第19話「真夜中の訪問者」

「今日は疲れただろう……おやすみ。ブランシュ」


 部屋まで送ってくれたアーロンは、頬に軽くキスをしてから去って行った。


 そう言えば、私たち二人は結婚していると言うのに、唇のキスもまだして居ないし……初夜だって、まだ……。


 先ほど、アーロンが初めての夜を匂わせるようなことを言い、それを聞いた私は、正直に言えば浮かれてしまっていた。


 アーロンは私のことを、真実愛してくれて……彼が望んでくれて、こうして彼の妻になれたのだとそう思えたから。


 誰かから愛されることなんて、私にはないのかもしれないと心のどこかで恐れていた。


 幸せになりたいけれど、何か頑張ろうとすると駄目になり、どうせ無駄だと思ってしまいそうになっていた。


 けれど、アーロンは私の元に帰ってきてくれたし、妻として大事に思っていることは間違いない。


 帰宅はかなり、遅くなってしまった。もう早朝に近い時間で、お付きのメイドたちも傍近くに控えてはいない。


 けれど、アーロンと私が帰宅したことが知れれば、ドレスや湯浴みの準備に出てきてくれるはずだ。


 彼女たちをわざわざ私が呼び出すこともないだろうと、何気なく後ろを振り返った。


「……姉上」


 信じられないことにすぐ傍に、アーロンに追い出されたはずの義弟ヒルデガードの姿があった。


「っ……え!? ヒルデガード。どうして……貴方がここに居るの?」


 信じられなかった。


だって、彼は部屋にある荷物ごと追い出されて、アーロンに「もう二度と、顔を見せるな」と、告げられていたもの。


「義姉上。この青いドレスも、とても良く似合われていますね。美しい貴女に良く似合っていますよ」


 アーロンが帰って来る前のような、いやらしい目付き、私が慌てて身を引こうとしたら、壁際にまで追い詰められた。


 身動きできない体勢の私の剥き出しになった首筋辺りに手を当てて、ヒルデガードはにやにやと嫌な笑いを浮かべていた。


 気持ち悪い。嫌だ……けれど、私がここで大声をあげれば、首を絞められるような……そんな気がしていた。


 今はこうしてお行儀良くしているけれど、豹変したヒルデガードが、どれだけ乱暴な真似をする男性なのかを知っている。


 だから、ここで安心することなど出来るはずがなかった。


「兄さんは怖くて、乱暴者で嫌でしょう? 幼い頃から、感情を制御出来ず、気性が荒い人なんです。貴女には、俺の方がお似合いですよ」


 確かにアーロンは怒りの感情を発露させた時には、とても怖かった。


 けれど、感情的になってしまうことはあっても、私のことを大事に思ってくれている気持ちは伝わってきた。


 煽情的なドレスを着ていたり、手に怪我をしていたから誰にされたと怒っていたり……それは、私のことを好きで居てくれるからだ。


「嫌です。大声を出しますよ……この邸の中に居てはならないと言うことを、貴方自身が一番に知っていることなのではないですか?」


 キーブルグ侯爵家を勘当されて追い出され、不在時に勝手をして兄の怒りを買って荷物ごと叩き出されたのだ。


 それを、今都合よく忘れたなんて、言わせない。


「まあ、聞いてください……兄が義姉上と、結婚した理由を知りたくないですか?」


「え……?」


 確かにアーロンは私を見たこともないはずなのに、縁談を申し込んだ。それを一番に不思議に思っていたのは、私自身なのだ。


 ……どうして、アーロンは会った事もない私と、結婚したがったの?


 ヒルデガードはそんな私の心を読んだかのように優しく微笑み、彼らしくない柔らかい口調で耳元で囁いた。


「貴女と結婚することが、キーブルグ侯爵家を継ぐ条件に含まれています。嫡男の兄さんは、それを忠実にこなしています……あんなわからずやの暴君よりも、俺の方が義姉上に優しく出来ます」


ーーああ……やっぱり、私を愛して求めてくれる人なんて居ないんだ。


 その時、扉が開いて何故か入ってきたアーロンが、私に迫るヒルデガードを見つけ大声を出した。


「おい!! ヒルデガード! お前……何をしている!!」


 アーロンが怒りの表情を見せこちらに迫ってきているというのに、ヒルデガードはおかしいくらい冷静な態度で、私にもう一度囁いた。


「義姉上。どうか、考えてみてください。きっと俺の方が良いと思うでしょう。地位のために義姉上を求めるような男より、貴女自身を愛する俺の方が……」


 ヒルデガードは言い終わると、サッと身を翻して窓から飛び降りて去って行った。


 ここは、高さのある二階なのに……ヒルデガードはアーロンの弟なのだから、元々の身体能力が高いのかもしれない。


「もう我慢ならない……血の繋がった肉親であろうが、容赦しない。殺す。クウェンティン。あれを始末しろ」


 アーロンは窓から飛び降り走って逃げていくヒルデガードを見下ろし、彼に続いて私の部屋へと入って来たクウェンティンに命令した。


「かしこまりました。殺し方はいかがなさいますか」


「任せる」


 私はそんな主従の殺伐としたやりとりを、いつものように止めることもせず、黙ったままで呆然として見ていることしか出来なかった。

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