第14話「庭園にて」
私はゆったりとした部屋着を着て、庭に出て大きくため息をついた。
夫アーロンが一年ぶりに帰って来てからと言うもの、私の生活は大きく変わった。
クウェンティンは今まで私に任せてくれていたキーブルグ侯爵家としての執務も『落ち着かれるまでは、旦那様より休ませるようにと指示を受けております』と言って、任せてくれなくなった。
クウェンティンは私がここにやって来た時から、当主として私が仕事に関わることを止めていた。
けれど、アーロンが出した『妻の意見を最優先に尊重するように』という指示に従っていただけで、当主たるアーロンが私に休むように指示を出したならば、それに従うだろう。
帰って来たばかりだけど、将軍職にあるアーロンは、先の戦争の戦勝報告や祝勝会など、司令官として顔を出さねばならない仕事で多忙で、あまりキーブルグ侯爵邸には居ない。
目下の心配のタネだったヒルデガードも居なくなり、サマンサが産んだ男の子の泣き声も聞こえなくなった、静かなキーブルグ侯爵邸の庭園で、私は一人ぼんやりしているだけ。
「奥様……手の具合は、いかがですか」
初老の庭師サムは、ついこの前に、義母が私の手を鞭で打ったことを知っている、唯一の使用人だ。
これまでも彼はずっと心配してくれていたのだろうけれど、私が他言無用だとお願いしたので、他の誰かが居る前ではずっと聞けなかったのだろう。
「ああ。サム。何ともないわ。もう、治ってきたから」
レースの手袋の中にある手はアーロンが最高級の治療薬を買ってくれたおかげで、何日か経った今では驚くことにピンク色の皮膚が再生し、もうすぐ包帯を巻くこともないだろうと思う。
手は生活の必要上良く動かしてしまい、回復が遅い部位だと言うのに、回復の速度が早すぎて、あの薬はどれほどの値段がするのだろうと身震いしてしまう。
「それは本当に良かったです。奥様……失礼を承知で言いますが、儂はあの怪我が誰の仕業であるか、旦那様にお伝えするべきだと思います」
サムはアーロンが帰って来たのなら、あれを誰にも言わずに隠す必要はないと思ったのかもしれない。
「駄目よ……旦那様は気性の荒い方。きっと、とんでもないことになってしまうわ」
アーロンと義母の激しい言い争いを聞きたい訳でもないし、実家と婚家が揉めることも嫌だった。
それに、義母は大きな権力を持つ公爵家の人間で、アーロンが国を救った英雄だとしても、逆らえば何をされてしまうか。
私の実家、エタンセル伯爵家の面々とは、出来るだけ無関係で居たい。
「旦那様は、優しい方ですよ。怖く見えるかもしれませんが、あれは職業上仕方のないことなのです。敵にも部下にも舐められる訳にはいきませんから」
私はアーロンと一緒に居ると、ただそれだけで、そわそわして落ち着かない。いつ怒鳴り出すかわからないから恐ろしいだけなのか、それとも……。
「あれは、アーロンがわざわざ怖いと思われるように、周囲に見せていると言うことなの?」
アーロンには夜会の時に、なんてドレスを着ているんだと怒鳴りつけられた。あの時は怖かったし、言い分など何も聞いてくれなさそうな雰囲気が義母に似ていた。
だから、萎縮してしまった。何を言われてしまうかわからないと、勝手に体が竦んでしまった。
「ええ。その通りでございます。旦那様は幼い頃よりお優しい方ではありますが、職務に必要な厳しい人格は後から作り上げられたもの。時間が経ち慣れてくれば、奥様の前では、きっと、本来の性格になられると思います」
あんな風にアーロンに大きな声で怒鳴りつけられて、怖くなかったといえば嘘になる。
「私は……アーロンと居ると、何だか、居心地が悪くなってしまうの。胸が自然と苦しくなって、逃げ出したくなってしまう。もしかしたら、私たち二人は……あまり、相性が良くないのかもしれないわ」
言いづらいことだけど私が信用の置けるサムならと思って打ち明けたことなのに、彼は何故か吹き出して大声で笑い始めた。
「奥様……それは、旦那様を怖がっているのではありません。なんと、ご説明すれば良いものか……」
「……ブランシュ! ここに居たのか」
仕事を終え城から帰って来たらしいアーロンの声が聞こえて、サムは彼に挨拶をした。
「旦那様。おかえりなさいませ」
「サム。お前もブランシュと、仲が良いのか……俺が居なかった一年間に、何もかも様変わりしてしまったな」
アーロンは城から帰って来てそのままなのか、仕事帰りの軍服そのままでこちらへと歩み寄ってきた。
「旦那様が命を賭けて国を守って下さったから、我々はこうして平和に生きております。それでは、儂は仕事の続きがありますので……ごゆっくり」
「ああ……ご苦労。おい! サム……ここに、鋏を落としているぞ」
「これはこれは、失礼。それでは」
サムは鋏を道に良く落としてしまうのか、頭を掻いて、恥ずかしそうにしながら去っていった。
アーロンは庭師サムが鋏を落としたからと、よくわからぬ罰を与える人間ではない。それは、当然のことのはずなのに、私はそれを確認してほっとした。
アーロンは義母と同じような人間ではないと、そう思えたから。
「……ブランシュ。手の調子は、どうだ?」
私の隣へとアーロンは座り、私は自然と彼の反対側に寄ってしまった。
「旦那様……はい。買っていただいたお薬のおかげで、治って来ました」
私は何故か彼の顔を恥ずかしくて、見られなかった。顔が熱い。じりじりと距離を空ける私を見て、アーロンは落ち込んでいる声を出した。
「……どうした。結婚をしたと言うのに、一年間も放っておいてしまった俺のことが嫌になったのか。ブランシュ」
「いいえ! そういう訳ではないのですが」
「では、どういう訳だ。何故、距離を空ける」
アーロンは不思議そうで、何が原因なのか知りたいようだ。私だって普通にしていたいのに、普通に出来ないから……胸が苦しいのに。
「旦那様と、近くに居ると! 胸が苦しくなって、恥ずかしくて堪らないのです! 旦那様が悪い訳では、ありません!」
私が両手を彼の前に突き出すと、アーロンは顔を赤くして、驚き目を見開いていた。
「え? あ……ああ。そうか……すまない」
なんとも言えない空気の中で、私とアーロンの二人は隣に座って、ただ黙って庭園を見ていた。
ほんの一日前に再婚相手を探さなくてはと奮起していた私には、とても信じられない未来だろう。
私だって……本当に意味がわからない。
死んだと思っていた人が、生きていたのよ。魔法でもなんでもなく。訳ありで。
「ブランシュ……その、少し良いか。君が落ち着くまで、絶対に近づかない」
アーロンは緊張して余裕のない私を宥めるようにして、敵意がないと示すように開いた両手を向けた。
「はい。大丈夫です」
私がこくりと一度頷いたのを確認してから、アーロンは慎重な様子で口を開いた。
「何度も言うが、生きていることを知らせずにいて悪かった。しかし、悔いはない。これで我が国は勝利し、多くの国民の命が救われた」
「わかっています。必要なことだったのだと」
敵を欺くには、まず身内から。素人の私が彼が生きていると知っていて、上手く嘘をつけたとは思えない。
だから、これで良かったのだ。生きていると知らなかったから、再婚相手まで探しているところだったけれど。
「……しかし、俺が何より救いたかったのは、お前……俺の妻、ブランシュだ。もし、敗戦すれば君は将軍の妻として、どんな目に遭うかわからなかった。だから、どんな汚い手でも使ってでも勝つしかなかった」
真摯な光を放つ青い目に、嘘は見えない。
「アーロン」
妻の私を守るために、彼はどんな手でも使って、勝利して帰って来てくれた。
「お前ごと……この国を、死に物狂いで守って来た。辛い思いをさせたことを、許してくれとは言わない。ここから、挽回する。だから、俺を怖がらないでくれ……頼む」
切実な声音の言葉には、疑うところなんて見えない……それでも一気に多くの情報を消化しきれずに、何も言えなかった私は何度か頷くしか出来なかった。
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