帰国する魔法使い

Episode1.不吉な知らせ

 それは三月末、雨降りの寒い朝のことだ。


 窓を叩く雨音で目が覚め、予期せぬ時間に起きてしまった事に頭を傾かせる。

 カーテンの隙間から覗く町並みはいつもと変わらず平穏なものだ。

 傘を差し、道を急ぐ紳士が滑稽に見えたのは、女物の雨具を手に急いでいるからだろう。

 部屋の温度計は四度の辺りで止まっている。

 いつもであればすることの出来ない二度寝というものを試してみようと再び布団を被り、寝ようとする。

 何気ない事でも、その行為の一つ一つが幸せに感じるものであった。


 壁掛け時計すらない部屋に、場違いのように存在するスマートフォン。

 それだけがこの時代に取り残されたような部屋にある唯一の現代文明の証である。

 しかし、そのスマートフォンでさえ、時計と同じ扱いを受けているようで、手にとって起動させるも時間を確認すると直ぐに机においてしまった。

 時刻は朝の六時が目前に迫ってきている。

 溜まりに溜まった仕事に追われていた昨日までであれば、既に動き始めていなければ遅い時間。

 だが、そんな状況も昨日まで。今日は久しぶりの休日だ。

 まだ惰眠だみんを貪っていてもとがめる人など誰もいない。


 この時、『メールを知らせるランプが光っていることに気付いていたら』と、後に後悔することになるとは思いもしないだろう。


 深夜まで起きていたが故に、そんな些細ささいな点に気付きはしなかった。

 今は、ベッドの中で再び眠りにつく事以外は瑣末さまつな問題である。


 雨音に耳を澄ませる。


“こういう朝も悪くない。”


 意識は再びまどろみ始める。

 外の情報を切り捨てるかのようにカーテンの僅かな隙間さえなくなるようにしっかりと。

 現実と夢の境界線が曖昧になる。

 瞼を閉じれば、そこはもう夢の国への入り口だ。


“昨日までの寝不足を取り戻せるくらい……昼を知らせる鐘が鳴るあたりまで寝たい。”


 意識は沈む。

 わずかに残った意識を手放せば、そこはもう夢の中だ。

 しかし、現実とは無情なもの。挑戦は儚くも終りを告げることとなる。


『ジリリリン、ジリリリン、ジリリリン』


 甲高く響き、耳に残るそれ。

 今はもう懐かしき黒電話というやつである。

 沈み掛けていた意識は再び浮上し、覚醒する。

 

 電話は階段を一番下まで降りたロビーに設置されている。

 二階にある今の部屋からそこまで遠くはないが近くもない。

 わざわざ電話に出るなんて事を滅多にしないので、完全に無視することに決め、布団を深く被る。

そもそもプライベートナンバーを知っている数少ない知人たちは携帯電話の方にかけてくるか、直接訪ねて来るのが通例であり、その他の人間と関わる気など端から持ち合わせてなどいない。


「……が帰ってくるまでの少しの我慢だ」


 面倒なことは同居人へ全て丸投げである。

 同居人の都合など一切考慮しないのだ。


 しばらく鳴り響いていた音が止んだ、誰かが出たのだ。

 おそらく同居人である女性が夜勤から解放され帰ってきたのだろう。

 黒電話の音によって完全に意識が覚醒してしまったので、自室のカーテンを開けた。

 窓の外に広がるのは先ほどまでとは少し変わり、霧に包まれたロンドンの町並みと相変わらずの鉛色の空。

 霧が出ているのはおそらく雨のせいだ。

 四月が近いとはいえ、雨が降れば寒いのは当然のことである。

 カーテンの隙間から覗いただけでは分からない街の全容が目の前に広がった。

 カーテンを閉めると、スマートフォンを手にとり、電源を入れた。


「ったく。今何時だよ」


 眠気など黒電話の甲高い音で飛んでしまっていたが、機嫌は悪い。

 穏やかな気分は消え失せ、悪態をつきながら時間を確かめる。


「まだ朝の六時じゃないか」


 そう、先ほど確かめた時刻から十分足らずの出来事だ。

 スマートフォンを机に置き、布団をかぶり直す。無論、寝直すために。

 途端、ドアがノックされる。

 反応を示さない部屋の住人にドアをノックする音はもう一度。


「リュウヤさん、起きていますか?」


 女性は部屋の中の神代流哉かみしろりゅうやへと確かめるように呼びかける。


「メアリーか、どうした?」


 流哉はベッドの中から布団を被ったまま応答する。

 ベッドから出る気は更々ないようだ。


「ご実家からお電話ですよ。急ぎの用みたいです」


 メアリーは電話が済んだら食堂へ来るように言い残し、部屋の前から去っていった。

 このメアリーという女性だが、フルネームはメアリー・ハワードという。

 町のバーでアルバイトをしている関係上、帰りは朝方になることもしばしばである。学生の本分は勉学にありと聞くが、金銭を自力で稼ぐこともまた学生には必要なことだ。

 流哉とメアリーの関係は偶然同じ大学で偶然住む場所が重なっただけ。恋人なんて言う浪漫の溢れるものではなく、いわゆる大学の知人とシェアハウスをしているだけの関係である。

 また彼女の親族は先代の頃より付き合いのある古い知人でもあり、恋愛感情よりも彼女には親心にも似た心配が先に来る。


 流哉はベッドから出ると、ハンガーにかけてあるカーデガンをはおり、部屋を出る。

 かすかに冬の気配が残るこの街の朝はまだ寒い。

 暖房をつければいくらかマシになるのだが、諸事情によりそれは却下である。

 霧の出ている日はなおのこと“我々には”性質が悪い。


 階段を降りる中、美味しそうな匂いが漂ってくる。

 どこの家でもある朝食前の場面を彷彿させるようだ。

 しかし、それが違和感をもたらす。

 何故なら生活の匂いがするのに気配を感じないからだ。

先ほど部屋に呼びに来たメアリーの気配すら感じない。 

 手入れが行き届いているくせに、人の気配を少しも感じさせない。

 朝食の匂いからかろうじて生活の匂いを感じるが、数時間後にはそれもなくなっている。

 人の生活している痕跡、気配というものをこの建物は消してしまうのだ。


「このボロ屋敷も、立派に幽霊屋敷に変貌したか。

 そもそも、魔術師が長年使っている割には変るのが遅すぎ……前の住人は一般人だったと言われた方がまだ信じられるってものだ。

 魔法使いが住んでようやくとは、ゴーストスポットの名折れだな」


 余計な雑念で気を紛らわすものの、目の前には黒いソレがもう迫っている。

 それは、出たら確実に良くない事が起きる気がする。

 こういう時の予感だけは外れたためしがない。


「もしもし」

『あ、もしもし、流哉りゅうや? 私、貴方のお母さんよ』


 電話をかけてきたのは流哉の母、神代雪美かみしろゆきみだった。

 この母親、流哉を心配して以前は日に一度は電話してきたほど心配性な人である。


「母さん、今何時だと思う?」

『何時って、今は夜の九時でしょう?』


 欠伸あくびをかみ殺し、呆れながら母の応答を聞き、流哉は額に手を当てる。


「母さん、時差のこと忘れているだろ」

『忘れてなんかいないわよ、失礼しちゃうわね』

「じゃあ、こんな朝早くから何の用? 急ぎの用だと聞いたから、寒い中わざわざ電話に出たんだけど」


 近くのリビングから卵の焼ける匂いが漂ってくる。

 メアリーが楽しそうに料理をしているのを想像するのは難しくない。

 彼女の料理には今まで散々な目にあってきた。

 その事実が、経験が彼の中で不安は増す。


「用がないなら切るよ。

 楽しそうに料理をしている奴を止めないと大変なことになるから」

『用はあるわよ。本当に急ぎの用が』


 電話を今すぐにでも切りそうな態度に母の声が急にトーンを変えた。

 本当に急ぎの用であることが伝わってくる

 そしてこの後の話は流哉にとって良くない話だ。

 そんな予感に頭痛を覚えつつも、その全てを覚悟し、話の続きを促す。


「なら、手短に、そして簡潔に、早く」

『緊急の依頼よ。それも冬城とうじょうの家からあなたを指名して』

「な、――――」


 寝不足からくる疲れも、寝起き特有の機嫌の悪さも全て忘れ、力が抜ける。

 受話器を落としそうになった。


「どういう事の顛末てんまつなのか詳しく話が聞きたい……母さん、ちゃんと話してくれるだろうな?」

『流哉、落ち着きなさい。そして今日は機嫌悪い?』

「機嫌が悪いのは寝起きだから。そして落ち着いているよ」

『依頼の内容は直接話すそうよ。今回の話を受けたのがお祖父さんだから、詳しい事は私達も分からないのよ』


 母親が祖父のことをきりだした瞬間、彼の受話器を握る手に力が入る。

 受話器が悲鳴をあげたところで少し力を抜く。

 彼と彼の祖父、神代厳重朗げんじゅうろうの仲はとても悪い。

 魔法を受け継いだ魔法使いの孫と魔法使いを道具のように語る祖父、正反対の二人の仲は修復不可能どころか一触即発なところまできてしまっていた。


「あいつが? また面倒ごとを持ち込んでくれたな。オレは受ける気はさらさら無いから」

『それがね、依頼の代価として冬城の二人から提示されたモノがお祖母さんから生前譲り受けたもので、あなたが探している形見の品なのよ』

「――――分かった、前言を撤回する。そっちに戻るよ」


 再び力が入り、受話器を握り潰しそうになる。

 口から出そうになった祖父への罵倒の言葉をかみ殺す。

 直ぐに落ち着きを取り戻すと、帰郷する意思を伝え、電話を切った。


 母親との通話を終え、食堂へ行くと山のように皿に料理が盛り付けられていた。


(遅かったか……)


 メアリーの趣味の一つは料理だ。

 それだけであるのならば問題はないのだが、困った事に彼女は夢中になると大量に料理を作ってしまう。特に夜勤明け等で頭が回っていないときはその確率も上がる。

 それの処理を以前一手に引き受けて以来、彼女が料理をする時はさりげなくその量を調整してきた。

 流哉は溜息を一つ、食卓に着いた。


「メアリー。急で悪いが、今日でここを発つ。たぶん、この家にはもう戻らない」

「急ですね……分かりました」

「面倒を見るという君のお兄さんとの約束を守れず、すまないと思っている。今日中に連盟とは片をつけて帰国することになった」

「そうですか。魔法連盟の重鎮の方たちはクセが強いですけど、リュウヤさんなら大丈夫でしょうね。一応、兄さんに応援お願いしておきますか?

 それと部屋の荷物はまとめておきましょうか?」

「助けはいらない。部屋に戻ったらトランクの中に詰めるから大丈夫だよ」


 流哉はコーヒーだけを飲み、席を立つ。

 再び自身の部屋に戻ると、部屋の中央に不自然にトランクが置かれているが無視する。

 衣装ダンスの中から服一式を取り出し、着替える。

 サイドボードの上に置いてあるいくつかの懐中時計の中から二つをベルトに付け、リングケースから数個の指輪を取り出しはめる。

 コートを手に取り、トランクを軽く蹴る。

 忘れそうになったスマートフォンをコートのポケットに押し込む。

 忘れて行きたいと思うここ数日の寝不足の原因である分厚い書類封筒と、それなりの厚さの書類封筒を抱える。

 蹴り倒したトランクの蓋が開いた事を確認するとドアを閉め、階段を降りると、ホールにはメアリーが見送りに出てきていた。


「行ってくる」


 いつもの調子で出て行くのは、メアリーが少しでも悲しい思いをしないようにと思ってのことだった。

 いつか来るはずの別れが唐突に、それも原因は認めたくはないが流哉にある。少しでも己の非を軽くしたいという自己満足も含まれるが。

 しかし、その思いとは裏腹に彼女は悲しそうな表情をしていた。

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