第8話「夫の愛人」
「俺と結婚する気になったか? 美しいブランシュ」
「……ヒルデガード。私から離れてください」
邸内で廊下を歩いていた私は近くに寄って来た義弟から、さりげなく距離を取った。
「君と俺が結婚すれば、君も夫の居ない未亡人として侮られることもない。亡き兄の妻を弟が娶ることだって、今までにだって良くあることだろう」
「ええ……そういうことも、確かにあるかもしれませんね」
我が家では、ないことですけど……私は出て行くので。
ヒルデガードが帰って来てからというもの、彼から使用人たちの人目も憚らずに、喪が明ければ自分と再婚しようと口説かれることが増えた。
使用人たち、特に執事クウェンティンは、アーロンの弟ヒルデガードを嫌っているようだった。
私は生活する上である程度のお金が必要だろうと、毎月決まった額のお金を渡すようにクウェンティンに指示を出していた。
けれど、ヒルデガードはそれでも金額が足りないと暴れることもあった。
私は立場上、彼に逆らえぬ使用人たちに被害が及ぶよりはと、ヒルデガードの満足するように、十分なお金を与えるようになった。
気がつけばヒルデガードは貴族として紳士らしい高価な服を着て、夜も遊び歩いているようだ。
けれど、義姉であるとは言え、ヒルデガードに私は何も言えない。キーブルグ侯爵家の血筋の正当性は、彼にあると思うからだ。
「ブランシュは、大人しく可愛らしい女性で素晴らしい。君のような人と結婚できれば、それはそれは幸せなことだろう。死んだ兄も惜しいことをした……国を守って死ねたならば、軍人としてそれも本望だろうが」
亡き兄を揶揄するようなヒルデガードの言葉を聞いて、その場に居た使用人たちの空気が悪くなったけれど、私は片手を挙げてそれを留めた。
特にクウェンティンは、無表情が常であるというのに、ヒルデガードが兄アーロンを馬鹿にしたような軽口には、とても我慢できぬようですぐに殺気立ってしまう。
兄を嘲り怒りを煽るような言葉に、私だって嫌気がさしていた。
「ええ。本当に、国を守ってくださった夫アーロンはご立派でしたわ」
「ああ。兄も悔いの多い人生にはなったろうが、それもまた運命だろう」
だらしなく白いシャツの胸元を広げたヒルデガードはそう言いながら、赤いワインを右手で持っていた丸いグラスの中で転がした。
彼の前でため息をつきそうな自分を、必死で押し留める。アーロンの弟ヒルデガードは、あまり性格は良くない。ここで私が無礼なことをすれば、それをねちねちと長い間文句を口にするだろう。
これまでの彼の振る舞いを見ていて、私だってそれを良く理解していた。
それに、自分勝手な性格の同じような人と、今まで暮らしていたから、ヒルデガードの対処法だって心得ていた。なるべく近づかず距離を取るのが一番なのだ。
その時、唐突に食堂の扉が開き、使用人が血相を変えて入って来た。
「奥様! 奥様……大変でございます」
「どうしたの? 何があったの?」
いつもは落ち着いた態度を見せる彼の慌てた様子を見て、私の実家エタンセル伯爵家に何かあったのかと思った。
というかそれ以外で、そんな混乱して不安そうな様子をするような事態が、とても思い付かなかったからだ。
もし、亡くなった夫アーロンが今も生きていれば、彼に何かがあったのかと思ってしまうところだけど……。
「邸に旦那様の愛人だと名乗る女性が、訪ねて来られました。彼女はお腹が大きく……懐妊されていて……それが、亡くなられた旦那様の子どもだと言い張るのです」
私は彼の言葉を聞いて、驚き過ぎて息が止まるかと思った。
……アーロンの愛人? それに、彼の子を懐妊しているですって?
近くに居たヒルデガードは面白そうに笑い出して、優雅な仕草で立ち上がった。
「これは、傑作だ! 兄さんは会わぬままになった妻の他にも、女が居たのか……面白い。嘘ではないのか、確かめるために、会ってみようではないか」
私とヒルデガード、そして、いつも無表情な彼が信じられないほどに凶悪な表情となったクウェンティンが続き、玄関ホールへと急いだ。
「……こちらが、その女性でございます」
そこに所在なく立っていた、見るからにおっとりとした庶民の服を着た女性は、大きなお腹を抱えながら床に座り頭を伏せた。
「申し訳ございません! アーロン様の奥様……私は、サマンサと申します! アーロン様が亡くなったと、お聞きしております……ですが、この大きなお腹では何処にも雇っていただけず……恥を承知で、こちらへと参りました」
私はその場に居た使用人から、彼女が持って来たと思しき手紙を渡された。
「これは……」
「うちの家紋入りの便箋だね。兄上は、本当に愛人を持っていたのか」
手紙を横から覗き込み、ヒルデガードは、面白そうに笑って言った。
彼の言う通りにサマンサが持ってきた手紙はキーブルグ侯爵家の家紋入りで、私も良く使う便箋だった。
男性らしい角張った文字で、愛しいサマンサへと書いてあった。
「奥様! それは偽装で、この女性の言葉は、全て嘘です。旦那様にはこれまでに愛人など、一人も居ません。いくらお腹の中にある子どもとは言え、貴族の血筋を虚偽で名乗るなどと、犯罪です。殺しましょう」
これまでにずっと黙っていたクウェンティンは流石に我慢しがたいのか、大きなお腹を庇って頭を伏せているサマンサを昏い目で見ていた。
クウェンティンはいつもは丁寧な言葉づかいで行儀良い子なのだけど、すぐに殺す殺すと言い出してしまう。
アーロンに拾われた時は下町に居たと聞いたから、その時の言葉遣いが、まだ抜けないのかもしれない。
「……ですが、今は亡き旦那様のお子さんを妊娠しているかもしれない女性を、このまま捨て置けません。こうした夫の責任を取るのも、妻としての勤め。お産が落ち着くまで、この邸で面倒をみます。サマンサさん。離れを用意させます」
「ああ! ありがとうございます! ご温情に感謝いたします!」
妊娠しているというのに、たった一人で心細かっただろうし、周囲の人目も憚らず泣き出したサマンサを見て、私はなんとも物悲しい気持ちになった。
亡き夫アーロンは、妻である私には指一つ触れずに亡くなってしまったけれど、この女性には……。
ああ。誰かが……どこからか、嘲り笑っている声が、耳に聞こえて来る。
お前は不幸から、逃げられる訳なんてない……これだって、それ見たことでしょうと。
高い地位を持つ義母にも義妹にも馬鹿にされて、実の父にまるで売り飛ばされるようにして、キーブルグ侯爵家にやって来たのに。
これでしがらみから逃れられたと安心したのも束の間、夫のアーロンはすぐに亡くなり、勘当までされるほどに素行が悪い放蕩者な彼の弟のヒルデガードは、財産ごと兄妻の私を引き継ぐ気満々だ。
それに、亡き夫の子どもを孕った愛人まで現れてしまうの……?
もう、なんだか、驚き悲しい感情なんて通り越して、逆に笑えて来てしまう。
どうしてかしら。こんな私は、もうずっと幸せになんて……なれないのかもしれない。
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