断言してよいものか――を除けば。いや待て、よくよく見れば、顔付きが蛇のそれとはまるで違う。第一に鼻腔が立派である。穴の脇から細長い触覚のような、髭のようなものが伸びている。それにどうやら、顔周りには白銀しろかねの産毛がみっちり生えているらしい。蛇に体毛はなかったと記憶している。


 細長い胴体は鱗に覆われている。心持ち、一枚一枚が浮いているようにも見える。確か、獣の中には警戒心を強めると体毛を逆立たせ、己を大きく見せんとする習性のものがいたように思う。猫だったかな。だとすればあまり近付かぬがよかろう。決して逃げるための口実ではない。


 考えを巡らせながら踵を返そうとして、ふと鱗の一枚が剥がれているのに気が付いた。鱗自体はそう大きくなかったが、剥がれたところは赤黒く、眩い白銀の体表の中にあっていやに目立ち、痛々しい。

 気付いてしまった以上は見捨てていくことも出来ず、足を粘つかせていたのであるが、此処に居たところで何が出来るでもなし、結局、慌ててサナトリウムへと駆け戻った。


 前庭には新島がいた。連ねられた渋柿が沢山入った鍋を捧げ持ち、お栄さんが干し柿を吊るすのを手伝っている。

 足音が届いたものか、新島は柿よりも渋い顔で此方に首だけを向けた。


「こら、走るな」


「今ばかりは許せ。それよりも、新島、大変なのだ」


「何事だ」


「生憎と説明し得る言葉を持たぬ。見てもらうがいっとう早い。とにかく来てくれ」


 頑なに走ろうとしない新島を突つき突つき山路を急ぐ。医師にも駆けるべき時はあると知れ。

 白い生き物は同じ場所に伸びていたが、此方に気付くと心持ち鎌首をもたげ、鱗をぶわりと逆立てた。立った鱗が小刻みに震え、無数の小さな鈴が揺れるような音がする。


「龍の幼体ではないか」


 矢張りそうであったかと、音を立てぬよう生唾を呑み込む。事も無げにさらりと云ってのける新島が少し恨めしい。


「最近、音のない妙な雷が落ちなかったか」


「ああ! あった、昨日だ、皆で不思議がっていたのだ。電気工場の事故かと思ったが、違ったのか」


「違う。龍が地上と行き来する時にああやって光を放つのだ。おおかた、地上を覗いて面白がっているうち、つい夢中になって落っこちたのだろう。毎年一体か二体は落っこちてくる」


「そういうものか」


「そういうものだ。天にも地にも、そそっかしい奴というのは一定数いるものだ」


 いやに含みある云い方をするが、聞こえないふりをしておく。


「それで、どうすればいい」


「栄養をつけてやることだ。そうすれば勝手に迎えを呼ぶさ」


「栄養と云っても……」


「龍には玉子酒と、昔から相場が決まっている」


 それは初耳だ。獣から連想する食べ物というのは幾つかあるが、犬に肉、猫に魚、狐には油揚げ……ならば、末尾に『龍に玉子酒』と書き加えておかねばならぬ。


「お栄さんに玉子酒を頼んで来てくれ。訳を話せばすぐに通じる。玉子酒はお栄さんに運んでもらって、お前はもう部屋に戻れ」


「なぜだ」


「行って帰って来る間に半刻を過ぎてしまうだろう」


「ならば心配ない。ちょうど今日、外出許可が更に半刻延びたのだ」


 胸を反らして威張ると、新島は何か云いたげであったが、やがて白衣の裾に風を巻き込みながら山路を駆け下りて行った。

 手頃な石に腰掛けて待つ。暫くすると、先程の鍋に、今度は玉子酒をなみなみ入れて戻って来た。


「飲むだろうか」


「飲む。そら見ろ、もう好物の匂いに気が付いている」


 促されて振り返れば、なるほど、龍は持ち上げた鎌首をゆらゆらと揺らして此方を伺っていた。触覚、あるいは髭が、小さな波を作っている。

 ちょうど双方の中間辺りに鍋を置いて離れていると、やがて龍がおずおずと這い進み(動きはまさに蛇そのものであった)、しばらく香りを嗅いでいたが、やがて頭ごと鍋の中へと突っ込んだ。細い胴体に恐るべき勢いで玉子酒が流れ込んでいくのが、体表の波打つ様子から見て取れた。お見事、此方まで食欲を刺激される豪快な飲みっぷりである。


 並び立ち、言葉もなく龍の食事を見守っていたが、ふと新島が声を上げた。


「怪我をしているのか」


「そのことだ。待っている間に考えていたのだが、これを代わりにはしてやれないだろうか」


 懐から紗の小袋を取り出す。中身は人魚の鱗である。よく水難を避けるからと云って、お栄さんが御守りに仕立ててくれたのだ。

 龍のそれよりは幾分大きいように思われたが、この際贅沢は云っていられない。指に乗せて、さてなあ、と悩んでいると、不意に風が吹いて人魚の鱗が宙に舞った。


「あっ」


 揃えて声を上げ、欠片の行方を目で追いかける。

 鱗は、まるで意思を持つもののように確かな軌道を描き、龍の傷口へと貼り付いた。寸瞬、その部分が光って見えたがすぐに馴染んだ様子、少しばかり色合いは異なるが、まず許容の範囲内かと思われる。

 と同時に龍が鍋から顔を上げ、長い舌でもって顔周りを満足げに舐めた。舌は青黒い色をしていた。かと思えば天を見上げ、横一線に割れた口を大きく広げて、


 ――コォ……ン


 鳴いた。

 その音をどう表現しよう。およそ聞いた事のないその、どこまでも高く澄んだ音を。

 鉄の硬度と氷の明澄さを併せ持つ金属があったとして、それでもって、凝り固めた空気をえいやっとばかり打ち叩けば、きっと、ああいう音になる。


 すっかり感じ入っていると、乱暴に何かを被せられた。糊の利いた白衣であった。


速歩はやあしだ、急げ!」


 云いながら、龍が丹念に舐め上げた空鍋を拾い上げた新島は、残り滓を振るい落として頭の上にそれを掲げた。


「藪から棒になんだ」


「龍め、此方の都合も考えず、さっさと迎えを呼びやがった。じき雨が来る」


 云い終わらないうち、手の甲に最初の一滴が落ちてきた。と思えばたちまちの土砂降り、流石の新島も速歩などと悠長なことを云っているわけにもいかず、拾い上げた空鍋を編笠の代わりとし、競い合うように駆け出した。無性に可笑しさが込み上げてきて、どちらともなく笑い出す。

 哄笑しながら大人ふたりが山路を駆け下りてくる様は、さぞかし異様に映ったことであろう。慌てた様子で洗濯物を取り込んでいたお栄さんが、ぎょっとした顔で此方を見た。


 玄関に並んで倒れこみ、肩で息をしながらなお笑う。新島も空鍋を放り出し、胸に手を置いて大いに笑った。濡れた顔を拭わんとして右手を掲げ、いつの間にか何かを握り込んでいたことに気が付いた。


 指を開けば、掌の上に小さな水晶がちょこなんと乗っていた。はっとするほどに透き通ったそれは、小指の爪ほどな大きさである。薄曇りの中で、しかし水晶は虹色の光を放っていた。


「龍の涙だ」


 驚いたように声を上げ、新島が上体を寄せて覗き込んでくる。龍の涙。なるほど確かに雫型をしている。

 その時、眩しい閃光がサナトリウムいっぱいを覆った。掌で目の上に庇を作り、玄関口から空を見上げる。龍の子供は無事帰ったであろうか。


「人魚の鱗が龍の涙に化けたか。とんだわらしべ長者だ」


「しかし、僕の場合は出出しが人魚の鱗であったから、少し有利すぎやしないか」


 一瞬間のうちに晴れ上がった空を仰ぎ見て、新島は腰に拳を当てた。濡れた眼鏡を外して手に持ち、片腕でグイと顔を拭う。


「お前はそれでいいよ。昔から運だけはよかったから。長者になった暁には、当院への温情をひとつよろしく」


 無論、その際には全力を尽くす所存である。




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