第10話「義母の訪問」

「ええ。私もブランシュを心配していたのよ。嫁いだ先で夫がいきなり亡くなってしまうなんて、夢にも思っていなかったものだから。レナードも心配していたわ……貴方に社交が出来ているかとね」


 義母グレースは嫁いで一年近くにもなろうとしている私の元へ、突然先触れもなく訪れると、無表情のままでそう言った。


「ご心配して頂いて、ありがとうございます。お義母様」


 冷たい口調や視線などを見るに、彼女の言葉通り、私を心配などしているはずなどない。


 けれど、私は嬉しそうな声を出して、礼を口にするしかなかった。


 いつものように喪服を着て顔にもヴェールを付けている私のことを、目を眇めて見る義母は、この目に映るもの、何もかもが気に入らないと言わんばかりだった。


 これまでにエタンセル伯爵である父と義母は、私の嫁いだキーブルグ侯爵邸には訪れたことがなかった。


 アーロンよりお金を貰い持参金なしという条件で嫁ぐことは許されたけれど、それからは私は肉親でもなんでもないと考えていたのだろう。


「ブランシュ。この前、ハンナに会ったそうね」


「はい。夜会で、偶然会いました……ハンナは本当に可愛らしくて、すぐに結婚相手が決まりそうですね」


 これを聞いて、義母が前妻の娘である私を思い出した理由を理解することが出来た。


 きっと、あの時に会ったハンナが私の話をしたから、私を思い出し、自分もこうして会いたくなったのだろう。


「ええ。貴方も侯爵家に嫁いだのだから、豪華な生活をしていると思ったら……そうでもないのね。その喪服も、そろそろ寒いのではなくて?」


 私が着ている黒い喪服を、グレースはじろじろと観察していた。無遠慮で失礼な態度だけど、彼女に注意出来るはずもない。黙って耐えるしかなかった。


 彼女の言う通りに三着喪服を作ってから、私はそれを着まわしていた。


 本来ならば未亡人とは言え、常に喪服で居なければいけないということではない。


 執事クウェンティンは新しいドレスを作れば良いと何度も何度も言ってくれたけれど、私は肌着を何着か新調しただけで贅沢するつもりはなかった。


 そもそも、キーブルグ侯爵家に嫁ぐまでハンナのおさがりを着ていたし、私は贅沢する方法も知らない。


 それに……もうすぐ再婚して出て行く予定のキーブルグ侯爵家のお金なんて、自分勝手に使えるはずがないわ。


「ええ。そろそろ、一年前に亡くなった夫の喪が明けますので……」


 歯切れ悪く言った私の言葉に、義母は手に持っていた扇を開いて、興味なさそうに言った。


「ああ。確かそうだったわね。ここ一年は、大変だったでしょう」


 労いの言葉を掛けられても、この義母は絶対にそうは思っていないと理解してしまえるのも、複雑な気持ちを抱いた。


 言葉を言葉通り、受け取れない……それに、義母グレースはいつ機嫌を損ねてしまうかもわからず、私は常に怯えなくてはいけなかった。


「はい。ですが、良い使用人に恵まれましたので……」


 これは、嘘偽りのない事実だ。


 当主アーロンが居なくて嫁いでそうそうに未亡人になった私を支えてくれたのは、クウェンティンを始めキーブルグ侯爵邸で仕える使用人たちだった。


 慣れない私の至らぬ点も、慣れている彼らが居たからなんとかなったという部分も多い。


「そう……ああ。本当に良い庭ね。帰る前に、見ても良いかしら?」


「はい。お義母様。どうぞ」


 義母グレースが、癇癪を起こさずに帰ってくれた……先程からしくしくと痛んでいる胃の辺りを片手で押さえながら、私は義母に続いて立ち上がった。


 ……良かった。本当に良かったわ。


 久しぶりにこうして会った義母は、私がエタンセル伯爵家に居た時よりも、だいぶ落ち着いているように見えた。


 一年も経てば、人は変わってしまうのかもしれない。


 良きにつけ悪しきにつけ。


 庭を歩く義母が唐突に立ち止まり、道に落ちていた鋏を持ち上げた。きっと庭師が落として忘れてしまった物だろう。


「お義母様、それは私が……」


「ブランシュ! 私が怪我をしてしまうところだったわ! これを落とした庭師を、ここに呼びなさい!」


 いきなり大声で怒鳴り付けられ、私は心臓がぎゅうっと絞られるような感覚を思い出した。


 ……ああ。この人が、変わるはずなんてなかった。私は一体何を、勘違いしていたのだろう。


 義母は私が使用人と上手くやっていることを知って、その関係を故意に壊してやろうと……そう思うような人なのに。


 私の後に付いていたクウェンティンは、急ぎ走って年老いた庭師サムを連れて来た。


「クウェンティン。私とサムを残して、ここから立ち去りなさい」


「奥様? しかし……」


 私が小声で耳打ちしたクウェンティンは、戸惑っているようだ。けれど、余計な人がここに残れば、彼らにも累が及ぶ可能性だってあった。


 無関係な人を巻き込みたくない。


「良いから、行きなさい!」


 初めて彼に声を荒げて命令した私に驚いたのか、クウェンティンは慌てて頭を上げた。


「奥様……かしこまりました」


 私と庭師サム、そして義母のグレースのみになったその場で、怒声が響いた。


「私がこれを踏んで怪我すれば、どうするつもりだった!? そこの使用人を、お前はどうするつもりなの。ブランシュ!」


「本当に申し訳ありません。お義母様。使用人の粗相は、私の責任です。私が代理で責任を取ります」


 ここで私がこう言わずに、義母にサムを引き渡すことになれば、彼は死んでしまう。


 公爵家出身の義母は、それが許される大きな権力を持っている。


 義母は私にこう言わせるために、使用人の粗相を探していたのだ。


 それは、私だって理解していた。けれど、広い庭を剪定しなければならない庭師が、何か落とし物をするなんて、良くあることだ。サムは悪くない。


 何もかも、油断していた私が悪い。使用人に良くして貰っているなど、義母に対しては決して言ってはいけなかったのに。


「座りなさい。ブランシュ……どうすれば良いか、お前には良くわかっているでしょう?」


「……はい」


 私は服が汚れることも気にせず、地面に膝をついた。両手を差し出し、ぎゅっと目を閉じる。


 ヒュンっと風を切る音に、身体が震えてしまった。


 ……怖い。逃げ出したい。怖い。すぐに終わる。怖い。我慢していれば、すぐに……。


 手に鞭を打つ音が聞こえて、義母が十数えるのを待った。


「……使用人は、もっと厳格に躾けなさい。ブランシュ」


「はい……ありがとうございます」


 終わった……私は手のひらにある熱い痛みに悲鳴をあげそうな口を一旦閉じて、義母にお礼を言った。


「帰るわ……わかっているわね? ブランシュ」


「はい。わかっております。ご指導ありがとうございました」


 妙に優しげな猫撫で声を出す義母に無理矢理微笑み、私は膝をついたままで頭を下げた。


「奥様……」


 足音が遠ざかり、誰かが私の元へと駆け付けた。そちらへと目を向けると普段は愛想のないサムが、血相を変えていた。


「……大丈夫よ。気にしないで。私が貴方を雇っているのだもの。責任は私にあるわ……けれど、このことは誰にも言わないで。他言無用よ。絶対に言わないと約束して……クウェンティンにも」


「奥様……しかし!」


「それを聞いた誰かにも、貴方も、危険があるかもしれないから。良いわね。巻き込みたくないの」


 私の真剣な言葉を聞いたサムは息を呑み、しわが刻まれた目に涙を浮かべた。


「必ず、約束いたします……なんと、おいたわしい。奥様は何も悪くないのに。こんなことが、許されて良いのでしょうか」


 黒い手袋をしているにも関わらず生地が破れ、皮膚がめくれた私の手を見て、悲しそうだ。


 私はぎゅっと手を閉じて、じんじんとした痛みから気を逸らした。


 大丈夫……こんな怪我、すぐに治る。けれど、サムのような平民の命は、義母にとっては気にするほどもないものだった。


 彼の命に比べれば、こんな傷……なんでもない。


「ねえ。サム。私、もうすぐここを出ていくの。もうすぐ、亡くなった旦那様の喪が明けるから……だから、そういう意味でも問題を起こしたくないの。お願いだから、黙っていてね?」


 そうだ。問題は起こしたくない。だって、もし誰かと再婚するのなら、そうであった方が良い。


 涙ぐんだサムは何度も頷き、握った私の手を覆うように手で包んだ。


「何も出来ず、本当に申し訳ありません。もし、旦那様が生きておれば、きっと奥様を守ってくださったでしょう」


「……ふふ。そうね……旦那様は、恐ろしい二つ名のあるほど強い将軍だもの……本当に、生きていてくれれば、良かったのに」


 心から、そう思う。夫が生きて居てくれたなら、私がここまで思い悩むことだってなかったはずだ。


 義母からだって、守ってくれた。


「奥様……」


 生きていれば……私はこれまでも、何度も何度もそう思った。


 けど、何年も前に亡くなったお母様が生き返るはずもなくて、会う前に亡くなってしまった夫も蘇って助けてくれるはずもない。


 だから、私はここから自分の手で抜け出さなくては……白馬に乗った王子様なんて、どこにも居るはずもなく、誰も助けてなんてくれないのだから。


 ぽたりと地面に涙が落ちた。


 こんな悲しい日々も、もう少しで自分の手で終わりにする。


 自分の手で、幸せになる。


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