[9]レモン水

 翌日、アネッサとともに現れたウィルは自作したレモン水をしっかり手にしていた。


「アンといっしょに作ったの! ほんとにかんたんだったよ」


 嬉しそうな少年とは対照的に、アネッサの顔はどことなく心配の色が濃かった。

 リュヴァルトを加えた一行はウィルの母の元へまっすぐ向かった。

 部屋の主はベッドの上で半身を起こしていた。顔は青白く、憂いを帯びた藍色の目が印象的な美女だ。緩く編んでひとつにまとめた長い金髪といい、その身にゆったりまとった肌触りの良さそうな長衣といい、どう見ても床にせる病人のそれである。前回の訪問などは仕方ないにしても赤の他人である自分が近くまで行くのはやはり躊躇ためらわれ、リュヴァルトは入口付近で待つことにした。


「お母さんおはよう。起きててだいじょうぶなの?」

「……あまり大丈夫ではないわね」


 母は気怠げに眉根を寄せた。

 ウィルは手にしていた水差しを一旦テーブルに置いた。アネッサからグラスを受け取り、水差しの中身を半分ほど注ぐ。


「あのね、レモン水だよ。ぼくが作ったの。飲んでみて」


 グラスを両手で大事そうに運んできた少年を見て、夫人は自身の口許を手で覆った。


「要らないわ。置いておいてちょうだい」

「でも、これだったらきっと飲みやすいって、教えてもらっ」

「何度も言わせないで。欲しくないって言ってるでしょう」


 どうせ吐くだけよと呟いて母は顔を背けた。

 ウィルはしばらく動かなかった。のろのろときびすを返し、グラスをテーブルに戻す。それからもう一度ベッドの方に振り向いた。


「……お母さんごめんなさい」


 小さな肩は震えていた。ウィルは頭を下げて足早に部屋を出ていった。


「ウィル!」


 その背をアネッサが追いかける。リュヴァルトも一瞬退室を考えたが、踏み出した足はそれ以上進まなかった。


 ――ウィルはアネッサに任せれば大丈夫だ。


 それよりも、と振り返る。まだこの場でできることがある。リュヴァルトは部屋の奥へゆっくり向かった。

 気配に気づいた夫人が不快な目を寄越してきた。不躾ぶしつけに一体なんだというところだろう。気づかない振りで枕元に膝をつく。


「こんにちは。いや、初めましての方がいいかな」

「誰なの。出ていって」

「俺は雪花人せっかびとなんだ。治癒の力が使えるから、アンのお兄さん……えーとあなたの旦那さんに、あなたの症状の改善を頼まれてる」

「雪花人? ……旦那さまが?」

「手を出してみて」


 リュヴァルトは片手を上向けて差し出した。しばらく無言の応酬が続く。引く素振りのない青年にやがて夫人は渋々手を伸ばした。白くほっそりしたそれをリュヴァルトは両手で上下から挟みこんだ。

 その瞬間、強い目眩が青年を襲った。


 ぐらりと身体が傾げそうになるのを両足に力を入れて踏ん張った。その間にも彼女の抱える鬱々とした気分が後から後から流れこんでくる。


 ――離したい。


 思わずそんな衝動に駆られたがこのまま放棄するわけにはいかない。ただ息を詰め、じっと耐えるしかなかった。

 大きな波をやり過ごしたところで夫人の手の甲に額を近づけた。ゆるゆると力を籠めて彼女の体内を丁寧に探っていく。

 すぐに夫人の喉元、それと胸の辺りに黒いもやが〝え〟た。

 実際に見えるわけではない。リュヴァルトの脳内にぼんやりと浮かぶのをさも見ているかのように知覚しているのだ。その人を苦しめる原因――本来体内にあってはならないものがリュヴァルトには黒いもやとなって〝視え〟る。

 リュヴァルトはその固まりをさっさと散らしてやった。この程度であればさして力を使うものでもない。幼少より治癒の技を使い続けてきたリュヴァルトにとっては朝飯前だ。

 手を離し、腰を上げてから深く息を吐いた。テーブルに置かれていたグラスを取り上げる。


「飲んでみて。吐くことはないと思うから」

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