第13話「夢の中」
私は夢を見ていた。
眠っていた私の手を握り、帰って来た夫アーロンが涙を流していた。彼は私が目を開いたことに気がついたのか、静かに言葉を発した。
「……悪かった」
「アーロン……泣かないで」
だって、一年間死んだことになっていたのは、貴方のせいではなかった。
それに、アーロンは指揮官として戦場で戦い、罪なき数多くの国民を守るために、家族さえ欺く必要があった。
命を救ってくれた彼を非難することなんて、この国に住む人ならば誰にも出来ない。
見事に欺かれていた私にだって、誰にも。
「ブランシュ。悪かった……泣かないでくれ」
泣いているのは、アーロンの方でしょう。そう思ったけれど、彼の大きな手は近づき、私の冷たい頬を指で拭った。
私は彼の前で眠りながら、泣いていたのかもしれない。
◇◆◇
朝、目覚めた時には、私の部屋に居た。
状況が掴めずに、暫しぼーっと天井を眺めていたけれど、昨夜あったさまざまな出来事が思い出され、信じられない気持ちで胸がいっぱいだった。
昨夜の出来事が夢ではなかったという証拠に、鞭で叩かれて怪我をしている手には、鎮痛効果のある薬が塗られている様子で痛くない。しっかりと包帯を巻かれていた。
そして、楽な寝巻きに着替えて、特別に用意したはずのあの赤いドレスは着ていない。
これまでにはメイドにも怪我したことを隠していたのだから、これを治療してくれたか指示してくれたのは、アーロンなのだろう。
手早く身支度を調えると、扉を叩く音がして、私はそれに応えた。
「どうぞ。入っても良いわ……」
「奥様。失礼致します。おはようございます」
きっちりと執事服を来た年若い執事、クウェンティンの姿がそこにあった。
「……クウェンティン。昨夜の出来事は……」
私が言わんとしていることのその先を、正確に理解しているクウェンティンは、無表情のままで頷いた。
「ええ。信じられないと思われますが、あれは全て、現実でございます……ですが、奥様が信じ難い出来事だと思われることも、無理はありません。奥様。旦那様は生きていると知りつつ、今までお伝え出来ずに申し訳ありませんでした」
腰を折り深く頭を下げたクウェンティンに、私は首を横に振った。
「頭を上げなさい。クウェンティン。それも全て、旦那様の指示でしょう。貴方はただ指示通り従っただけ。私は大丈夫です。旦那様の、お仕事のためでしょう?」
「そのようです。見事に自軍を勝利に導き、こうして帰還されました」
「私は二度怒られて旦那様に、嫌われてしまっているようです……もしかして、このまま離婚されてしまうのでしょうか?」
初めて夜会で会った時にも、異常に怒っていたし……私が手を怪我していると知っただけで、すぐに怒鳴り声を上げていた。
何があったのかと聞いてくれれば、私だって説明することが出来たのに。
……怒りっぽい人は、苦手。すぐに不機嫌になって、私に向けて手を上げていた人を思い出してしまう。
「奥様……何を仰います。そのようなことは、あろうはずがありません」
クウェンティンは彼には珍しく、わかりやすく動揺していた。
クウェンティンはアーロンにはとても忠実な執事だから、夫に不信感を向けた私を宥めなければと思ったのかもしれない。
唯一の味方だったクウェンティンとて、アーロンの指示だから私を最大限に尊重してくれただけだった。
「……クウェンティン。ヒルデガード様やサマンサのように、ここを追い出されれば、私は行くところがありません。もはや、実家のエタンセル家にも帰れません。どうしたら良いですか」
夜中にも関わらず荒っぽく追い出されていた二人を見れば、私だってアーロンの機嫌を損ねてしまったなら、あんな風に追い出されないかと心配になった。
一目で意図がわかりやすい煽情的なドレスを着て再婚相手を探そうと、私が夜会会場に居たのは、まぎれもなく事実なのだから。
「……もし、万が一、そのようなことになれば、旦那様は必ず奥様の居場所を用意なさいます。何も心配することはありません」
「そう。良かったわ……」
その時、控えめに扉を叩く音がして、私はいつものように朝食をワゴンに載せたメイドが入って来るのかと思った。
「良いわ。入って……」
けれど、扉を開けて堂々とした足取りで入って来たのは、夫アーロンだった。昨夜とは違い、きちんと身嗜みを整えた彼は、朝の眩い光に映える美丈夫だった。
無造作に切られていた髪も今は短く整えられ、見ただけで胸が高鳴ってしまう程の男性だった。
「……クウェンティン。ブランシュの部屋に居たのか」
「おはようございます。旦那様」
アーロンは私の顔を見て微笑んでくれたのに、何を言うべきか迷った挙句、何も言えなかった。
恥ずかしくて目を逸らし、勝手に高鳴る胸を押さえた。
どうして、彼が近くに居ると、こんなにも胸がドキドキするの……しめつけられるように苦しい……。
アーロンは近寄って私のベッドに座り、直立不動で立っているクウェンティンに質問をした。
「ちょうど良かった。お前に聞きたかったことがあるんだ……何故、ヒルデガードを殺さなかった? ブランシュに危害を加えれば、誰でも殺して良いと指示していたはずだ」
え? ……殺しても良いですって?
私は夫が言ったことを信じられなくて、目を見開いてしまった。
「ですが、奥様に止められました。旦那様より、奥様の意向を最優先にせよとお聞きしておりましたので」
「……では何故、ヒルデガードや偽の愛人が入り込んだ時点で、ブランシュに俺が帰って来ると言わなかった? これは、緊急事態に匹敵する事態だ」
アーロンが不機嫌そうにそう問えば、クウェンティンは不思議そうに答えた。
「僕は旦那様から奥様を、一年間必ず傷一つなく守るように、意向を最優先するようにとしか、指示されておりません」
「いや、だから……そこは臨機応変にだな……」
困ったように言ったアーロンに、クウェンティンは生真面目に言い返した。
「旦那さまからは、奥様の御身を第一にお守りすること、それに奥様の意向を最優先するようにとしか、聞いておりません。旦那様は必ず一年以内に戻られるので、帰って来て下されば、あの放蕩者と偽愛人については、すぐに解決すると思っておりました」
確かに、クウェンティンは私の希望通りに動いてくれた。
ヒルデガードを殺そうと言った時も、それは止めて欲しいと言ったのは私だし……身重なサマンサを追い出さないでくれと、クウェンティンにお願いしたのも私……。
執事クウェンティンはアーロンに言われた通り、私の意向を最大限に尊重してくれた。
「わかった。もう良い……確かにお前が言う通りだ。どうやら、俺の指示が悪かったようだ。悪かった」
アーロンはすんなりと自分の指示が悪かったと認め、クウェンティンに謝った。私は二人の会話を聞いていて、正直に言ってしまえば驚いた。
雇用主で気位の高い貴族がこうして使用人に非を認め謝るなんて、通常であれば、あり得ないはずだからだ。
けれど、アーロンもクウェンティンも特に動揺しない様子で話を先へと進めて行く。
「……ヒルデガード様が奥様に再婚を迫っていた時も、旦那様に帰ってきたら問答無用で殺せと指示を頂いておればと、とても後悔をしました」
「……なんだと? ヒルデガードが、ブランシュに再婚を迫っていただと? それは、事実なのか?」
「はい。亡くなった兄の財産は、美しい妻も、すべて俺のものだと言っておりました」
……確かにヒルデガードは、そう言っていた。兄はこうして生きていて、弟の彼の出る幕は無くなってしまった訳だけど。
クウェンティンの言葉の後、私は部屋の温度が何度か下がったような気がした。
淡々と状況説明をしたクウェンティンに、アーロンは感情を見せずに頷いた。
「よし。わかった。ヒルデガードを追え。殺そう」
「御意」
アーロンは血の繋がった実の弟を殺そうと指示して、クウェンティンは当たり前のように頷いた。
うっ……嘘でしょう!
「まっ……待ってください! その程度で弟を殺すなんて、いけません!」
このまま黙ったままでいると、大変なことになってしまうと、私は慌てて二人の会話に口を挟んだ。
「何故だ。ブランシュ。君だって、そんなことを言われて、不快だっただろう。それに、あいつは実際のところ死刑になっていてもおかしくない男だ。ブランシュが気に掛ける価値はない」
「けれど……だからと言って、殺してはいけません……アーロン。落ち着いてくださいっ……」
私は彼の名前を自然に呼んだことに気がついて、手で口を覆ったけれど、アーロンは嬉しそうに微笑んでくれて、私は心臓が止まりそうになった。
血煙の軍神と呼ばれるまでに、とても恐ろしい男性なのに、それなのに、嬉しそうな笑顔がとても可愛かったから。
「旦那様……?」
「……アーロンで良い。ブランシュ、本当に悪かった。再婚可能になるまでの一年間は君には誰も手が出せまいと思っていたが、まさかあの弟がこの邸へ舞い戻って来るとは、夢にも思わなかった」
「あ……あの……」
「もう何の心配もない。大丈夫だ。とりあえず、ブランシュはここで休んでいてくれ。俺は城に行かなければならない。後から、ゆっくり話をしよう」
私の手を持ってアーロンは目を合わせ、私は緊張で声が出せずにただ頷くだけしか出来なかった。
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