第9話 魔の眷属(5)

 密林の奥、沼の畔に佇む小さなロギエル教の教会。数年前にこの地域一帯を襲った洪水で一部が崩れ、付近の村も壊滅して人が住まなくなったため既に放棄され廃屋と化して久しい。泥水を浴びて汚れてしまった聖クアドロスの肖像画が飾られているその朽ちかけた建物の中に、フードを被った一人の少女が入っていった。


「ご機嫌どうだい? 殿下・・


 この廃教会の住人である男に、フードを取った短い金髪の少女は明るく快活そうな声で挨拶する。殿下と呼ばれた男――その身長は決して高くはなく、まだ成長途上の少年のようでもある――は振り向いたが、顔につけている黒い鉄製の仮面のためにその表情を確かめることはできない。


「退屈としか言いようがないな。湿気のせいで胸の内まで腐り出しそうだ」


 低く冷たく、それでいてまだどこか子供らしい感情の揺らぎも籠もった声で男が答えると、白い肌をした金髪の少女――フィリーゼ王国生まれの宣教師キャメロン・ハーグリーヴスは、十五歳という異例の若さで得たその聖なる職には似つかわしくない少年のような砕けた言葉遣いで話し出した。


「その仮面、今くらいは外してもいいと思うよ。窮屈でしょ。こんなお化け屋敷みたいな薄気味の悪い場所、誰も覗きに来たりなんてしないって」


「いや……事が成るまでは油断はしない」


 歳不相応に、男はどこまでも慎重だった。小さく噴き出すように笑って、キャメロンはヴィルット山から届いたばかりの一報を彼に伝える。


「ワラドーン卿による襲撃はどうやら失敗したみたいだ。一緒にいたあのマノウォーン家の娘が、ゼノクに変身してルワンの抹殺を阻んだんだってさ」


「是非もない……ワラドーンの奴もまさか本気だった訳じゃないだろう」


 あわよくば抹殺を、と図っての襲撃だったが、必勝を求めるべき戦いでは決してない。軽い腕試しに過ぎなかったデーンダー僧院での一戦について報告を受けると、鉄仮面の男はさしてこだわりもなさそうに吐き捨てた。


「敵となりそうな者の中で、ゼノクに覚醒しているのはそのジラユートの娘だけか」


「そうだね。ゼノクの因子を秘めた魔の眷属がこの国にどれほどいるかは知る手立てもないけど、今の時点で力に目覚めてるのは僕が把握する限りはラットリー・マノウォーンただ一人」


「だったら造作もないな」


 仮面に隠れた表情をわずかに歪ませて嘲るようにわらった男の前で、キャメロンは胸元からロギエル教の聖典を取り出してその一節を読み始める。


「遥か遠い昔、神ロギエルは人間に一つの掟を与えた。楽園の中心に生えているセフィロトの木の実は決して食べてはいけない、ってね。でもある時、レオニダスという男がロギエルに背き、その禁断の果実を盗んで食べてしまった」


「それで奴が得たのがゼノク化の能力、という訳だな」


 自分がこの教会で神学を教え込んだ鉄仮面の男の言葉に、キャメロンはまさにその通りだとうなずく。ロギエル教の聖典に記された失楽園の神話によれば、禁じられた果実を取って食べたレオニダスの罪はその子孫たちにも受け継がれたとされているが、これは決して実体のない何かの象徴的な観念などではない。食べれば神の力が手に入るとされるその果実は食べた者をゼノクと呼ばれる魔人に変異させるものであり、その忌まわしく恐るべき力はレオニダスの子孫にも遺伝したのだ。


「レオニダスの血を引く人間は、マノウォーン一族の他にもまだまだいると思うんだけどね。まあゼノクの因子を持って生まれたからって全員が力に目覚める訳じゃないから、覚醒率としてはこんなものかも知れないけど。もしかしたらナピシム人は、歴史的にレオニダスの血筋とはあまり交配して来なかった人種ってこともあり得るかも」


「だからこそ我が・・王家は、レオニダスの末裔であるマノウォーン家の血を欲しがった……」


 パトムアクーン王家が二代に渡ってマノウォーン家から妃を迎えた真の動機は、レオニダスの血を引く彼らが体内に持つゼノクの因子を自分たちの血脈に取り入れることにあった。国の最高権力者である王がもしゼノクとなれば、その絶大な戦闘力をもっていかなる敵にも滅ぼされることのない強力な支配権を確立することができる。


「いずれにせよ、もう少しの辛抱だよ。待ち焦がれた復讐の時は近い。我がフィリーゼ王国は、君が栄光の座に返り咲くために手段を問わず最大限の支援を約束する」


「俺が勝った暁には、このナピシムから他のアレクジェリア大陸の国々を全て追い払い、お前たちフィリーゼ人だけを存分に厚遇してやろう」


「ありがたき幸せだね。それがこの国のためにも一番いい選択だよ。ナピシムの真の王子……ウークリット・パトムアクーン殿下」


 間もなく全てが引っ繰り返る。これから起ころうとしている壮大な事変の様相を思い浮かべながら、キャメロンは愉しげに鼻歌を歌い始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る