第15話「後悔」

「ブランシュは、何が好きなんだ?」


「私が、何が好き……ですか?」


 アーロンが帰って来て数日後、朝食時に夫に質問され、彼が何を聞きたいのかよく理解出来なくて、私は首を傾げた。


 将軍職にあるアーロンは、戦勝して帰って来てからというもの何日経っても忙しい。


 戦争の後処理や、その後に国家間で交わす重要文書などにも彼は関わるらしく、時間に追われる多忙な日々が続いていた。


「ああ……日々、好む食事だったり、なんでも良い。教えてくれ」


 アーロンは帰ってきた日以来、私の前で誰かを怒鳴りつけたりすることはなかった。


 今思えば、彼だって一年振りに帰って来たら、信じられない事態が起きているのを見て、大きく混乱していたのだろう。


 夜会で妻が扇情的なドレスで、再婚相手を探したり……今思うと、本当に恥ずかしいことをしてしまった。


 けれど、あの時の夜会に居た面々は、私に火遊びを持ちかけて来るなんて、絶対に有り得なさそうだった。


 あの時の怒り狂ったアーロンを見れば、そんな気持ちはどこかに吹き飛んでしまうはずよ。


「……そうですね。私の好物ですか」


 私は答えを待っている夫に、ここで何を言うべきか迷った。


 エタンセル伯爵家では母が亡くなってから、まともな食事は与えられなかったし、キーブルグ侯爵家のシェフの作る食事は正直に言うと、私には味が濃かった。


 だから、あまり……好んでまで食すような食事がない。


「ブランシュ。困らせてしまったか? 色でも良い。好きな色はあるか?」


 アーロンは黙ってしまった私を、気遣うように言葉を重ねた。


 こういった気の利く部分を知れば、使用人たちが彼を慕っている理由がよく分かる。


「そうですね。私は青色が好きです」


 そういえば、アーロンの目の色と同じ色だ。美しい自由な空を映すような瞳の色。


「青なのか……しかし、君は一年間俺の喪に服していたことを知っているんだが、今も黒い服ばかり着ているな……」


 私は嫁いでからは喪服として黒い服を洗い替えを含め、何着か作っただけ。そして、エタンセル伯爵家に居た頃の服は、とても人前で着れるようなドレスはなかった。


「申し訳ありません。私の着ている服が帰ってきたアーロンの気分を害するとは、思いもよりませんでした」


 慌てて謝った私に、アーロンはそう言う意味ではないと言わんばかりに手を振った。


「何も、謝ることはない。クウェンティンに聞けば、あのヒルデガードを当主とするために、再婚して出ていく気だったとか……何もかも全て、俺のせいと言えばそうなんだが、ドレスはいくらでも好きなものを購入してくれ」


「……はい。ありがとうございます」


 そういえば……私はもう、キーブルグ侯爵家を出ていく理由はなくなった。


 夫は有能な将軍で歴史ある裕福なキーブルグ侯爵家に嫁ぎ、人から見れば羨むような立場にあるというのに、突然に天と地ほども状況が変わってしまい、当人の私はなんとも居心地が悪かった。


 夫の弟ヒルデガードに迫られることももうないし、愛人を名乗っていたサマンサから、子どものためだとお金を無心されることもない。


「そういえば、サマンサのことで気になったことがあったのですが……」


「ああ……俺の愛人を名乗っていた、あの詐欺師の女だな。生まれたばかりの赤ん坊を慈善院に預けるかと問えば、そうしてくれと言って走って逃げたらしい。赤ん坊は罪がないので、俺も十分に食べられるようにと金を出した」


 憮然としたアーロンはそう言ったので、私はほっと安心した。罪のない赤ん坊に関しては、私も彼と同じ思いだった。


 何度もこの手に抱いたあの子を、寒空の中に放り出すなんて、とても出来ない。


「私も……作り話を、すんなりと信じた訳ではありません。彼女は旦那様から頂いたという、家紋入りの手紙を持っていました。あれはどのように手に入れたのでしょうか?」


 アーロンはクウェンティンの方向を見て頷いたので、今まで壁際に立っていた執事は私へ言った。


「……キーブルグ侯爵家の家紋入りの便箋は、貴族専門の業者に特別に頼んでいます。だから、そこから外部に流出することは、まず考えられないでしょう。顧客の信用問題に関わります」


「偽装か?」


「あまり、考えられないことですが、我が家の使用人が流したか……」


「どうせ、ヒルデガードだな。兄の俺が言うのもなんだが、あいつは本当に碌でもない弟だからな」


「あ……」


 ……私は口を両手で押さえた。


 そう言えば、ヒルデガードが来たのは、サマンサよりも大分早く、キーブルグ侯爵邸に住んでいた彼がその気になれば、サマンサに家紋入りの便箋を渡すことだって容易なはずだ。


 二人で何もかも、共謀していたのだ。


「よし、殺そう。罪状は、十分なはずだ。貴族の家での窃盗、貴族の子の母を騙る詐欺師への幇助。そして、兄の妻にまで手を出そうとした。万死に値する」


「御意」


 アーロンとクウェンティンの間で、再度繰り返されたヒルデガード死刑宣告に、私は慌てて止めに入った。


「待ってください! 駄目です! 殺さないでください!」


「何故……殺してはいけないんだ。ブランシュ。兄の俺が言うのもなんだが、ヒルデガードは、これからも我が家の邪魔にしかならない。あれを生かしておけば、必ず俺たちに不利益を与えるはずだ」


 これは、アーロンの言う通りだと、私だってそう思う。


 けれど、両親を亡くしているアーロンにとって、ヒルデガードは唯一血の繋がった兄弟だと知っていた。


 私だって……肉親のエタンセル伯爵である父に言いたいことは、沢山ある。


 死んでしまえば、もう話すこともわかり合う事も二度と出来なくなってしまう。


「アーロン。お願いですから、たった一人の弟を殺さないでください。死んだ人は、もう二度と戻らないのですから。血の繋がった弟を殺してしまって、貴方に未来に後悔して欲しくありません」


 言い終わってから食堂はしんとして静かになり、私はなんだか急に恥ずかしくなってしまった。


 若い時からアーロンは軍人として生きていた訳だから、殺す殺されるの世界に生きていたと思うし、子どもじみた説教をしたと思われてしまったかも知れない。


「……わかった。ブランシュの言う通りにしよう。ありがとう。俺の今後も、考えてくれて」


 アーロンは、大人だ。


 私はこの時、そう思った。自分とは違うけれど、私の意見を受け入れ、肯定してくれる。


「いえ……差し出がましい真似をして、申し訳ありませんでした」


「謝らなくて良い。そろそろ城へ行く。ブランシュは、ゆっくり休んでいてくれ。クウェンティン。妻を頼んだぞ」


「かしこまりました」


 時計を確認してからアーロンは慌ただしく出勤し、澄ました顔をしたクウェンティンに私は聞いた。


「あの……クウェンティン……仕事しては、駄目? 暇で暇で、死にそうなの」


 これまでキーブルグ侯爵家の当主として忙しく書類仕事をしていたせいか、これからは貴婦人として優雅に生活しろと言われても無理があった。


 あの案件がどうなっているか、その後が気になって堪らないものもあるのに……。


「駄目です。奥様。先ほどお聞きになったでしょう。旦那様のご指示です」


 無表情でしらっと切り返され、私は珍しく食い下がった。


「黙っておけば、わからないでしょう。お願いだから、クウェンティン」


「奥様は僕を含め、何人かの使用人の仕事を奪われるおつもりのようですね」


 真面目な執事の言い分には何も言い返せず、私は黙って朝食を食べるしかなかった。

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