第29話「死を待つ時間」
「義姉上……良い加減にしてください。兄上はもうすぐ死にます。これからは、俺に逆らうと不幸になりますよ」
馬鹿にしたような笑いを浮かべたヒルデガードは、私が何も出来ないと侮っているらしい。
「だから、どうしたの?」
彼の言葉を畳みかけるように怯まずにそう言ってから、ヒルデガードの目を真っ直ぐ見つめた。だから、どうしたの。それが……私は、実家に返されても構わない。
今ここで、夫アーロンの命が救えるならば。
怪我の痛みが酷いのか膝をついて座り込んだアーロンは出血のためか、顔色が悪い。早くこのヒルデガードを退け、彼を医者に診せなくては。
さっきまで周囲の人たちはあんなに数居たのに、真っ昼間の惨劇に恐れをなしたのか人っ子一人居ない。
助けを求めるにも、アーロンの命を狙うヒルデガードから、とにかく守らなければならない。
……アーロンさえ、生きて居れば。私は一年間、ずっとそう思って居た。
私の願い通りに、彼は生きて居てくれた。私を国ごと守ってくれた。
そして、今度は私が夫を守るのだ。
私は近くに居るアーロンが腰に佩いていた剣へと手を掛けた。
「……ブランシュ? 待て……! 慣れない君が持つと、怪我をしてしまう。危険だ」
長剣はすらりと鞘から抜けた。思ったよりも、それは重い。アーロンの心配はもっともだ。
私はこれまで、こんな武器を持ったこともないのだから。
けれど、私は震える両手で、それを持ち構えた。その時に見えたヒルデガードの顔は、真剣に思えた。そうすると、彼は少し兄のアーロンに似ているかもしれない。
流石は、血を分けた兄弟なのね……アーロンは常にこの弟を殺さなければと言っていたけれど、その理由が、今では私にもわかる。
ヒルデガードは、もう救われない。どんなに私たちが言葉を重ねたところで、彼は納得しない。
幸せの定義が違うのだ。血が繋がっていようが、離れるしかない。
望んでいるものが、根本から違う。自堕落な生活を送りたい浪費家のヒルデガードを養うくらいならば、私たちは領地の税率を下げた方が良いと判断するだろうし、世の中のためだわ。
殺すか、捕らえるか……二度と会わないように勘当して追放するか。
先のキーブルグ侯爵は、一番温情ある処置を取ったのね。彼にとっては可愛い息子だもの。当然のことなのかしら。
けれど、先のキーブルグ侯爵も、アーロンも出来なかったことを、私はここでするわ。
……だって、私はキーブルグ侯爵夫人。キーブルグ家の一人だもの。
「黙っていて。アーロン。私に人が殺せないと思っていた? 貴方を守るためならば、いつでも敵を殺せるわ」
……そうよ。ヒルデガードを殺したくないと思っていた。それは、すべてアーロンのため。
ヒルデガードがアーロンに危害を加えるのならば、話は別よ。
「ブランシュっ……」
「私が、代わりにヒルデガードを殺すわ。アーロン……今まで、ごめんなさい。貴方の言って居たことは正しかったのね。ヒルデガードは兄の掛けてくれた温情を、仇で返す男。けれど、責任を持って、私が殺します」
震える身体……今にも涙が溢れ出しそうな目。逃げたいという気持ちを、必死で堪えて耐えていた。
だって、私がここで守らないと、アーロンは殺されてしまう……それだけは、絶対に嫌!
「はははっ……手は震えていますよ。可哀想に。義姉上。俺と一緒に幸せに過ごしましょう。兄上は真面目で面倒で融通の利かない嫌な男でしょう」
「……自堕落でだらしなく、不真面目の権化のような男が、勤勉な私の夫に何も言う資格はないわ。現にアーロンが居ない間、キーブルグ侯爵家を支えていたのは私。貴方は何もせずに飲んだくれていただけじゃない」
「はっ……夫婦で心中を選ばれるなら、別に構いませんよ。義姉上。こんな田舎の村で起こったことなど、どうにでもなる。村人全員殺しても良い。キーブルグ侯爵家の権力があれば、その程度……造作もないことだ」
「そんなこと……絶対に、させないわ」
「そのような、弱腰で……俺も軍人キーブルグ侯爵家の者ですよ。姉上。それなりの訓練も受けている。美しい女性を殺すのは、忍びないが、苛々するような口を聞く女は嫌いなので……」
その時、私が持っていた剣を倒れていたアーロンが素早く動いて取り、私に向かってきたヒルデガードの腹を刺した。
「痛い……! 痛い! 酷いじゃないか。兄上!!」
道にみっともなくのたうち回る弟の姿を見ながら、アーロンは私の前で座り込んだ。
「……うるさい」
……この、決定的な瞬間を迎え撃つために、何を言われても、じっと黙っていたんだ。
「……アーロン。大丈夫?」
「ああ。大丈夫だ。よくやった。ブランシュ。君は立派なキーブルグ侯爵家の人間だ。俺が認めたんだから、誰にも文句は言わせない」
「……兄上! あにうえ!! 助けてくれ!!」
刺されてもアーロンは痛がらずにじっと耐えて反撃する機会を窺っていたけれど、ヒルデガードは痛みに弱いのかのたうち周り、見たくもないくらいにひどい有り様だった。
「父が勘当したあの時から、お前は弟でもなんでもない……ああ。やばいな……目が、見えなくなって来た」
「アーロン? ああ!」
唐突に倒れ込んだアーロンに、私は驚き慌てて彼の身体を支えた。
「悪い。顔をよく見せてくれ。最後に……」
「それ以上、何も言わないで!!」
私の悲鳴交じりの高い声にアーロンは驚いているのか、死にかけているはずなのに、とても驚いている表情になった。
「ブランシュ……俺は」
アーロンに遺言めいた言葉なんて、絶対に言わせない。私の自分勝手だって、いくらでも罵られても構わない。
「……諦めないで死なないで!! 私が死ぬまでは、絶対に生きていて欲しいの!!!」
「ブランシュ……?」
アーロンは私が声の限りに叫んだ言葉に、驚いていた。
「もう……アーロンが生きていたらって思って生きるのは、嫌なの! 絶対に生きて!!」
「……悪かった。大丈夫だ。泣かないでくれ」
その時に、私はようやく自分が泣いている事に気がついた。
……泣いていて、何が変わるって言うの。アーロンの傷が奇跡的に治るとでも……?
そんな訳ない。助けるためには……私以外の手が必要なのよ!
「アーロン。待ってて。助けを呼んでくるから」
周囲を見回しても、どこの扉も固く閉ざされている。ヒルデガードはまだ悲鳴をあげて転がり回っているし、不気味な何かが起こっていると思われても仕方ない。
私はアーロンの身体を丁寧に寝かせると、近くにあった扉を叩いた。
「すみません! すみません! どうか、どうか開けてください! お願いします!」
何度叩いても、誰も出て来てくれない。こんな良くわからない刃傷沙汰に巻き込まれたくないと思って居るのだろう。
……私だって、そう思うかも知れない。誰も責められない。私たちは貴族には見えない服を着ていたし、アーロンがいきなり刺されたとしても、完全な被害者であるなんて、事情をわかってもらえないとわからないはずだもの。
何軒も何軒も扉を叩いては無視されたけれど、私は諦めたくなかった。アーロンの怪我は深くて大きい。こんな事をしている内に、手遅れになってしまうかもしれない。
けれど、こうするしかなかった。アーロンの怪我を治せるような何か……彼の助けになるようなことをせずには居られない。
「お願いします!! 開けてください! 夫が死にそうなんです!」
ただ死を待つだけの時間を過ごすなんて、嫌だもの。
私は近くにある扉をすべて周り、何度も叩いて、開いてくれ助けてくれと回った。けれど誰も出てこない。誰しも考えることは同じなのかもしれない。
そして、村の外れにある小さな小屋を見て、藁にも縋る思いで、その扉を叩いた。
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