11:秋の贈り物
傘松さんの傘が、日毎大きさを増している。
傘松さんはただの茸にあらず。御仏の台座である。茸の身でお釈迦様をお支えする栄誉に浴したのは、恐らくは彼女――私は傘松さんが女性であると、強く確信している――が初めてであろう。
その傘松さんの有難き傘、美しき傘が、ここへきて再びの成長を見せている。
はじめは赤子の握り拳程な大きさであったものが、気付けば幼児のそれ、少年のそれへと面積を増し、お釈迦様にも、
「お釈迦様が寝転んでしまっては、
尾を引く注射の痛みに呻いていると、矢野医師は呆れ半分に、そんな大仰な、と困ったような笑みを浮かべた。此方とて望んで醜態を晒している訳ではない。一度ご自身の腕にも注射を試してみるがよかろうと反論したく思うも、息を吸うだに痛みが冴え冴えと感じられるので、奥歯を噛んで我慢する。
矢野医師がひどく喪心していた折には早く彼の心に平穏が戻るよう祈りもしたが、矢張り、この痛みだけは勘弁願いたく思う。
「お仏像には、その御姿や手の組み方ひとつにも意味があると云います。我々のように、気紛れに胡座をかいたりはそうそう出来ぬのではないでしょうか」
そうであろうか。ならば、「ではこの形で」と決めてしまうまでには随分と思い悩まれることであろう。無理な体勢を取ってしまっては後々かなわぬ。あるいは、悟りを開かれたお釈迦様なれば、そのような些末なことに遅疑逡巡なさらぬものであろうか。
荷物を纏めて出て行きしな、矢野医師はふと足元に目を留めて、やあ、照れていると笑った。傘松さんである。この寒さに弱ってしまっては一大事と、よく乾いた紅葉を敷き詰めておいたのだ。鮮やかな葉と、傘松さんの艶ある乳白色の対比は実に美しく、いい仕事をしたと私も内心得意である。
云われてみれば確かに、着飾った傘松さんは薄っすら照れているようにも見えた。
このところ、談話室で花札に興じるが日課となっている。火鉢が置かれていることはもちろん、それに惹かれて人が集まるので、それだけで心身の暖が取れるというもの。乾いた風が窓硝子を叩いているが、空っ風何するものぞ。冬将軍など恐るるに足らぬ。
今日は観客と決め込み、懐手をして戦局を見守っていたのであるが、ふと視界の隅で何か動いたような気がして首を廻らせた。見れば、火鉢の縁に毛むくじゃらの手がかけられている。
見つめているうちに、二本目の手がかかった。腕全体でも親指程な大きさしかない。なおも観察していると、その手に力が入ったと見えるや、よっこらしょ、と云いたげな様子で小鬼が顔を覗かせた。足を引き上げ、縁の上で器用に胡座をかいて見せる。
小鬼を見るのはこれが初めてである。筋張った四肢、ぽこりと突き出た腹、ぎょろついた目玉や、表皮を覆う硬そうな産毛。梅干しのような出臍を物珍しく眺めていると、
「栗が必要なのだ」
髭だらけの口をもごもごと動かして、半ば独り言のように云う。それでいてちらちらと此方を伺っているので、詰まるところは栗を寄越せと云いたいのだろう。
平常時の小鬼の顔など見たこともないが、此方を伺うその顔は何処となく強張って見える。どうやら緊張しているらしい。鬼とはいえ小鬼、その体長はせいぜいが大人の掌程度だ。いかに痩せ型な私とはいえ、小鬼にとってはちょっとした剣山にも等しく見えるだろう。それでは恐ろしくもあろう、緊張するのも仕方がないと思えば、何やら突然愛らしく感じられてきた。
栗ならばちょうど懐にあった。散策に出た折、まだ青い毬栗が落ちていたので何とはなしに拾っておいたのだ。
手拭いの上に置いて差し出すと、小鬼はおっかなびっくり、すんすんと匂いを嗅いで確かめる様子であったが、肚を決めたように身を乗り出すと、両手で栗をがっしと掴んだ。流石小さくとも鬼は鬼、鋭い棘をものともしない。それを頭上高くに抱え上げた――かと思うと、そのままゆっくり後ろへと倒れてしまう。ああ、危ない、落ちてしまうと慌てて手を伸ばしたが、火鉢はぱちりと小さな音を立てて爆ぜたきり、小鬼も栗も忽然と消えていた。
それから小鬼は暇を見て顔を出すようになった。暇を見て、と云っても、果たして彼らに繁忙な時があるのかどうかは定かでない。
人の言葉を話す以上は此方の言葉も通じよう、ならば大いに見聞を広めんと度々会話を試みたのであるが、てんで応えが返ってこない。空惚けるように首を捻って見せた後で、己が望むものを云うだけである。
小鬼は、現れると毎回細やかな貢ぎ物を要求した。
分かっているのかいないのか、小鬼が要求するものはいつも我が手中にあって、しかし手放すに一瞬の躊躇を要するもの――例えば、いつになく筆が乗った原稿であったり、程よく熟れた無花果の実、手紙を入れておくに丁度いい塩梅の桐箱などである。もしやこれは我欲を断ち、棄てることを要求されているのではと思い至り、以来、渋面ではなく、むしろ笑顔でくれてやるよう心掛けている。
そうしていると不思議なもので、欲が本当に薄れてきた。
些末なことに心囚われる機会がめっきりと減り、心中は穏やか、まるで凪いだ春の海の如し。
「お前、このところぼんやりし過ぎではないか」
ある日、眉を顰めた新島に小言を云われた。
「そうであろうか」
「そうだ。どだい、お前は少しそそっかしいくらいが丁度いいのだ。それが、今のお前はなんだ。妙に達観しているような、老成しているような」
「悪いことではなかろう」
「しかし、気味が悪い」
からから笑い、非道いなあと云うと、新島はいっそう眉を顰め、熱を測らんと額に手を押し当ててきなどする。いつもなら少しくむっとするところであるが、どうということはない。身の内には常に涼風が吹いているかの如き心境、悟りの境地とは我欲を手離してようやく至るものと知る。まさか、小鬼は御仏の教えを広める伝教師であったか。
自室でうたた寝していると、その小鬼が久方ぶりに姿を見せた。やあ、君かと朗らかに迎える。小鬼の方も随分と慣れた様子で、始めの頃のように此方を試すようなこともなく、すぐ本題に入った。
「かみが必要なのだ」
紙。原稿用紙と合点し、机上のものを一枚取ると、そうではない、と首を振る。
「かみだ、髪」
己が毛髪を引っ張りそう訴える小鬼に、ははあ髪か、今度はまた変わったものを所望する、と思いながら、揉み上げ辺りの髪を二筋ほど摘まんだ。すると、
――お
声がする。女人の声だ。
はて
傘松さんは、まるで身を乗り出すように、その立派な傘をぐっとこちらの方に伸ばしている。ふるりと小さく震えたかと思うと、
――髪を渡すのは、お止しなさい。
もう一度、噛んで含めるようにそう云った。ぽっぴんの管を通る吐息のように、静かでいながら、確かな圧のある声音であった。
しかし、では、どうすればよいのだ。当惑していると、
――首の後ろ。襟の処から、糸屑が出ています。それを代わりにお渡しなさい。
云われるままに手を頸へやると、確かに糸屑が指に触れた。そのまま摘まんで引っ張ってみると、するするとつっかえなく抜けた。濃紺の糸である。長さとしても申し分ない。半ば戸惑いながらも差し出してみると、小鬼は両手で受け取ったそれを、がぱりと大きく開けた口の中へと放り込んだ。これには流石にぎょっとした。
小鬼の口中はぞくりとするほどに赤く、まるで地獄の釜の炎、あるいは病んだ肺が吐き出す鮮やかな血とも思われた。
小鬼は、にぃ、と満足げに笑って見せると、寝台の上から飛び降りた。と見えたが、着地する前にその姿はもう失せている。
これでよかったのか、と傘松さんの方を見遣るも、傘松さんは背筋を伸ばして澄ましたまま、もう一言も発しなかった。
次の日目を覚ましてみれば、床の処に大きな籠が置かれてあった。中には立派な毬栗が詰まっている。誰が早朝からこんなことをするだろうか、きっと小鬼の仕業に違いない。
困り果てて新島に相談する。すっかり経緯も話してしまうと、ははあ、と新島は顎をさすった。
「成る程、それでお前、最近様子が怪しかったのだな」
その云いようにむっとして、怪しいとはなんだ、とやり返せば、何がおかしいのか新島はぬたぬたと笑った。
「それより、この栗をどうすればいい」
すると新島は不意に真面目な顔になって、
「お前、小鬼に髪を渡したか」
途端、脳天に水を垂らされたように、冷たい痺れが全身をぞぞぞと粟立たせた。心中に何か騒つくものを感じながら、傘松さんの助言に従い糸屑を差し出したことを話すと、
「ならば貰っておいても問題なかろう。傘松さんに感謝することだ」
と云う。
ひとりで納得するな、訳を話せと追い縋るも、また時間の出来た時にとさっさと部屋を出て行ってしまった。薄情な奴だ。
栗のやり場に困り、まずここはお栄さんに任せるがよかろうと考えて炊事場へ。籠いっぱいの毬栗を見せると、お栄さんはたちまち顔を明るくし、今夜は栗ご飯ですねえと笑った。栗ご飯は私の好物である。ここはひとつ、小鬼にも感謝しておかねばなるまい。
小鬼からの贈り物は思わぬ人にも喜ばれた。佐伯さんである。小鬼の編んだ籠は丈夫でいいと、早速空にした籠を背負って出掛ける様子。柿でも狩りに行くのだろうか。実に気儘な御仁である。
毬栗の処理を手伝いがてら、お栄さんに小鬼のことを話してみた。するとお栄さんも新島同様、神妙な顔で、それは傘松さんにお礼を云わねばなりませんね、と云う。
「髪を渡していたら、どうなったのです」
「それは、あなた。彼らにとっては友情の証みたいなものです。勘違いされるところでしたよ」
小鬼との友情。文化を超えた交友。
悪くないように思われるが。
「いけません、いけません。そんなことになったらあなた、日がな一日小鬼の相手をさせられてしまいます」
「小鬼の相手とは?」
「籠を編んだり、木の実を拾い集めたり、釣り針に夕飯の御菜がかかるのを
小鬼とは、随分と牧歌的な生活を送っているものらしい。それはそれで魅力的だと思ってしまう自分がいたが、お栄さんは「おお厭だ」と呟き、ぶるりと身を震わせた。
ふと、毛むくじゃらの友人が、ひとりぽつねんと川縁に座っているさまを想像した。
小鬼も、もしかすると寂しかったのやもしれぬ。
そんなことを思っていると、お栄さんが
「進藤さんは、ほんに
何やら無性に恥ずかしくなり、俯いて毬栗を割るのに専念した。
このサナトリウムには、どうにもサトリが多くて困る。
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