第3話「死んだはずの夫」

 荒々しい気配に怯えて思わずビクッと身体を震わせてしまった私を庇い、モラン伯爵は怪訝そうな表情で声から聞こえた会場の入り口付近へと視線を向けた。


「このような城の大広間に、粗野な賊が入り込むだと……? 考えられない。どういうことだ?」


 亡き夫の代行で深夜にまで及ぶ執務を一年間続けたせいか、私の視力は以前に比べて格段に落ちてしまっていた。


 だから、声が聞こえてきた辺りに物々しい大きな身体の軍人らしき男性と城の衛兵が揉めている様子は見て取れるけれど、あの声を発したのがどんな人物なのか、目が悪いせいでもやがかかったように見えないから、さっぱりわからないのだ。


 夫アーロンが戦死した北の国境で繰り広げられていた連合軍との戦いは、つい先日辛くも我がシュレイド王国軍が勝利し、そろそろ前線に居た兵士たちも戻って来るだろうという噂は聞いていた。


 もしかしたら……どこだかの貴族の奥方が戦場に向かった夫には知られないだろうと、堂々と浮気をしていたのかもしれない。


 そして、戦場から城へと報告に戻った高位軍人の夫に偶然浮気現場を見つかったというところかしら……戦場帰りの軍人であれば、気性が荒れていてもおかしくはないわ。


 政略結婚の多い貴族には愛人は付きものだし、同じ罪を背負う同胞は互いにかばい合う。


 だから、ここまでの修羅場になってしまうことは、稀だけど……荒々しく大声をあげた彼は、きっと余程自らの奥方のことを、愛しているのね。


 なんだか、羨ましい……私だって誰かから、そんな風に愛されてみたいと思うもの。


「おい。そこのお前! 俺の妻から早く離れろ! さもなくば、殺す!」


 会場に吊されたシャンデリアの光を弾いて、きらめく白刃がその瞬間見えた。


 社交を楽しむはずの夜会で大声が聞こえて、何が起こったかわからない事態に事の成り行きを見守っていた貴族たちは、しばしの沈黙を破り騒然となった。


 武器が見えて物々しい気配を感じ、まさかの事態に、驚きの声があふれる。


「? おいっ……嘘だろう。あれは、死んだはずの将軍ではないか!」


「なんだ。どうなっているんだ? 一年前には、あの男の葬式だってあったはずだろう?」


 ……え?


 混乱する声の中に、聞き捨てならない言葉が聞こえ、私は戸惑った。


 死んだはずの将軍ですって?


 大声を出して怒鳴った彼自身が正気を取り戻したのか、身を挺して彼の侵入を止めていた衛兵から、剣だけは絶対に駄目だと諭されたのかは知らない。


 けれど、さっきはっきりと見えたはずの長剣をしまった彼は、こちらへと大股で近付いて来た。


 私が居る方向へと、迷いなく。


 この周辺に、彼の妻が居るということ……私?


「嘘だろう……あれは、アーロン・キーブルクだ」


 ごくりと喉を鳴らしたモラン伯爵は独り言のようにして呟き、自分は何も知らない無関係だと言わんばかりに、そそくさと私から離れて行ってしまった。


 ……嘘でしょう。待って……私だって出来ることなら、逃げ出したい。


 彼が恐れて呟いたのは、亡くなってしまった夫の名前ではない? 将軍と呼ばれる人は何人も居たとしても、同姓同名はおかしいわ……。


 逃げ出したい。けれど、こちらへと近付いて来る男性の放つ圧が、これまでに感じたこともないくらいに、あまりに強過ぎた。


 まるで、恐ろしい蛇に睨まれて固まり、その後は捕食されるしかない蛙のように、私は身体が動かせない。


 とても楽しめるような事態ではないと楽団も気がついたのか、軽快な音楽は途絶え、ダンスを止めた周囲の貴族たちは息を殺したままだ。


 それとも、これから何が起こるのだろうと、内心は期待してこちらを見ているのかもしれない。


 ……死んだはずの夫が、会ったこともない妻と、今ここで初めて会うのだから。


 私へと着々と近付いて来る彼の一挙一投足に、周囲は注目していた。


 それも、そのはず。だって、私の夫は……一年前に亡くなってしまったはずだったのに。


「なんだ。こんな……胸を出した下品な格好は……俺の妻なのに!」


 すぐ傍にまで来た彼は自分が羽織っていた軍服の上着を歩きながら脱いで、私の肩へと掛けて、前をボタンできっちりと閉めた。


 そんな時にも声すら出せず、ボタンを留めた時に、私は初めて自分の夫の顔をしっかりと見た。


 切れ長の目は、涼しげな青。軍人というには気品あり、凜として整った容貌。戦場帰りらしく無造作に切られ、頭の後ろでひとつで括られた黒髪。


 身嗜みを整えるような余裕などはなかったせいか、近付いた時にムッとするような汗の匂いもしたけれど……私は何故か、それに不快だと感じなかった。


 夫アーロンは絵姿は嫌いらしく、家には一枚も残されていなかった。


 けれど、アーロンは話に聞いていた通り、鍛えられた肉体を持つ美男子で、不機嫌な怒り表情を見せつつも、生粋の貴族であるせいか、粗野な荒々しさは感じさせない。


 ああ。嘘でしょう……私の夫は、生きていたんだ。こうして、戻って来たんだ。


 アーロンがこうして目の前に確かに存在しているのだから、わかってはいるけれど、とても信じられなかった。だって、亡くなったと思って一年間を過ごしてきたから、覆された事実がなかなか受け止められない。


 アーロン・キーブルクがこの世にはもう居ないという前提で、妻である私は何もかもを進めて来たからだ。


 激しい迫力を持つ夫アーロンは、自分の上着を着た私の手をひっつかみ、広い会場を大股で歩き出した。


 歩く速度の速い彼に先導されて私はつんのめるようにして、早足で後に続いた。


 二人が足早に歩いても、周囲の貴族たちが戸惑う騒めきの大きさは今も増すばかりで、彼の名前を呼び止める声だって、いくつか聞こえてきた。


 けれど、アーロンは迷いなくまっすぐに前へ進み、足を止めない。やがて私たちは空気が篭もる会場を抜け、ひんやりとした外気が頬に触れた。


「……そのドレスは、もう二度と着ないでくれ。俺が別のものを用意するから、捨てるように。頼む」


 振り返り心底苛立たしい様子で言ったアーロンの言葉に、私は何度も頷くしかなかった。それに何か返事をしようにも、あまりに驚き過ぎてしまって、どうしても声が出なかったのだ。


 私はこれまでに、少し無理をしていたのかもしれない。数ヶ月間、深夜に及ぶ書類仕事、夫の弟からの執拗な誘惑、夫の愛人からの訳のわからない要求。


 ……そして、極め付きは死んだはずの夫の帰還。


「おい……っブランシュ!?」


 ふっと意識が遠くなったのを感じ、先ほど会ったばかりの夫の胸に飛び込むことになってしまった。

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