阿修羅の道の十字路で

気がつくと

　気がつくと、僕は手を挙げていた。教師に向かい、発言を求めるかのような態度だ。

　だが、別の声が割って入る。

「上条にだって、生きる権利はある！　それに……人殺しなんかしたら、一生後悔するよ！」

　直枝だった。憤怒の形相で、明に怒鳴りつけている。

　僕は、彼女の態度に敬服していた。この状況で、明に向かい面と向かって文句を言うとは。並の度胸ではない。

　しかし、明の表情は変わらなかった。

「生きる権利？　そんなの、俺は知らないな。一生後悔するって？　こいつを生かしておいて寝首かかれたら、もっと後悔することになりそうだ。お前の頑張りは評価できるが、失敗だな。不合格」

　そう言うと、僕の方を向き楽しそうに指を差す。

「はい、飛鳥くん。答えたまえ」

「あ、あの……殺すのはいつでも出来るんじゃないかな、って。生かしておいて利用した方が……く、工藤くんにとっても得になるかと……」

　言いながら、そっと反応を見た。しかし、明の顔つきに変化はない。黙ったまま、僕を見つめている。

　まだだ。

　まだ言葉が足りない。

　そんな考えが頭を掠める。気がつくと、口から言葉が溢れ出していた。

「それに、こんな大規模な事故は警察がほっとかないよ。一時間もすれば、助けがくるかも……警察が調べれば、すぐに事故死かそうでないかは分かるよ──」

「ちょっと待て。こいつの利用価値はなんだ？　言ってみろ」

　語っている途中で、明が聞いてきた。

「そ、その……こんな状況なら、人手はいくらあっても邪魔にはならないと思うよ。それに、もしかしたら上条には凄い特技があるかもしれない。僕なんかよりも、体力はあるだろうし……意識を取り戻させたら、色々使える奴かも知れない。でも殺したら、そういう可能性がゼロになるし……」

　喋りながら、頭をフル回転させていた。次の言葉を必死で考える。ここまで頭を使ったのは、生まれて初めてのことかもしれない。

「こんな状況だから、殺しちゃ駄目なんだよ。しかも助かった後、絶対に誰かが警察に喋るよ──」

「だったら、お前ら全員を殺した方がいいって事なのかい？」

　僕の言葉を遮り、明はそう言った。直後、ニヤリと笑う。

　場の空気が、その一言で凍りつく──

　まずい。

　僕はミスしたのか？

　いや、この笑みは違う。

　様々な考えが頭を駆け巡る。僕は顔を引き攣らせながらも、笑みを返して見せる。

「とにかく、工藤くんの背中は僕が守る。君が寝たら、僕が見張る。上条に寝首をかかれるような事はさせない。だから、もう一度チャンスをあげてやってもいいんじゃないかな」

　どうにか言い終えたが、明は黙ったままだった。周りにいる者たちは、固唾を呑んで次の展開を待っている。

　すると、明は笑みを浮かべた。

「お前が、俺の背中を守るってのか。頼りないが、合格だ」

「えっ？　合格？」

　僕は唖然となっていた。その言葉の意味が、すぐに理解できなかったのだ。

　一方、明はなおも語り続ける。

「合格だよ。お前は使える。少なくとも、こいつよりはな」

　言った直後、上条から手を離す。上条はまだ意識がないらしく、膝から地面に崩れ落ちた。

　周りの女子たちは、明が何を言っているのか、まだ把握できていないらしい。呆然とした様子で、僕と明を凝視している。

　そんな中で、明は口を開いた。

「飛鳥、お前はありきたりな悪だの犯罪だのといった言葉を使わなかった。この状況で、どう言えば効果的かを自分の頭で考え語った。そこは評価できる。少なくとも、この二人のバカ女にはできなかったことだ」

　言いながら、明は大場と芳賀を指差す。

　彼の言う通りだった。さっきまでの僕は、必死で考えていた。目の前にいるのは、体の大きな不良少年をいとも簡単に絞め落とした上、面倒だから殺すとまで言ってのけた男だ。一般の人間とは、完全に違う世界のルールで生きている。善悪だの法律だのといった言葉が、効力を持つはずがない。

　ならば、損得しかない。明の得になることを並べて、意思を変えさせる。僕には、それしか思いつかなかった。

「ただな、こんなクズのために、そこまでしゃかりきにならなくても良かったんじゃないか？　まあ、俺はどっちでもいいけどな」

　愉快そうな口調で、明は語り続ける。その表情からは、完全に殺気が消えていた。

　しかし、彼の言葉は間違っていた。僕が必死になったのは、上条のためではない。正直言って、こんな奴が死のうが生きようが関係なかった。

　いや、本音を言えば……死んだ方がいい、とさえ思っていた。普段、クラスで大きな顔をし、逆らう者に暴力を振るう男だ。今も、余計な揉め事を起こしている。はっきり言って、僕は奴が嫌いだ。

　にもかかわらず、なぜ必死になって上条の助命を訴えたのか？　簡単である。明に、無能だと思われたくなかったからだ。

　こんな大事故の中でも、明は落ち着いて行動していた。しかも、クラスの中で一番ケンカが強かったはずの上条を、いとも簡単に絞め落として見せた。さらには、殺すとまで言い放ったのだ。その言葉は、ハッタリには見えなかった。

　この男は、クラスの中だけで通用する生徒内ランキングのような小さな世界から、完全に逸脱している。むしろ、そんなものはせせら笑う男であろう。

　明のその姿が、僕にはとても眩しく見えた。明のような人間を現実に見たのは初めてであり、その凄さに圧倒されていた。

　そんな人間に、無能だと思われたくない。だから必死で考え、答えたのだ。

　結果、合格だと言われた。この二人とは違う、とも言われたのだ。

　僕の人生において初めての、尊敬できる他人から評価してもらえた瞬間だ。本当に嬉しかった。

　高校に受かった時などよりも、ずっと誇らしかった。

　僕は、女たちに視線を移した。

　全員、まだ怯えた様子で震えている。普段の教室内では、我が物顔で威張りくさっているというのに。今では、見ているこっちが情けなくなるくらいブルブル震えている。女三人で身を寄せ合い、僕たち二人の様子をうかがっているのだ。

　この大場佳代と芳賀優衣のふたりは、僕とは完全にランクが違う人種である。特に大場は、クラスのリーダー格ともいえる人物だ。教室だったら、上条に凄まれても言い返すことが出来ただろう。

　なのに……この状況では、怯えきった目で僕と明の顔色を窺っているのだ。

　ただ、直枝は大場や芳賀よりも落ち着いているように見える。そう言えば、明はバカ三人とは言っていない。直枝のことは除外していたようだ。となると、彼女のことは評価しているのだろう。

　そんなことを思いながら、僕は彼女らを見ていると……ある思いが湧き上がってきた。

　今まで、こんな連中にバカにされていたのか？

　僕は、こんな連中の顔色を窺っていたのか？

　こんな状況にもかかわらず、自分が情けなくなってきた。

　その時、明が口を開く。

「おい飛鳥……ん？」

　何か言いかけたが、途中で黙りこむ。目を細めながら、ゆっくりと入口の方に歩いて行った。何を思ったのか、雨が降っている中、外に出ていく。

　次の瞬間、外に向かい何やら叫びながら大きく手を振った。

　直後、こちらを振り返る。

「おい、良かったな。助けが来たみたいだぞ。向こうから、男が歩いてくる」

　そう言う明の表情は、一応は嬉しそうではあった。が、若干つまらなさそうにも見えた。

　だが、女子三人の顔は一気に明るくなる。

「助かったあ……」

　直枝が、心底ホッとした顔で言った。

「君たち、大丈夫か？」

　言いながら洞穴の中に入って来たのは、ひとりの男だった。年齢はニ十代後半から三十代前半で、背が高く肩幅の広いがっしりした体格だ。丈夫そうなレインコートを着て、リュックサックを背負っている。足にはトレッキングシューズだ。山男、と呼ばれる人種のように見えた。

　そんな山男の言葉に対し、真っ先に反応したのは大場だ。

「だ、大丈夫じゃないですよ！　早く家に帰してください！」

　ヒステリックな声で、子供みたいに喚く。僕は思わず苦笑した。いきなり、帰してくださいなどと言われても困るだろう。この山男に誘拐された訳ではないのだ。

　それにしても、さっきまで震えていたのに、この変わりようは何なのだ……密かに、そんなことを考えていた。

　すると、山男は皆の顔をぐるりと見回す。

「ところで、あの事故で生き残ったのは、君たちだけなのか？」

　僕たちの顔を確認するように見た後、そう聞いてきた。

「そ、そうだと思います。そうでしょ？」

　そう言ったのは直枝だ。確認するかのように、明の顔を見る。

「ええ。あとは全員、死んだはずです」

　明は答えた後、動物を観察する学者のような表情で山男を見つめる。その目には、どこか妙な感じがあった。

　山男は高宮昭一（タカミヤ　ショウイチ）と名乗った。この近くの村で、林業をして細々と生活しているのだという。

　先ほどの地震で村はパニックに陥っていたが、今はひとまず落ち着いている。一息ついたところに事故の知らせが入り、そのため様子を見に来た……とのことだ。

　僕たちも自己紹介をした。気絶していた上条は大場が叩き起こし、無理やり自己紹介させた。

「とにかく、あたしたちはこんな洞窟から、さっさと出たいんですけど」

　大場が偉そうな口調で言った。さっきまでとは態度が一変し、彼女が皆を仕切り始めている。時おり、芳賀と何やらヒソヒソ話していた。

　そんな二人を見ていて、僕は笑いを堪えるのに必死だった。さっきまで無能呼ばわりされ、生まれたての仔犬のように震えていた。なのに、この態度の変化は何なのだろう。

　こいつら、長生きするだろうな……と思いながら、明に視線を移した。すると、おかしなことに気づく。

　明は、高宮をじっと見つめていた。いや、観察といった方が正確だろう。その視線は鋭く、獲物を狙うハンターのようにすら見えた。

　一体どうしたのだろう？　僕も、高宮を見てみた。

　当の高宮は、デレデレしながら女子三人と話している。聞いているこちらが冷や汗をかいてしまうような下らないギャグを言いながら、大場や芳賀とジャレ合っている。

　時おり、いかつい体に不釣り合いな細くしなやかな手で大場の肩を叩いたり、芳賀の腕に触ったりしている。しまいには、太ももに軽く触れるようなことまで……完全なセクハラ親父である。

　だが、大場も芳賀も、こうしたセクハラ親父の対応には慣れているらしく、上手くあしらっている。大場と芳賀の、日頃の生活が垣間見えたような気がした。

　あのセクハラ親父の何が明の興味を引いたのだろうか。そんなことを思いながら高宮を見ているうちに、僅かではあるが違和感を覚えた。何だろうか。はっきりとはわからないし、不審者にも見えない。むしろ、感じはいい。しかし、何かが変だ。

　まあ、いいか。バスが崖から落ちるという大事故に遭いながら、九死に一生を得た。しかも、洞窟の中で途方に暮れていたら、すぐに助けが来たのだ。何も悩むことはない。

　本当によかった。

　これで、家に帰れる。