[5]肖像画の間にて

 しんと静まり返った室内で、少年はそっと顔を上げた。一緒に逃げてきた青年は真剣な面持ちのままピタリと扉にくっつき微動だにしない。彼の緊張がこちらにも伝わってきて思わずこくりと唾を飲みこむ。

 ふと視界の端に何かが映りこんだ。横目で窺えばそこにいたのは厳つい顔の老人だった。目があって、ウィルの息が瞬時に止まる。思わず悲鳴を上げかけたがすんでの所で飲みこんだ。

 老人は生きた人間ではなかった。だ。真正面から描かれたその老人はカッと両目を見開き、まるでこちらを睨んでいるかのようだ。

 なんだかとがめられている錯覚に陥り、ウィルはふるっと身体を震わせた。


「……ねぇリュー、あの」

「しぃっ、静かに」


 扉に耳を寄せ様子を窺っていたリュヴァルトは小さな声で少年を制した。しばらく沈黙が続いたがそのうちにほっと息をついた。


「行ったみたいだ。もう大丈夫」


 その声にようやくウィルも安堵の息をつく。寄り添い、すがるように青年の服の裾をきゅっと握っていた彼は、だがすぐに不安そうな顔を見せた。


「ほんとにだいじょうぶ?」

「大丈夫だよ。遠くに逃げたと見せかけて近くに潜むのはこういう場合の常套手段だからね、見つかりっこないよ」

「でも、ずっと逃げたまんまはできないでしょ? いつかはよね?」


 食い下がる少年にリュヴァルトはうっと息を呑む。ばれたら絶対怒られるよと訴えられればそれを否定することは難しく、リュヴァルトは上手く言葉を返せなかった。




『やるべきことをちゃんとやりな!!』


 アネッサの特大の雷が落ちたとき、リュヴァルトの世界からしばらく音が消えた。耳鳴りが治まる前に彼女が近づいてくるのを目にしたリュヴァルトはそのあとを直感で行動した。つまり、ウィルの手を掴み「逃げるが勝ち!」と言わんばかりに部屋を飛び出したのだ。階段を駆け下りた先、ちょうど扉が開いていた部屋へ飛びこむとサッと閉めてしまったのである。


 ウィルはまるでこの世の終わりかとも思えるほど大仰に溜息をついた。


「アン、おこるとこわいんだよ。えっと、よ、ヨウシャ、ないんだ」

「あー……容赦ないのか……それは困ったな」


 頬をポリポリ掻く。しょげかえる少年を見ていると巻きこんでしまったのが本当に申し訳ない気分になる。 長年培った経験から、考えるより先に身体が動いてしまった。

 リュヴァルトの脳裏には笑顔のアネッサが映し出されていた。真っ青な空に向かって咲く大輪の花のような、実に清々しく爽やかな笑みだ。そこに変な色気や艶めかしさは微塵もない。顔の造形は決して悪くないのに色っぽさを感じないのは彼女のさっぱりとした気性が現れているからかもしれない。




 数日過ごしてみて少しずつわかってきたのは、彼女が竹を割ったような性格だということ。

 好きなものは好き。

 嫌いなものは嫌い。

 いいことはいいし、駄目なことは駄目。

 彼女の信条は絶対で、リュヴァルトが少しでも外れたことをしようものならすぐさま叱りつけられ、つ問答無用の軌道修正が待っていた。微笑みの向こうに怒りのオーラが見えることも多々あり、その笑みの前には如何いかなる反論も言い訳も封じこまれてしまう。大いに頼りになる味方でこそあれ、なるべくなら敵に回すことはしたくはない。それがリュヴァルトがアネッサに抱いている印象だった。


「うーん……、それじゃこっそり部屋に戻って宿題しようか」


 あごに手をやり思案していたリュヴァルトは宙の一点を見つめながら呟いた。ウィルの目が丸く見開かれた。


「宿題するの?」

「やるべきことをちゃんとやっていれば、アンも怒れないはずだからね」

「……それでもおこってたら?」

「そのときはひたすら謝り倒す!」


 リュヴァルトはへらっと笑みを送った。笑顔の先で少年はなんとも言えない顔を見せた。





「それよりさ、」


 少年の手を自身の服から剥がして繋ぎ直すと、リュヴァルトは改めて室内を見渡した。


「すごい数の絵だね。……肖像画ってやつ?」


 立派な額縁に入った大小様々な絵が壁一面に掛けられていた。ほとんどが男性ひとりの絵で、毅然と立っているものもあれば立派な椅子に座っているものもある。かたや家族だろうと思われる組み合わせの絵もあって、今にも笑い声が聞こえてきそうな雰囲気にはこちらの頬もつい緩んだ。


「今までこの家をついできた人たちの絵なんだって。おじいさまとか、そのまたおじいさまとか、ずーっと昔の人のもあるし、ぼくのお父さんとお母さんのもあるんだよ。こっち!」


 手を引かれてついていくとウィルはある一枚の絵の前で足を止めた。壁に掛かった大きな額縁の中には一組の男女の姿が色鮮やかに描かれていた。堂々とした風格の男性がたおやかな女性の手を取り、寄り添うように立っている。つややかな金髪をもつ女性の頬はほんのりと薔薇色に染まりとても幸せそうだ。


「婚礼をあげたときのなんだって」


 言われてみれば確かに若く初々しい。ウィルが今七歳だそうだから少なくとも七年以上は前に描かれたものなのだろう。ふたりの表情は明るく希望に満ちている。

 良い絵だねと呟くと少年は嬉しそうに頷いた。リュヴァルトはふとあることに思い至り、室内の一画を指差した。


「あっちに赤ん坊の絵があったけど、あれってもしかしてウィル?」

「どれ? ……あ、あれはアンだよ」

「えっ、あれアンなんだ!? 金髪で愛らしくて、てっきりウィルかと思ったよ。でもそうか、それじゃ赤ん坊を抱いてるのはアンのお母さんってことか……ウィルの絵にしてはお母さんが別人みたいだなって思ってたんだ。へぇ、あれアンなのか……へぇ」


 絵のある方を眺め、驚きをそのまま口に乗せればウィルがたまらず吹き出した。


「その言い方、アンがおこるよ」

「うっ」


 リュヴァルトは芝居がかった仕草で口を押さえた。真剣な面持ちで「アンには内緒で」と懇願するとウィルはますます屈託ない笑い声を上げる。年相応の笑顔を目にしてリュヴァルトも破顔した。


「それじゃ、ウィルのはどれ?」


 その瞬間、繋がれた小さな手に力が籠った。

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