第2話「今すぐ帰りたい」
一年前にエタンセル伯爵家より今は亡きアーロンへ嫁入りして、私は名実共にキーブルグ侯爵家の一員。
旦那様に幼い頃から仕えていたという、若く優秀な執事クウェンティンの指導によって、キーブルグ侯爵家での書類仕事は板に付いていた。
貴婦人であればあまり見ない領地管理や財務管理などの仕事ぶりを夫の居ない未亡人である私に付随する価値として見出してくれる人が居るのならば、すぐにでも再婚相手は決まってくれるはず。
これまで一年間分の報酬として、それなりの持参金だけは頂き、キーブルグ侯爵家を出て義弟であるヒルデガードへ、アーロンから遺産として残された私が権利を持つ家督を全て譲るつもりだ。
先のキーブルグ侯爵に勘当されてから何年間もの放浪の末、数ヶ月前に帰還した義弟ヒルデガードは、亡くなった兄アーロンの妻だった私と結婚して、妻と共に全てを手にするつもりだったらしいけど……ヒルデガードの粗暴な性格などを含む諸事情から、私は受け入れることは難しかった。
けれど、結婚生活が一日たりともないのに私に残された亡き夫の遺産は、本来それを手にするはずの弟の元へ行くべきだとも考えていた。
だから、喪明けした私は裕福な貴族男性をなんとか自力で誘惑して、早々に庇護を頼むつもりで居た。
けど……ほんの数分も経たぬうちに、なんて弱虫で腰抜けだと罵られても良いから、この夜会会場から足早に立ち去りたい。
ただ、こうして歩いているだけだと言うのに、物欲しげな男性から複数の視線は、あちらこちらから投げかけられ、私の身体中へと纏わり付くようだった。
ぞくりとしたものが冷たいものが背筋を走って、まるで飢えた狼に狙われ囲まれた獲物になったような気分だった。
初夜だって、まだで……なんなら、恋愛だってしたことがない私に、見た目だけで男性を釣れるような色気などあるはずがないのに。
……こんな穴だらけで行き当たりばったりの作戦が、上手くいくはずもなかったわ。
うん。帰りましょう。ええ。もう一度……幸せな再婚作戦を練り直すために、ここは一旦出直しましょう。
亡き夫のように優れた軍師は、撤退をする時期を、決して見逃さないと聞くわ。逃走も立派な作戦なのだと。
帰ろうと思い直し、ドレスの裾を掴み振り返ると、そこには思いもよらぬ男性が居て目を見開き驚いてしまった。
私からほど近くに居たのは、私より少し年上で、婚約者が一昨年亡くなるという悲劇に見舞われたらしいモラン伯爵だ。
モラン伯爵は系統でいうならば、多くの女性に好まれるような正統派と言える美しい男性で、たおやかな貴族的で洗練された容姿を持っている。茶色の髪も丁寧に撫で付けられ、緑色の瞳も輝いていた。
「これはこれは、とてもお美しい……キーブルグ侯爵夫人。以前から、ダンスにお誘いしたいと思っていました。もし良ろしければ、僕と踊って頂けないでしょうか」
モラン伯爵はやけに熱っぽい眼差しで、私を見ていた。それとなく彼の目線を辿ると、大きく開かれている剥き出しの胸元の方へ。
駄目だわ。一秒でも一緒に居たくない。
「いえ。申し訳ありません……実は、もう帰ろうかと思っておりまして……」
しどろもどろの断り文句を口にしても、彼は縋るように胸に手を当てた。
「それでは、たった一曲だけでも構いません。このように美しい女性と踊る栄誉を僕にお与えください」
流れるような優雅な所作で右手を取られて、私は触れられてもいない手袋の中の肌から順に、全身が粟立つような気がした。
これは、たった一曲だけ踊るだけだとしても、むっ……無理かもしれない。
「そっ……それでは、一曲だけなら」
私は引き攣る笑顔のままで頷いた。
ここまで言われてしまえば、流石に断ることは出来ない。彼に恥をかかせることになるし、そうなれば無作法だと非難されてしまうのは私だ。
「ああ! ありがとうございます。大変光栄です。それでは、次の曲で踊りましょう」
モラン伯爵に促されて見れば、演奏されている曲の最も盛り上がるところで終わりそうだから、次の曲でダンスホールへと入る方が良さそうだ。
かっ……帰りたい。この一曲だけは耐えるしかないけれど、もう無理だわ……。
独身の貴族男性で再婚相手とするならば、今まさに目の前に居るモラン伯爵が良いのかもしれないと、私は正直に言えば以前に考えたこともあった。
多くの貴族には、政略的な意味で両家の条件に合う婚約者が既に居て……そんな相手を結婚前に亡くしてしまうことなんて、かなり稀な例だ。
だから、年若くて私と年齢が合うモラン伯爵は、再婚相手に丁度良いのではないかと、心のどこかで思っては居た。
けれど、こうして生々しい肉欲を感じさせるような熱い視線で間近で見つめられ、男性にまったく慣れていない私は怖じ気付き、涙目になり、走って逃げ出したくなった。
確かに早く再婚はしたいはしたいけど、初対面に近い状態でこんなにも欲望丸出しで迫る人は、絶対に無理……!
出会いを求めて男性に話し掛けられたいとこんな恰好をしておいて、何を身勝手なと思われる言い分かもしれないけれど、やはり再婚するならばお互いに無理せず分かり合えるパートナーが良いわ。
踊ってもいないというのに限界を迎えた私が、爛々とした目つきで手を握るモラン伯爵へと断りの言葉を口にしようとした瞬間……まるで突然の落雷のように、会場を震撼させる大声が響いた。
その声があまりに大き過ぎて、何を言ったかは判然とせずに私にも聞き取れなかった。
誰の声……夜会の中で大声を出すなんて、何があったのかしら?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます