第4話 王子と外戚と傭兵(4)
「たぁっ! とぁっ!」
ナピシム王国の都・ラプナールからおよそ十サワッド(=百キロメートル)。北東の方角から王都へ攻め込もうとする敵軍を阻む天然の防壁ともなっている峻険なヴィルット山の中腹に、ナピシムの人々が信じるトゥリエル教の神を祀ったデーンダー僧院はある。鬱蒼と茂る山林の中に建立されたその古く荘厳な寺院の広い境内で、十四歳のルワン・パトムアクーン王子は今日も日課である武術の訓練に汗を流していた。
「やぁっ!」
「はぁっ!」
ナピシムの伝統武術・チャザット。生涯不敗の伝説が残る古代の大武闘家ソムチャイ・タウィーカーン師がその百戦錬磨の戦闘経験を元に編み出したと伝わる拳法で、蹴り技を主体とした実戦的な古武術である。そのチャザットの修業に励むルワンの相手役を務めているのは、長い黒髪を黄色のリボンで結んだ三歳年上の従姉――マノウォーン家の貴族令嬢ラットリー・マノウォーンであった。
「速さは前より出てきたけど……蹴り筋が甘いですよ!」
有力貴族マノウォーン家は二代に渡って国王の妃を輩出した王家の外戚で、ラットリーの父のジラユート・マノウォーン宰相も歳の離れた自分の妹を現国王のメクスワン六世に嫁がせルワン王子を儲けている。そのジラユートの一人娘のラットリーは勇敢な姫武将として育てられ、持って生まれた利発さもあって格闘技術ではルワンよりも数段上を行く
「痛ぁっ……ひどいよラットリー」
「集中力が欠けてますよ。ルワン殿下。本物の戦場なら足払いなんかじゃなく、急所に一撃を受けて命取りになっていたところです」
尻餅をついたルワンは実の姉のように慕っている従姉の容赦ない反撃に抗議するが、ラットリーは両手を腰に当てて立ったまま、厳しい口調でルワンの隙を指摘してくる。
「でもまあ、左足の蹴りの威力はまずまずですし、右足の方も武術の型通りにちゃんとまっすぐ伸ばせるようになっておられます。殿下がこんなにご上達されるなんて、去年の今頃からすれば夢みたいですよね。修業をとても頑張っておられるのがよく分かって私も嬉しいです」
フッと一息ついて近くの木の枝に掛けていた手拭を取り、汗を拭いたラットリーは本来の人当たりの良さがにじみ出た柔和な声と表情を見せる。訳あってルワンが頭を丸めて出家し、王宮を離れてラプナール近郊のこの古い僧院に入って三年。普段は王都にいるラットリーが様子を見に訪れて武術の手合わせをする機会は年に数回しかないだけに、しばらく会わない間にルワンが成長しているのが感じられたのは彼女にとっても大きな喜びだった。
「フジザネとラットリーのお陰だよ。だからこそ心配なんだ」
四年前、まだ十歳の時に火災に巻き込まれたルワンは、運良く一命は取りとめたものの煙を吸って脳に障害を負い、右足の神経が麻痺したばかりかそれまでの記憶さえ全て失ってしまった。一時は片足が全く動かせなくなっていたルワンだが、マノウォーン家から王家に忠誠の証として人質に出されて幼い頃から王宮で一緒に育った従姉のラットリーに支えられ、更に父王が信頼する瑞那人傭兵の藤真の介助も受けながら懸命に足の運動を続けてきた結果、今では麻痺の症状はかなり良くなり、まだぎこちなさはあるもののチャザットの蹴り技も一応の形で繰り出せるまでになっている。
「フジザネはミズナ人きっての勇士。そう簡単に不覚を取ったりはしません。それは殿下もよくご存じでしょ?」
「それは、そうだけど……」
この僧院に一緒に籠もって自分の護衛と武術の指南役を務めている藤真のずば抜けた強さは、ルワンもよく分かっているし心から信頼もしている。しかしそれでも、内気な王子の表情の曇りが安心感に晴れることはなかった。彼らしい気遣いの表れでもある心配性な人柄に微笑ましさを感じつつ、ラットリーは励ますように更に言葉を続ける。
「アレクジェリア大陸の国々の武力は強大とは言っても、今回の相手は所詮ただの奴隷商人。例え手下を大勢従えていたとしても、歴戦のサムライの敵じゃありません。万が一、もし懸念があるとすれば、ああいう類の者が敵側にいた場合ですが――」
そう言いながら、振り向いたラットリーはルワンを庇うようにその前に立ち、寺院の境内の片隅に植えられた大きなマヨムの樹を見上げて鋭い声で呼びかけた。
「出て来なさい! そこにいるのは分かってるわ」
それまで気配と共に押し殺されていた邪悪な魔力が解放され、燃えるように高まってゆくのが分かる。人間のものとは思えない不気味な奇声を発しながら、樹上の茂みに潜んでいたその敵は地上へと飛び降り、花壇に咲いていた赤いアジサイの花を鋭い爪の生えた怪物のような足で無惨に踏み潰した。
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