[3]がんばるのって、どこまで?
ウィルの勉強仲間が増えた。
同席するリュヴァルトに始めこそ喜んでいたウィルだったが、彼の読み書きの程度を知るとその顔はどんどん曇っていった。
そしてそれ以上に顔を青くしたのが教師だ。
「失礼ながらお伺いしますが、ご自分のお名前は書けますかな?」
「そのくらいは。学校にもちょっと通ってたし……ああでも本当にちょっとの間だったから、文字は知り合いから教えてもらったんだけど……」
リュヴァルトは端に置いてあったペンを取るとメモ用紙にさらさらと書き留めた。はいと渡されたそれをじっと見つめるうちに教師の眉間には深いしわが刻まれていく。横からそっと覗きこんだ少年も微妙な顔つきになっていた。
大人の書く字ではない。
読めないわけではない。決して間違っているとも言わない。が、なんというか彼の書いた文字は崩れ過ぎていた。文字というよりもはや記号か暗号のようだ。何かを模した図形だと言っても通じる気がする。
渋い顔をしていた教師は更に幾つか単語を書くよう指示を出した。リュヴァルトが首を捻りながら書き上げたそれを見て、教師はいよいよ押し黙ってしまった。
「……本日はこれにて失礼いたします。ウィルトールさまには宿題として先ほどの詩を次回までに暗唱できるように。あなたさまはとにかく文字の書き取り練習を」
教師は前半部をウィルに、後半部はリュヴァルトに向かって言うと、難しそうな顔で持ち物をまとめ始めた。
「ありがとうございました先生」
少年がぴょこんと席を立つ。礼儀正しくお辞儀する彼に倣い、リュヴァルトもぺこりと頭を下げた。
* *
教師が慌ただしく退室したあと、室内には奇妙な沈黙が流れていた。簡単な子ども向けの教本をめくっていたリュヴァルトは、自分をじいっと見つめる目に気づいて「なに?」と首を傾げた。ウィルはぽつりとこぼした。
「ぼく……、大人はみんなスラスラ読めるんだと思ってた」
リュヴァルトの笑みが強張る。今眺めている教本は幼き日のウィル少年が文字の勉強を始めたときに使っていたものを出してきてくれたのだった。
「……そ、そうだね。ああいや、もちろんスラスラ読める大人の方が多いんだよ? ウィルの周りの大人はきっとみんなスラスラ読めると思うよ。ウィルも勉強頑張ればもっとスラスラ読めるようになるよ」
「うん……」
ウィルは手元の本に目を落としどこか上の空で返事をした。何やら考えこんでいるようだったがしばらくして「ねえ」と顔を上げた。
「がんばるのって、どこまで?」
「え?」
「あのね、アンがね、もっといっぱい言葉をおぼえなくちゃ大人になったときにこまるよって言うの。でもぼく、もういっぱい読めるようになったと思うんだよ。それにさ、リューはぜんぜん読めなくても今までだいじょうぶだったわけでしょ? ぼく、リューより読めてるもん。もうだいじょうぶだと思わない?」
「いや、大丈夫というか……困ったこともそれなりにはあってね……。あー、やっぱりさ、読み書きできないと困る場面ってのはなかなかに多いと思うんだ。だから、こんなことなら勉強できるときにちゃんとしとけばよかったなーって、今は思ってるよ。うん……」
青年は頬を掻きつつはははと笑った。迂闊な事は言えない雰囲気に冷や汗をかいていた。もしここで受け答えを間違えれば確実にアネッサに怒られる……ではなくて、ウィル本人のためにならない。
そこで「あ、」と思いついた。
「ほら、ウィルは大きくなったらお父さんのお仕事のお手伝いするんだろう?」
「うん」
「だったら勉強は大事だと思うよ。少なくとも俺の学力じゃさっぱりわからなかったからね」
「……うん、そっか……そうだよね」
少年は唇をきゅっと真一文字に結び、「じゃあがんばる」と頷いた。
素直で聞きわけのいいところがウィルの長所だ。健気な返事にリュヴァルトも微笑を返す。だが彼の顔つきを見ているうちに青年はふむ、と思案した。
ウィルが勉強漬けの毎日を送っているのは知っていた。特に文句も言わず、与えられた課題を日々コツコツとこなしていっているようだ。その様をアネッサは誇らしげに語ってくれる。
けれどもう少し肩の力を抜いてもいいのではないか。
勉強に限らず何事にも息抜きは必要である。一見無駄な時間を過ごしているようでもそれをするのとしないのとでは結果に雲泥の差が生じるものだと、リュヴァルトは身をもって知っている。
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