第7話「勘当された弟」
「……奥様。顔色が悪いです。大丈夫ですか? どうか、無理はなさらず、書類仕事などはすべて私にお任せください。奥様はただ今までのように健やかにお過ごしください」
クウェンティンはまだ歳若いのに有能な執事で、彼に任せておけば間違いないだろうと、彼と知り合って間もない私だってそう思う。
けれど、だからと言って自分がすべきことを、彼に全て任せてしまうことなんて出来なかった。
義妹のハンナは、夫アーロンの葬式の日にやって来て私を嘲った。
『ふふっ……まあ、結婚したばかりで、夫が亡くなったの? なんだか、とっても! お義姉様らしいわ……いつでも、エタンセル伯爵家に帰ってらして。お待ちしておりますわ』
隣に無言で表情を変えず座っていた義母のグレースだって、嫁いですぐに未亡人となった私に、同じような意味合いの言葉が言いたかったに違いない。
自分たちの苛立ちのはけ口として扱っていた義娘と義姉なんて、裕福な侯爵家に嫁ぎ幸せになるべきではないと思っている。
二人の顔を思い出すたびに、自分が何も出来ない役立たずなのだと罵られた日々が頭を掠めた。
もう二度とあんな場所に帰りたくないという気持ちと共に。
だから、私は亡き夫の遺産だけで、ただ安穏として生きていくなんて、とても考えられなかった。
「いいえ……爵位と財産を旦那様が遺してくださったのに……ただ、それを受け取るだけなんて出来ません。私にも手伝わせてください」
「……旦那様より、奥様の希望を最優先するようにと伺っております。ですが、決して無理はなさらないようにお願いいたします」
クウェンティンは優秀な執事だけど、同時に優秀な教師でもあった。
何年か前に母が亡くなって以来、家庭教師がつかなくなり簡単な計算しか出来なかった私を、根気よく繰り返し指導し領地経営や財務管理の何たるかを教えてくれた。
歴史政治経済に至るまで基礎から応用までを順序立てて知り、私は結婚してから学問の楽しさを知った。
静かで平和な日々が続いた、半年後のことだった。
「兄アーロンが死んで居ないのならば、俺こそが跡取りだろう!」
大きな声で騒いでいる男性の声を聞き、私が玄関ホールへと降りれば、そこには背の高い金髪の男性が居た。
金髪金目で容姿の整った美しい男性だ。ただ、あまり性格が良さそうに見えなかった。大声を出したとても優雅とは言えない横暴な振る舞いが、目に付いてしまったせいかもしれない。
「……あれは?」
「アーロン様の弟、ヒルデガード様です。数年前にあまりに放蕩が過ぎて、先の当主様よりキーブルグ侯爵家を勘当されていたのですが……まさか、今、こちらへ帰って来るとは思ってもいませんでした」
常に冷静沈着なクウェンティンが帰ってくるはずのないヒルデガードの帰還に動揺していて、心中を表してかその赤い目は揺れていた。
アーロンの両親は、三年前に事故で亡くなってしまったらしい。ヒルデガードは、その前に勘当されてしまった弟なのだろう。
「どうすべきかしら……彼が勘当されているのは、クウェンティンの言う通りでしょうけれど、アーロン様の実の弟ならば、私なんかよりもよっぽど爵位を継ぐ資格があるはずだけど」
私は一度も会ったことのないまま亡くなった夫と書類上結婚している女で、キーブルグ侯爵の血を一滴も引いていない。
……ならば、ヒルデガードならば血を繋ぐ貴族として、一番に相応しいアーロンの後継者なのでは?
「……奥様、いけません。先のキーブルグ侯爵が勘当したからには、ヒルデガード様はもう既に、キーブルグという家名を名乗ることも許されておりません。この邸に足を踏み入れることも、旦那様は望まれないでしょう」
けれど、アーロン様は既に亡くなっていて、彼の血に一番近い弟ならば、私よりもこの邸に住む資格はあるはず。
「……このまま、見ない振り聞こえない振りは出来ないわ。とにかく、ご挨拶をしましょう。使用人たちが、どうすれば良いかわからずに、戸惑っているわ」
「はい。奥様」
玄関ホールは騒然としていたけれど、勘当されたとは言え主家の者には手だし出来ないと考えてか、集まった使用人たちはヒルデガードを遠巻きにして囲んでいた。
彼らは私の判断を待っているのだ。
「……はじめまして。アーロン・キーブルグ侯爵の妻、ブランシュです」
クウェンティンを伴って階段を降り彼に挨拶をすれば、ヒルデガードは私を見て楽しそうに笑った。
「ああ……そうか。これが、兄の妻。噂の会うこともなく、未亡人になった女性か。この兄の美しい妻も、俺のものだ!」
いきなり何を言い出したのかと私が動きを止めれば、背後に控えていたはずのクウェンティンが前に出た。
「ヒルデガード様。お待ちください。まだ……旦那様の喪が明けておりません。奥様は誰とも結婚出来ません」
「お前は……クウェンティンとか言ったか。拾われて、兄上のお気に入りだったな。平民上がりの執事如きが、俺に口答えをして生意気な……」
つかつかとこちらに近寄って来たヒルデガードは、クウェンティンの銀髪を乱暴に掴んで、立っていたクウェンティンを倒そうとした。
私は信じられない事態に、クウェンティンの前に出てヒルデガードの腕を掴み懇願した。
「止めてください! お願いします。クウェンティンに、手を出さないで!」
「奥様。どうか、僕にご命令を。今、ここで彼を殺します」
静かに私に聞いたクウェンティンを振り返り、彼の瞳を見て、ぞくりと肌が粟だった。
クウェンティンは従順な執事としての顔しか見せていなくて、冷徹な表情などこれまでに見たことがなかったから。
「……なんてことを! この方は、アーロン様の弟君なのよ」
「ですが……奥様」
ここで自分を止めるなんて意味がわからないと、不可解そうなクウェンティン……とは言っても、ここでヒルデガードを殺すようになんて、命令出来るはずがない。
悔しそうなクウェンティンを宥めるように、私は彼の二の腕を摩った。貴族に仕える使用人が主家に逆らえば、立派な犯罪行為になってしまう。
ヒルデガードはクウェンティンの髪からパッと手を離し、自分を睨みつける執事を鼻で笑った。
「こちらの未亡人は、話が早い。それでは、俺が以前使っていた部屋へと戻ろう……何。喪が明ければ、結婚しても良いらしいからな。半年ほど時を待てば、この邸も美しい妻も、全て俺のものだ!」
大声で笑いながら去っていくヒルデガードに、使用人たちは一様に怯えた様子を見せていた。
無理もないわ。亡くなった旦那様の弟が、あんなにまで乱暴な人だったなんて。
「皆、大丈夫よ。いつも通り仕事に戻ってちょうだい。クウェンティン……大丈夫? 私を守ってくれて、ありがとう」
「奥様。ヒルデガードを殺しましょう。旦那様も、そう望まれるはずです」
そうだ。夫のアーロンが死なずにここに居れば、きっと私を守ってくれただろうか。
私は実家で母の亡くなった後だって、何度も何度もそう思った。
……母が生きていてさえくれれば、私はこんなことにはならなかったのではないかと。
けれど、亡くなった人はどんなに強く望んでも、もう戻ってこないと、私は思い知っていた。
どんな苦境に陥ったとしても、自分でなんとかするしかないのだと。
「とは言っても、アーロン様は今は居ないのよ。落ち着きなさい。ヒルデガード様は勘当されたとは言え、貴族の一員。そんなことをすれば、クウェンティンが罪に問われてしまうわ」
静かに首を横に振った私に、クウェンティンは悔しそうに呟いた。
「奥様……」
「私を守るためとは言え、今後、ヒルデガード様に逆らっては駄目よ。クウェンティン。アーロン様の亡き今、彼は一番にキーブルグ侯爵家の血を濃く引いているお方。嫁いでから会いもしていない兄の妻の私などより、よっぽど爵位を継ぐのに相応しいわ」
未亡人とは言え、私はアーロンと会ってさえもいない。
たとえ、夫の遺言状があろうが、侯爵家を受け継ぐ正当な爵位後継者が帰って来たとなれば話は別だろう。
「ですが、奥様。それでは、アーロン様のご意向に逆らうことになります……」
私に向け必死で言い募るクウェンティンは、亡くなった主人アーロンに変わらぬ忠義を捧げているようだ。
きっと、亡くなったアーロンのことを尊敬し、人として愛してもいるのだろう。
居ない今もそうしてしまう程に、夫は素敵な男性だったのだろう。
「クウェンティン……嫁いで来た私によくしてくれて、貴方にはとても、感謝しているわ。けれど、こうなってしまったからには、喪が明ければ私はキーブルグ侯爵家を出ていくわ。だから、ここに残ることになるクウェンティンはヒルデガード様には逆らわない方が良いと思うの」
「奥様……それは」
「さっきクウェンティンも言った通り、喪が明ければ、私は他の誰かと再婚することも出来る。そうした方が……良いと思うの」
これは、今思いついたことでもなく、できればこうした方が良いだろうとこれまでも思っていた。
……白い結婚の未亡人など、生き馬の目を抜くような世知辛い貴族社会の中で、誰が認めてくれるだろうか。
だから、キーブルグ侯爵家の正当な血筋を受け継ぐ弟、ヒルデガードが帰って来たのであれば、彼に全てを託すことが一番に丸く収まる方法なのだわ。
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