[12]悪い人には見えなかったけどなぁ*
少年の楽しそうな声が響く。目を細めて眺めていると後ろから服を引っ張られた。
「ねぇ、さっきの本当?
「アンまで疑う? 本当だよ。飲んでくれたし、飲みやすいって言ったのも本当。全部本当のこと」
「あたしあの人嫌い」
リュヴァルトが振り返った先でアネッサは膝を抱え、遠くを眺めていた。その顔には思いきり不満だと書かれている。
「自分しか見えてないんだあの人。頼りないしいつまでも少女気分で甘いことばっかり。しばらく大人しくしてたのに母さんが亡くなった途端にしゃしゃり出てきてさ……兄さんもあれのどこがいいんだか」
「母さんって、アンのお母さん?」
「そう。二年前に亡くなったんだけどね。――ほらあたし、あんたを見つけたって言ったでしょ? 母さんのお墓に行ってたの」
ああ、とリュヴァルトは頷いた。ウィンザール家の墓地は塔の下、つまり崖のすぐそばに位置すると言っていたのを思い出す。アネッサは「そういうこと」と微笑んだ。
不意にリュヴァルトの胸に夫人の言葉が浮かんだ。
「アン、あのさ……ウィルはお義姉さんの、実の息子なんだよね?」
「そうだけど。……なに? 何か言われた?」
今にも怒り出しそうな彼女に慌てて否を告げた。言ったところで火に油を注ぐ結果にしかならないのは目に見えている。
リュヴァルトはゆるりと宙を見上げた。早春の柔らかな陽射しが頬に温かい。目を閉じれば瞼裏に物憂げな佳人の横顔が蘇った。
――やはり空耳だったのだろう。なぜ
「そんなに悪い人には見えなかったけどなぁ……」
謝ることと感謝することを知っていた。このふたつがきちんとできる人に悪い人はいないはずだ。
アネッサはつんと顔を上げた。
「あたしはできるだけ顔を合わせたくない。いっつも不機嫌な顔してろくに挨拶もしない人なんて。こっちの気まで滅入るもの」
「体調が悪いときに険が出るのはある程度仕方のないことだよ」
ぼんやりと答えた青年をアネッサはじっと見つめた。にじり寄って斜め後ろからその顔を覗きこむ。
「……リュヴァルト。まさかとは思うけど……。もしかして、力使った?」
怪訝そうに尋ねてきた彼女に青年はごく軽い調子で首肯した。その途端、耳元で怒鳴られた。
「何考えてるの!? あんた、力使いすぎたせいで倒れたんでしょ!」
咄嗟にリュヴァルトは耳を押さえた。とんでもない声量だ。アネッサは話を聞けと言わんばかりにその手首を掴み、耳から外しにかかる。
その瞬間、リュヴァルトの全身を流れる血が逆流するような錯覚がした。不思議な高揚感が青年を襲い、考える力を奪う。くらくらと目眩がしてきてまるで強い酒に当てられたようだった。
――なんだこれは。
こんな感覚は今まで経験したことがない。
「兄さんだって言ってたじゃないの、義姉さんのは病気じゃないんだから気にするなって……。……え、ちょっと大丈夫? 顔真っ青よ?」
激しい口調で当たり散らしていたアネッサはハッと顔色を変えた。蒼白な顔で押し黙ってしまった青年の顔を心配そうに覗きこむ。
今度は純粋な労りの想いが流れこんできた。気遣いの類いはまま馴染みのある感情だ。けれどそういうとき少なからず含まれている
目の前がチカチカする。
リュヴァルトは大丈夫と一言返した。捕われていない方の手で彼女の縛めをそっと解くと、両目を覆って深く息を吐いた。
「……少し、目眩がしただけだよ。どうもまだ本調子じゃないみたいでさ」
いつもであればここまで他人の感情に圧倒されることはない。激情が奔流となって押し寄せるたびに熱を出していたのは子どもの頃の話だ。それから必死で力をコントロールすることを覚え、自衛に励んだ。知らなくていいことは極力知りたくなかった。
「だから余計な力を使うなって今……。部屋に戻って休む?」
「大丈夫。落ち着いてきた」
ゆっくりと目を開ける。すぐ近くに心配そうな色を滲ませた紫紺の双眸を見つけ、リュヴァルトは笑みを浮かべた。
「……夫人の、病気と違うって言うのはさ、子を産み落とすことでしか本当の意味での症状改善はないってことだから。期間も長いし、本人にとっては病気と同じくらいつらいかもしれない」
「でもそれは」
「まあ聞いて。さっきのレモン水のこともね、気持ち悪くなるから飲めないって言うなら、気持ち悪くならないようにすればいいんだ。幸い、俺にはその力がある」
そのくらいならそんなに難しくもないんだよ。リュヴァルトがそう結べば、言われたアネッサは再びむうと膨れた。話の内容は理解できる。青年の言い分もわかる。だが納得はしたくない、というところか。よほど気に入らない存在らしい。
1章[12]悪い人には見えなかったけどなぁ/イメージカット
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