[13]ありがとう!*
アネッサは眉間にしわを寄せ、不機嫌極まりない顔をしてみせる。リュヴァルトはにこやかな面持ちで口角を上げた。
「夫人が飲んでくれたらさ、ウィルが喜ぶと思ったんだ」
「……ウィル?」
「うん」
少年が母を想って、母のために作ったレモン水。好き嫌いやそのときの気分を気遣って「飲めなくても仕方ない」というのは大人の考え方だ。そういう我慢はまだ知らなくていい。
「……ウィルのこと考えてくれたのは嬉しい。ありがとう」
アネッサはしおらしく頭を下げた。それからウィルの方を眩しそうに見やった。犬のハレと一緒になって楽しそうに転げ回っている。
「本当に良い子なんだあの子。優しいし素直だし、教えたことはきちんとこなすし。探究心も向上心も持ってる」
「自慢の甥っ子なんだね」
リュヴァルトの言葉に彼女は嬉しそうに微笑んだ。けれど紫紺の双眸にはすぐ憐憫の色が宿った。
「でも家族の愛は薄いかもしれない。兄さんほとんどいないし、母はあれだから。あの子は何も言わないけどそこだけが不憫でね」
「アンがいるじゃないか。自分のことをちゃんと見てくれてる人がいるっていうのはウィルにとって自信に繋がってると思う。ウィルを見ればわかるよ。アンがどれだけ心を砕いてるか」
「……」
「アン?」
不意に黙ってしまったアネッサの顔を何気なく覗きこんだ。その瞬間、アネッサはリュヴァルトの背中を思い切り叩いた。全くもって予想外の仕打ちに青年は呻き、咳きこんだ。
アネッサはすっくと立ち上がった。
「あたしのことはいいのよ。あんたはどうなの!? 兄さんの言ってたこと、どうするかもう決めた?」
「え……、あの、いや……」
「いつまでも悩んでないですぱっと決めちゃいなさいよ! ここを出るんだったらあたしが協力するって言ってるでしょ!? 兄さんがまず勝手なんだから、あんたも好きにすればいい」
無理に言うこと聞かなくていいと憤るアネッサをリュヴァルトはぽかんと眺め、次いで吹き出した。笑う青年を見て彼女の顔はますます赤く膨れるのだが、どうにも
「リュー!」
幼い声が飛んできた。我に返ったときにはもう目の前に子どもの顔が迫り、彼は両手を伸ばして胸に飛びこんできた。
「うわっ!」
少年もろとも背中から倒れる。リュヴァルトにしがみついたままウィルはくすくすと笑みをこぼした。
「リュー、ありがとう! ぼくやっぱりレモン水作ってよかったって思ったの。お母さんのためにできることがあってほんとによかった! リューが教えてくれたからだよ。リュー、ありがとう! 大すき!」
少年が全身で発する喜びや好きという気持ちにリュヴァルトは圧倒された。彼の想いにも
驚きすぎて言葉を継げないでいると、
「いつまでもそうしてたらリューが重いよ?」
アネッサが窘めた。ぺろりと舌を出してウィルはリュヴァルトの上から身体を退ける。それでも小さな手はリュヴァルトの手をしっかり握ったまま離そうとはしなかった。とても、とても温かい手。
「他にもできそうなことがあったら、また教えてくれる?」
顔を覗きこむように聞いてくる。その様がなんとも愛らしく、リュヴァルトは目を細めて頷いた。
リュヴァルトの胸に爽やかな風が吹いていた。自分のような者に対しても本気で心配してくれて、心から感謝してくれる人がいる。見返りなしに好意を寄せてくれる人間がいる。
――こんな人たちもいるんだ。
ここに来てからというもの馴染みのないことだらけで戸惑いっ放しだ。
だけどその戸惑いも案外悪くない。
1章[13]ありがとう!/挿絵
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