2章 まぼろしの肖像画

[1]子どもなの?

 ふわ、と甘い香りが鼻腔をくすぐった。濃い花の香りだ。

 なんという花なのか、アネッサは知らない。ただ、枝いっぱいに薄紫色の小さな花が咲いているのが窓の向こうに見えていた。

 この花は元々義姉マリーのお気に入りだった。過去形なのはその当人がもう嗅ぎたくない、嫌だと言ったからだ。子を身籠った途端に嗜好が変わり、強い香りのするものに吐き気を催すようになってしまったらしい。邸内の敷地の一画を庭園に造り変え自分好みの花を植えさせていた義姉は、匂いの強いものから順に抜かせて処分した。義姉の部屋近くに植えていたものも全てがその運命にあった。

 あまりの多さにさすがに花が哀れになったアネッサは自室や自室に至る廊下の窓の外に可能な限りの量を植え直させた。義姉と同じく自身は一切手をつけていないので一体どれだけの木々が植えられたのかは知る由もない。だが春がきてこうしていい香りが辺りに漂っているのを直に感じられるようになると自分の判断は間違ってなかったなと思った。


 廊下を進み、花の香りに別れを告げて階段を下りる。すぐに曲がって歩いていけばひんやりとした冷気が身体を包んだ。季節柄、これから向かう離れは朝のうちは日が入らない。二階であればまだ日当りは良いものの、リュヴァルトの使う一階の並びは気温もなかなか上がらない。

 肌寒さを感じながらアネッサは歩みを進めた。目指すは廊下の一番奥の部屋。その扉が薄く開いているのを認め、アネッサは首を傾げた。あれではすきま風が入っているのではないか。

 両手で抱えるにようにして持っていた厳めしい装丁の本を片手に持ち直し、空いた方の手で扉を開けた。


「リュー、入るよ。兄さんから追加だって。この中の一節に……。えっ、なに!?」


 軽い調子で断りを入れ、足を踏み入れたアネッサは血相を変えた。室内は惨憺さんたんたる有様だった。

 床一面に散らばる紙、紙、紙。その真ん中、部屋の中央に設えられたテーブルにリュヴァルトがついていた。彼は卓上に突っ伏した状態のままピクリとも動かない。左手は頭の下に、右手は力なくだらりとテーブルから落ちている。

 窓から早春の冷たい風が入りこむ。卓上に積まれた書類が一枚ふわりと浮いて、滑り落ちた。アネッサは慌ててリュヴァルトに駆け寄るとその肩を乱暴に揺さぶった。


「ちょっと! ねぇ大丈夫!? 一体何が……。……リュー?」


 肩を揺するうちにアネッサは眉を顰めた。何か、違和感を覚えた。

 もしかして彼は倒れているわけではないのではないか。これはおそらく――。

 アネッサが見守る中、リュヴァルトの指がぴくりと動いた。そうしておもむろに顔が上げられる。その顔を見てアネッサは自分の推測が間違っていなかったことを知った。すうっと半眼を閉じ、彼の出方を待つことにする。

 リュヴァルトは何度か瞬きをしたあと、そばに立つアネッサに気づいた。


「あ、アン来てたんだ。どうしたの?」

「……あんたが大変かなって、少しくらいならあたしにも手伝えるかもと思って来たんだけど……」

「それは助かるなぁ。ありがとう」


 にっこりと笑みを浮かべるリュヴァルトにアネッサもにっこり微笑んだ。ついでに自らの口許を指で示してみせた。


「とりあえず拭いてくれる? その


 一見艶やかなその笑顔に底知れぬ怒りを感じ、リュヴァルトはハッと己の口許を袖で拭った。





 * *





 テーブルに山積している本や書類は、ほとんどが兄ジェラルディオンの研究室所蔵のものだ。雪花人せっかびと、中でも治癒に関する記述があるものが片っ端からここに運ばれてきている。先日リュヴァルトが研究に協力すると了承したことで、ジェラルディオンはまず簡単な確認作業から頼むことにしたようだった。


「――そこまで来たら扉が開いてるし、あんたは倒れてるように見えたし。部屋は散らかってて一体何事かと焦ったのに……まさか居眠りしてたなんて、ねぇリュヴァルトさん?」


 今アネッサは青年の真正面の席を陣取っていた。頬杖をつき、顔の真ん中には「最低」の文字を大きく貼りつけ、じとーっとめつける。対するリュヴァルトは弱々しく笑って返した。


「ごめんごめん、こういうのって苦手でさ……」


 彼の指す「こういうの」とはすなわち書類の山だ。聞けば適当に取った一枚を読み出してすぐ睡魔に襲われたらしい。頬や腕を抓ってみたり、窓を開けて冷たい外気を取り入れてみたりといろいろ抵抗を試みたが、結局は負けて眠りこんでいたというわけだ。


「すぐ終わると思ったんだよ。書かれてることが合ってるかそうでないかを調べるだけだっていうから。でもどれ見ても難しい単語ばかりでさ、これはちょっと苦戦しそうだなぁと……」


 文字を追うだけで眠くなるというリュヴァルト。子どもなの、とアネッサが突っこめば、子どもの頃についた苦手意識が抜けないんだと思う、と彼は肩を竦めた。

 アネッサは拾い集めた書類の山から一枚を取ると、ざっと目を通してみた。内容こそ専門的なものではあるが至って普通の研究資料だと思った。


「これが、難しいの?」

「えっ難しくないかな!?」

「普通だと思うけど……。あんた、これまで勉強は? 学校は行ってた?」


 顔を上げ、リュヴァルトに怪訝な目を向けた。まさか無学なわけはないだろうと半分決めつけながらも一抹の不安を感じずにはいられなかった。今までの会話や素行の印象からある程度の知性は備えていると判断していたのだが。

 問われたリュヴァルトはといえば曖昧に「まあ、一応」と笑った。


「でも読み書きはちょっと苦手かなぁ」

「ふぅん……」


 アネッサは小さく息をつき、思案する。どうしたものか。

 書類を戻し、今度は手元の本を手に取った。こちらは研究室の蔵書ではない。広く世に出回っている大衆品だ。兄から指示を受けたアネッサが朝一番にウィンザールの書庫から出してきた。


「じゃあこっちならどう?」


 めつすがめつしたそれを青年に示す。ページをめくれば専門的な語句も多少は目につく書物。だが所詮は一般向けに書かれたものである。全くの素人であるアネッサが読んでもそこそこの意味は理解できるし、これくらいならきっとウィルでも読めるに違いない。

 リュヴァルトは差し出されたそれを素直に受け取った。中身を確かめる青年を視界に収め、アネッサは書類の山に手を伸ばす。拾い集めただけで順序も内容もばらばらのそれらをまずは整えることにした。

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