第16話 イムリス平原の戦い(4)

 戦において、最も難しいのは撤退戦の局面であると古来よく言われる。敵に背を向けて逃げ出そうとすればすかさず追撃を受け、互いにせめぎ合っていた時とは比較にならないほど死傷者の数が跳ね上がるのだ。本陣の危機を察して退却を始めたナピシム軍もゾフカール軍の容赦ない追い討ちを浴び、序盤の優勢が嘘のように崩れていった。


「凄え火力だな。あれがコサックって奴か?」


 ゾフカール軍の鉄砲隊の一斉射撃に舌を巻きながら、江千代は襲いかかる敵兵を斬り捨て必死に退路を開こうとする。火縄銃が発明された本場のアレクジェリア大陸からやって来た軍勢とあって、遠い異国からの輸入品を使っているに過ぎないナピシム人や瑞那人よりもコサックの方が遥かに多くの鉄砲を装備し、また運用方法も洗練されていた。


「どうやらそのようじゃな。無念だがこれでは勝ち目が見えぬ」


 今ここでコサックとまともにぶつかっても無惨に壊滅するだけだ。撤退を急ごうとするアロンコーンだったが、バヤーグ族も獲物を逃がすまいと猛然と彼らを追い駆け、巧みな馬術で馬を全力疾走させながら馬上から矢を射かけてくる。


「ちっ、馬の出来が違い過ぎるぜ」


 草原の騎馬遊牧民の馬は農耕馬を品種改良したナピシムの軍馬より遥かに大きくて逞しく、走る速度も数段上を行く。飛んでくる矢弾の雨を必死に掻い潜って逃げていたアロンコーンと江千代もバヤーグ軍の騎兵にたちまち追いつかれ、先回りされて行く手を阻まれる形になってしまった。


「久しぶりだね。江千代」


 進路を妨害されて馬を止めた江千代らの元に、更に側面から攻めかかってきたのは同じサムライ傭兵の北国勢であった。聞き覚えのある声に名を呼ばれて、江千代は不機嫌そうにそちらへ振り向く。


「菊丸か。お前ら一体何の真似だ?」


 どこか中性的で、瑞那人離れした色白の美顔でもある自分と同じ十六歳の若いサムライ――傭兵仲間の伊佐屋いざや菊丸きくまるに、江千代は怒りを露にして問いかける。今や北国勢・南国勢・東国勢の三部隊は完全に敵方へ寝返り、敗走するナピシム兵たちをゾフカール軍と共に追い回して殲滅していた。


「見ての通りさ。僕らサムライ部隊はゾフカール帝国に味方した。自分たちの未来のためにね」


「未来だと? こんな汚い裏切りをしたんじゃ、俺たちサムライの傭兵としての信頼はガタ落ちだ。もうこの国では仕事なんて二度と任せちゃもらえねえだろうし、恨みを買ってナピシムに住んでることすら出来なくなるかもな。全くとんでもねえことをしてくれたもんだぜ」


 戦場でこのような事態を引き起こしたとなれば、もはやナピシム人は誰一人として瑞那兵を信用しなくなってしまうだろう。それはサムライの武士道を立派な精神だと評価し、信じてくれたこの国の人々への背信でもある。憤激が収まらない様子の江千代を、菊丸は馬上で面白がるようにせせら笑った。


「どうせこの国で忠義を尽くしていたって未来はない。それよりもずっと素晴らしい展望を、ゾフカールのコサックは開いてくれたのさ」


「ああ、要するにもっと高値で買収されたって訳か。武士道が金の力に負けたとあっちゃ、いい恥晒しだな」


「違うね。金銭の報酬なんてどうだっていい。それよりも、遥か古代からの僕らの願いを彼らは叶えてくれるんだ。――聖なる故郷への帰還という悲願を」


「何を言ってんのか分かんねえよ。相変わらずだな」


 話にならないとばかりに、相手の科白の掴みどころのなさに呆れた江千代は会話をここで打ち切った。それよりも今は、ナピシム軍の本陣が敵の奇襲を受けていてアピワット王子らの命が危ないのだ。


「行ってくれ。アロンさん。こいつは俺が喰い止める」


「コーチヨ殿……」


 隣に馬を並べていたアロンコーンに江千代は言った。菊丸もナピシム人の老将などに興味はないとばかりに、彼を無視してただ江千代の方だけを見つめている。


「では恩に着るぞ。コーチヨ殿。命あらばまた会おう」


「アロンさんも気をつけてな! ……さあ、行くぜ菊丸」


 アロンコーンの馬が迂回して本陣へ向かったのを見送ると、江千代は自分の馬の脇腹を蹴って前進を命じ、菊丸に正面から果敢に挑みかかった。


「君も相変わらず喧嘩っ早いな。僕らの計画を聞いて考え直してみる気はないのかい?」


「武士道を忘れた腐れサムライの言うことなんて、聞く気にもなれねえな」


 馬と馬が交錯し、刀と刀がぶつかり合う。江千代の怒りの猛攻を悠々と受け流す菊丸は防御に徹するばかりで反撃せずにいたが、やがて相手に話し合いの意思が全くないのを悟ると馬を退かせて間合いを取り、溜息をつきながら言った。


「残念だな。君にも聖地の景色を見せてあげたかったのに。――変身ゼノキオン


「何っ……!?」


 呪文を詠唱した菊丸の体が緑色の光に包まれ、それが実体化して彼の全身を覆う硬い昆虫型の装甲となる。馬に跨った状態のまま、鋭い鎌を両手に装備したカマキリの魔人マンティダエゼノクに変身した菊丸は鞍から軽やかに飛び降りると、あふれ出す魔力を迸らせて烈風で砂嵐を巻き起こした。


「ゼノク……だと?」


「この力がある限り、僕らの計画に失敗はないよ。絶対にね」


 冷ややかに哂いつつ、右手の鎌を発光させたマンティダエゼノクは腕を振るってその破壊魔法の光刃を飛ばし江千代を攻撃する。咄嗟に馬首を捻って直撃を回避した江千代だったが、地面に命中した光刃が起こした爆風に吹っ飛ばされて落馬し地面に転がることになった。


「ふざけんなよ。この化け物め!」


 素早く立ち直って刀を構え突進する江千代。だが飛びかかって大上段から振り下ろした一撃に、マンティダエゼノクは平然と耐えると凄まじい怪力で彼を殴り倒した。


「ぐぁっ!」


「今すぐ楽にしてあげるよ。さらばだ」


 脳震盪を起こして目が回る中、ふらつきを堪えて何とか立ち直った江千代は胸に強烈な痛みを感じて呻いた。マンティダエゼノクの左手の鎌がぐさりと突き刺さり、彼の鎧とその下の肉体に大穴を穿うがったのである。


「がぁっ……! ち……畜生……」


 遠ざかる意識の中、倒れた江千代の耳に本陣の方から勝ち鬨が聞こえてくる。高らかに戦果を叫んでいるのは味方ではなく、敵のゾフカール人やバヤーグ族の兵士たちであった。


「敵の大将・アピワット王子を討ち取ったぞ!」


「プラシット王子も死んだ。ナピシム軍は壊滅だ!」


「そん……な……」


 江千代も重傷を負い、胸から血があふれ出して既に虫の息である。俺もこのまま死ぬのか、と心の中で悔しげにぼやきながら、彼は眠るように意識を失った。

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