第12話「死んだはずだった夫」

 冷たい涙がすうっと頬を伝ったのを感じて、眠っていた私はパッと目を開いた。


「え……ここは……」


 現在、自分がどこに居るのか、すぐには理解が出来なかった。


 上半身を起こして見回せば、ここは夫アーロンの主寝室。


 彼は亡くなったとは言え、当主の部屋だからと、常に綺麗にしていて……私だって、アーロンの代行をするために執務に必要な物を取りに何度も入った。


 どうして、私はここに居るの……? もしかしたら、仕事に疲れ、そのまま眠ってしまったのかもしれない。


 慌てて横になっていた大きなベッドから立ちあがろうとすると、温かな毛布を掛けられていた私は、自分があの時に着ていた赤いドレスをまだそのまま着ていて、あれは夢ではなかったと悟った。


「嘘でしょう……」


 あれは、夢ではなかった。亡くなったはずの私の夫は確かに生きていたのだ。そして、戦争に勝利して帰って来た。


 どこか遠くから、怒声が聞こえて来た。内容は聞こえないものの、激しく誰かを罵っているようで、私は慌てて部屋の外を出た。


「……何? 何があったの?」


 広い廊下に出ても、内容は聞こえない。私は声が聞こえて来る玄関ホールへと向かった。


「……ヒルデガード! 何故、俺の邸にお前が居るんだ? 五年前に、亡き父にお前は家族でもなんでもないと、勘当されただろう?」


「兄上……それは、父上も怒っていただけで……」


「俺だって同じ気持ちだよ。二度とお前の顔は見たくない。自分があの時に何をしでかしたのか、覚えているのか!」


「兄上。どうか、待ってくれ。俺の話を聞いてくれよ!」


 どうやら、帰ってきたアーロンと勘当されていたはずの弟ヒルデガードが言い争っているようだ。


 兄弟二人の関係は険悪だったとクウェンティンからも聞いていたけれど、まさかここまでとは思わなかった。


「出て行け! 俺に今すぐ、殺されたくなければな!」


「待ってくれ。兄上! どうして、帰って来たんだ……死んだはずだろう?」


 これまで寝ていたのだろうか寝癖の付いたヒルデガードは悔しそうな表情をして、アーロンは不機嫌そうに睨んだ。


 玄関ホールには、ヒルデガードの部屋から出された荷物が、乱雑に置かれていた。


 夜会から帰って来たアーロンは、ヒルデガードが帰って来ていることを聞き、荷物を全てここに出すように使用人たちに命じたのかもしれない。


 戦いを職務とする軍人らしく、荒々しい性格をしているとは聞いていたけれど……こんな風に追い出すなんて、私には絶対に出来ないことなので驚いてしまった。


「お前には、本当に残念な知らせだな。この通り、死んでいない」


「兄上の訃報を聞いた。だから……キーブルグ侯爵家の者として、帰らねばと……」


「何度も言うが、ここはもうお前の家ではない」


「兄上。それは、父上が言った言葉だろう?」


「残念だが、俺だって、同じ気持ちだ。お前と同じ血が流れていると思うと、うんざりするよ」


「だが、訃報が間違いだったのか? そんなことが、あるはずが」


「お前に説明する事でもないと思うが……死んだ振りをしたんだ。勝つために」


「死んだ振り……? 何を」


「何倍もの軍勢を前に、敵が驚くような策を練ってもおかしくはあるまい。司令官が死んだと聞けば、敵は油断する。味方は焦って加勢に来る。そうして油断したところを、叩くしかない。でなければ、あの連合国軍には勝てはしなかっただろう」


「兄上は……敵を騙すために、敢えて死んだふりを選んだと?」


 そうなの……? だから、アーロンは開戦直後に亡くなったと訃報が来て、こうして戦いに勝利したから帰って来たんだ……。


 今までに考えもしなかった理由で驚きはしたけど、夫がこうして生きて帰って来た理由を知ることが出来て頭では納得はした。


「……戦争という殺し合いに嘘もなく正々堂々というルールがあるならば、俺だって従うさ。だが、勝つことを優先すれば、嘘だってつく。軍勢の数の差を考えれば、卑怯な手を使わざるをえない。騙すなら身内からと言ったものだが……まさか、留守中に勘当されたはずの弟が帰って来るとは思わなかった」


「ああ。待ってくれ兄上……悪かった。どうか、追い出さないでくれ。お願いだから」


 許しをこうように泣き出しそうな顔のヒルデガードは、みっともなく膝をついて祈るように両手を組んだけれど、アーロンは首を横に振って弟の頼みを拒絶した。


「縁は既に切った。殺されないだけ感謝しろ。お前の願いは、一切聞かぬ。さっさと出て行け。ああ……この女も居たな。誰だ? お前の女か?」


 ……なんですって? そこに居たのは、先日元気な男児を出産したばかりのサマンサだ。


 だからこそ、私はキーブルグ侯爵家はこれで大丈夫だろうと、そう安心して出て行くつもりだったのに……どういうことなの? この女性サマンサは、夫アーロンの愛人ではなかったの?


「やっ……やだ。お忘れではないですか? 私は以前、アーロン様にお会いしたことがあって、泥酔された時に一夜を共にして妊娠したんです!」


 サマンサは笑いながらしなを作ってアーロンに言ったけれど、不快そうな表情の彼は鼻で笑った。


「そんなことが……ある訳がない。あいにく、俺は酒が強くてね。これまでに酔い潰れたことなど一度もないと言い切れる。行きずりの女と一夜を共に過ごした記憶どころか、お前と会って話したこともない。ああ。死んだと聞いて、詐欺師が上手く取り入れると踏んだか。クウェンティン。不毛な言い合いは終わりだ。この二人をさっさと、つまみだせ!」


「御意」


 アーロンの言葉にクウェンティンは胸に手を当てて返事をして、使用人に目配せをした。


「まっ……待ってください! 私は! 私は詐欺師ではありません!」


「兄上! 酷いよ! 話を聞いてくれ!」


 なおも言い募ろうとしていたヒルデガードとサマンサは、数人の使用人に取り押さえられた。大きく息をついた不機嫌そうなアーロンは部屋へ戻ろうとしてか、こちらを振り返って私を見つけた。


 まさか、ここに私が居るとは思っていなかったのだろう。とても、驚いているようだ。


「ああ……ブランシュ。どうした。疲れていたのではないのか?」


 アーロンがゆっくりと近づいて来て、何故か私は逃げ出したくなった。


 ……彼さえ生きていてくれればと、訃報が届いた一年ほど前から数え切れぬほどに思ったのに。


 今ここに、そのアーロンが居るのに……それなのに、なぜだか怖いのだ。


 アーロンは話に聞いた通り、精悍で美形な顔を持つ男性で、その体は逞しく鍛え上げられ頼れそうだ。


 私のことを、きっと守ってくれるだろう。そんな彼が、ただ距離を縮め近づいて来ただけなのに、私は泣きそうになった。


 ……どうして? 望み通りに、夫アーロンはこうして帰って来てくれたのに。


「あの……本当に、アーロン……様なのですか?」


 今日初対面だというのに、いつも心の中で彼を呼んでいるようにアーロンと呼びそうになった私は慌てて敬称を付けた。


「ああ……留守の間、随分と不安にさせたようだ。本当に悪かったよ。何もかも説明するから、俺の部屋に戻ろうか」


 アーロンは私の手を握り歩きだそうとして、立ち止まり、私の手と自分の手を見比べた。


 彼の大きな手には、赤い血が付いてしまっていた。


「あ、これは……汚してしまって、ごめんなさい」


 ……いけない。赤い長手袋を身につけていたから、自分も気が付かなかった。


 包帯を巻いていたけれど、傷口が開き血が滲んでしまっていたのだろう。義母に鞭を打たれた時の怪我の赤い血が、アーロンの手を汚してしまっていた。


「これは……何か、怪我でもしたのか?」


 アーロンは心配そうな表情で、私の手袋を取り、訝しげな表情で取れかけていた包帯をめくった。


「……クウェンティン! クウェンティン! 俺の妻の手を鞭で打った奴は誰だ! さっさと教えろ……殺してやる!」


 悪鬼のごとく戦場を駆け抜け、自軍を勝利へと導く血煙の将軍。アーロン・キーブルグは、そう呼ばれていると知っていた。


 けれど、こんなにも恐ろしく、迫力のある男性だとは……。


 生きて帰って来た夫の鼓膜を破りそうなほどに覇気ある怒声を、間近で初めて聞いた私は、本日二度目の気絶をしてしまった。


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