08:巻貝の記憶




 このところめっきり朝に弱くなったように感ずる。

 いや、実際のところ問題は時間ではない。寝台だ。というより、布団である。有り体に云えば、寒くなったのだ。

 つい先頃に梅雨があり、夏になったと思えばこれである。照りに照っても緑に遮られ、思ったほどに気温が上がらないこの地に太陽が早々に匙を投げたものか。どうも、此方の夏は短いらしい。


 なかなか寝台から起き出せずにいる理由はもうひとつある。夜、まるで寝付けないのだ。


 何時如何なる時、場所に於いても安らかに入眠できることが唯一の自慢であったが――もうひとつ『健康』という自慢もあったが、今となっては笑い草である――その私をして眠らせないとは相当なものだと感服する。何にかと問われれば、毎夜鳴り響く祭り囃子に。


「いやあ、僕は聞いたことありませんけど」


 余韻を残す注射の痛みに呻く此方にはてんで興味も示さず、矢野医師が云う。この若い医師の熱意と、会話の端々で見せる潤沢な知識には強い尊敬を抱いているが、この時ばかりは恨めしく思う。


「本当に祭り囃子なんです? 何方どなたかの迷惑な鼻唄ではなくて」


「……音頭の声はしませんが、恐らくは。篠笛に和太鼓、当たりがねの音までするのです」


「陽気でいいですねえ。気が付けばもう長月ですから、納涼祭りにしては少し遅いような気もしますけど」


 確かに陽気ではあるが、毎夜やられると流石に参る。音自体はそう騒がしい訳ではなく、隣町でやっている祭りの音が、不意に風の流れに乗って届いたという具合の微かなものであるが、そのかそけき音が余計気になって寝付けない。


「しかし、眠れないとあっては心配ですね。何だか顔色もあまり宜しくないようですし。音がするのは夜だけなんです?」


「ええ。時計を見てはいませんが、恐らくは夜更けに」


「分かりました。今週、僕は宿直当番なので、新島先生に伝えておきますね」


 助かります、と頭を下げると、矢野医師は人の好い笑顔を浮かべてドアを閉めた。本当に、恐るべき注射の腕さえなければいい医師なのだが。



 その夜、矢野医師の言葉通り、建物全体が寝静まる頃になってから新島が部屋にやってきた。手に燭台を持っている。音を立てぬようそっとドアを閉めてから、燭台を掲げ、此方を見ると心持ち両眉を下げた。


「すまん、起こしたか」


「いいや、起きていた」


 途端、むっと顔を顰める。


「感心せんな。不摂生ばかりしていると、治るものも治らんぞ」


「今ばかりは許せ。祭り囃子の怪さえ晴れれば、またしっかりと休めるであろうし」


「今夜も聞こえたか」


「いいや、まだ」


 手振りで椅子を指し示すと、新島は燭台を机に置いて腰掛けた。

 揺れる光のせいだろうか、白衣が少し草臥れて見える。几帳面な新島には珍しく、顎の辺りに薄っすらと髭が生えていた。


「忙しいのか」


「お前に心配される筋合いはない」


 新島は無精髭を撫でてうそぶいていたが、凝と見つめて頑張っていると、やがて乱暴に頭を掻いた。


「……東館の患者が急変してな。なんとか落ち着いたが、念のため矢野がついている」


「悪いのか」


「悪い。一度風邪を拗らせてから、転げ落ちるように悪くなった」


 眼鏡を外し、眉間を揉む。相当参っているらしい。

 それで気付いた。奴の白衣が草臥れているのは、対応の際、患者の喀血を浴びたからではなかろうか。糊の効いた替えの白衣がなかったものと見える。

 一度だけ、西館の患者で思わぬ変局があって、医師も看護婦も大わらわで対応に追われている様を見たことがある。部屋から飛び出してきた看護婦は金盥かなだらいを手にしてい、中は血濡れた布で溢れていた。心底ぞっとし、すぐにその場を離れたのだが、ベゴニアの花弁の如きその赤色は、暫く目蓋の裏に焼き付いて離れなかった。


 新島は溜息と共に眼鏡をかけると、小さく首を横に振った。


「すまん、忘れてくれ。お前に聞かせるような話ではなかった」


「構わんさ。患者としてではなく、友として聞いたのだ」


 新島は顔を上げると、ようやく少し笑って見せた。


 それからはもっぱら懐かしい話に花を咲かせた。

 意中の女性に散々な振られ方をした前田君の話、実に勤勉な好青年であるが、足が凄まじく臭い中岡君の話、度々新島の悪戯の餌食となった原口君の話。さる教授の口真似を披露した時には、思わず大きな笑い声を上げてしまい、新島は己の不覚に頭を抱えた。口許を押さえ、してやったりとぬたぬた笑う。気付けばすっかり夜も更けていた。


 暫く待っても固まったまま動かないので、流石に声を掛けようとすると「しっ」と短く制された。


「どうやら聞こえてきたぞ」


 口をつぐみ、耳を澄ませる。静まり返った室内に、少しくぐもった当たり鉦の音が微かに聞こえてくる。


「なるほど、確かに祭り囃子だ」


 新島はゆっくり立ち上がると、音の出処を探して室内を歩き始めた。やがて寝台の反対側の壁に耳を当てると小さく頷き、此方に向き直ると壁を指で突ついて見せた。半纏を肩にかけ、新島が指した処へ耳を当てると、間違いない、祭り囃子はこの壁の中から聞こえてくる。


「さてどうするか」


「掘り返してみよう。何か尖ったものはないか」


 羽根ペンを削るペンナイフを手渡せば、新島は躊躇なく先端を壁に突き立てた。珪藻土けいそうどの壁材が剥がれ、下地の土壁が露出する。更に掘ると、何か硬いものに当たったか、ペンナイフがかちりと小さな音を立てた。


 やがて穴から転がり落ちてきたのは貝殻であった。立派な螺旋状の巻貝である。

 新島は屈み込んでそれを拾い上げると、殻の入り口に耳を当てた。ひとつ頷き、巻貝を此方へ投げて寄越す。同じようにしてみれば、驚いたことに、中から陽気な囃子の音が聞こえてきた。音は巻貝の内より生じていたのであった。


「なんと。巻貝からはさざ波の音がするものとばかり思っていた」


「海で育った巻貝から波の音が生ずるのなら、祭りが盛んな村で育った巻貝から祭り囃子が聞こえてきても不思議ではない」


 そうだろうか。しかし、理論としては正しいようにも思われる。


「余程か恋しいのであろうなあ、昔見た祭りが」


 新島の呟きを聞いていると、何やら巻貝が急に憐れに思えてきた。昔日を偲びながら、ひとり陽気な祭り囃子を奏で続けるのは、一体どれほどに孤独であろう。


「よし、やろう」


「何をだ」


「祭りだよ、時期遅れの納涼祭りだ」


「馬鹿を云え。此処には笛も太鼓もないぞ」


「なんだっていいさ。祭り囃子の代わりに、ニッポノホン(蓄音機のこと)で適当なレコードをかければよかろう。要はただ、騒ぎたいだけなのだ」


 新島は呆れたように溜息をついたが、後日、中庭で小さな祭りが開催された。なんだかんだと文句を云いながらも、患者がこういう事を云っていると、新島が院長先生に上申してくれたものらしい。面白い事好きの院長先生はひとつ返事で快諾し、無事開催の運びとなったという訳だ。


 院長先生の書斎から持ち出された蓄音機からは、松井須磨子が歌う『カチューシャの唄』が流れてい、お栄さん手製のもろこし焼きの香ばしい薫りが鼻を擽る。どうにもちぐはぐな組み合わせではあったが、そこに居る人は皆笑顔である。大半は西館の患者であったが、東館の患者も、開けた窓から楽しそうに中庭の様子を眺めている。


「はい、進藤さん」


 矢野医師に肩を叩かれ、何かと振り向けばお面を手渡された。厚紙を切ったものに竹籤たけひごを付けた、手製のひょっとこ面である。

 元々ひょっとこ自体が剽軽ひょうきんな三枚目であることは承知しているが、矢野医師が描いたと思しきそれは、尖った口が妙な具合に捻じくれており、笑いよりもいっそ哀れみを誘う面相であった。


「ほら、早くしないと始まりますよ」


 矢野医師に促され、慌ててひょっとこ面を着ける。中庭の中央では、小さな太鼓と当たり鉦を持った新島が不機嫌そうな顔を見せている。買い出しの折、わざわざ借り受けてきたものらしい。音頭を務めるのは佐伯さんである。


 懐から巻貝を取り出し、針を上げた蓄音機の隣にそっと置いてから、早や出来上がり始めた輪に足を向けた。




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