第21話「海辺」
気がつけば、海辺にまで辿り着いていた。
走り疲れた私は岩場に座って、月の光が映る波をただ見た。それを、綺麗だと思った。
落ち着いて考えてみて……わかっていた。このまま、こんな風に逃げ出したままではいけない。
どれだけ辛い事であったとしても、彼と結婚しているという事実がある限り、アーロンと向き合わなければならない。
ヒルデガードから私と結婚したのは爵位のためだと知らされてから、その事しか考えられなくなっていたけれど、これまでにアーロンがくれた優しさを思い出していた。
……結婚してからすぐに、死んだ振りをしていた事は責められない。
アーロンはこの国を守るために、それこそ手段を選ばなかっただけだ。
騙すなら身内からと言ったもので、妻の私が彼を生きていると知っていれば、そこから綻びが生まれて、連合軍に敗れていたかもしれない。
勝つか負けるか……生きるか死ぬか。そんな戦いを、指揮官である将軍として強いられていたのだから。
文字通りに死に物狂いで、アーロンは何倍もの軍勢相手にこのスレイデル王国を守ったのだ。
……妻の私ごと。アーロンはそう言ってくれた。それは、嘘ではないと思う。
アーロンは感情的で荒々しい部分はあるけれど、帰って来てから私には常に優しかった。
好きな色はなんだと聞いてくれて、怪我を見つければ良い薬を買ってくれた。ただ、その場限りの都合の良いことを言ってくれるだけではなくて、十分に態度で私への愛情を示してくれた。
偽物の優しさかもしれない。けれど、あんな風に話し合いもなく走り去ってしまって良い相手ではなかった。
……戻ろう。アーロンだって何か言いたいことはあったはずで、私はそれを聞かぬままに居てはいけない。
これまで一年間傍に居なかったとしても、夫アーロンが私のことを守り、安全な居場所を用意してくれた事には変わりなく、たとえ爵位を継ぐための道具であったとしても、この上なく大事にしてくれたのだから。
私は置いてきぼりにしてしまった夫の元へ戻ろうと決意して、立ち上がろうとした。
その瞬間に、誰かに背中を押された。
ドレスのスカートは水面にふわりと広がり浮くと、私は咄嗟にスカートの紐を解いた。
以前に何かの話のついでに、執事クウェンティンが話してくれた内容を覚えていたからだ。
ドレス姿で水に落ちれば大変だと言った私に対し、彼はスカートさえ外してしまえば助かるだろうと言ったのだ。
今は空気を含んでいて水面に浮いたとしても、水に濡れたスカートの重させいで引き摺り込まれるように沈んでしまう。
だから、スカートさえ先に外してしまえば、最悪の事態は避けられるだろうと。
クウェンティンは何故か私に、こういう危機があればこうすれば良いと話してくれる機会が多かった。それで助かることが出来たのだから、彼には感謝しなければ……。
身軽な格好になった私は、とにかく岸に上がろうと顔を上げると、とある人物の顔が見えた。
「あ……あなたは!」
沈みゆく様子を観察しようとしてか、その場に佇んでいた人物は、膨らんだドレスを着た私がなかなか沈まない事に気がつき、時間が掛かると踏んだのか、ふいっと顔を背けて去って行った。
……どうして? こんな場所に彼女が居るの?
あれは、アーロンの子を身ごもったと嘘をつきキーブルグ侯爵家に入り込んだサマンサだった。さきほど水に沈み行く私を観察する目は酷薄で、これまで私の知っている彼女であるとは思えなかったけれど……。
スカートは無事に水の中に落ちたので、岸に近付こうとした。
子どもの頃にエタンセル伯爵家の領地にある川で良く水遊びをしていたので、実は私は泳げるのだ。けれど、大抵の貴族令嬢は泳げないと思う。
それに、スカートを外すという知識がなかったら、あのまま沈んでしまったはずだ。
ここは人気も少なく、悲鳴をあげたからと、すぐに人が来てくれる訳ではない。
ゆっくりと岸に向かって泳ぎながら私は命の危機を乗り越えたのだと、ほっと安心していた。
その安心が、いけなかったのかもしれない。いきなり右足が引き攣れるようにして痛み、水中で足がつってしまったのだと理解した。
「ああっ……痛いっ……っいやあっ」
私は懸命に泳いで岸に辿り着こうとするけれど、足がつって痛みが尋常ではない。悲鳴があげてばしゃばしゃと悶えてしまった。
その時に、ばしゃんっと水音がして、力強い腕が腰に巻き付いた。
「アーロンっ……」
「ブランシュ。足がつってしまったのか。大丈夫か? とにかく、岸の上に上がろう」
アーロンは私を岸に上げると、私のつってしまった足に応急処置を施した。ぐうっと丸まってしまった足はゆっくりと元の形へと伸ばされ、段々と痛みが軽減して来た。
アーロンは私が急に居なくなってしまったことを、何も責めなかった。
ドレスのスカート部を水中に落としてしまった下着(ドロワーズ)姿の私に、これでは足が見えてしまうといけないからと、着ていた上着を脱いで絞り巻き付けてくれただけだ。
……優しかった。これまでと、同じように。
「アーロン……ごめんなさい」
話も聞かずに走り出してしまったのは、それが本当にショックでどうしようもなかったからだけど、それは私の問題で……アーロンに責任がある訳ではなかった。
「ブランシュ。もう何も気にしなくて良い。それより、このままでは風邪を引いてしまう。馬車へ戻ろう」
足をつった時に暴れて靴も水の中に落としてしまった私を見て、アーロンはすぐに横抱きにした。
「アーロン。私……どうしても、貴方に聞きたいことがあるの」
真剣な問いかけに、アーロンは神妙な表情になり頷いた。
……私だって邸に帰ってから、落ち着いて話せば良いと思った。
けれど、この機会を逃せばまた何も言えないままになってしまうと、何故かそう思って居た。
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