その時
その時……明は翔の凶行を横目で見つつ、もう片方の男と向き合っていた。
男は残忍な表情を浮かべ、棒を振り上げる──
寸分の狂いもないタイミングで、明は動いた。欠片ほども迷うことなく、すり足で間合いを詰めていく。その動きは速い。一瞬で両者の距離は縮んだ。
男の棒が振り下ろされたが、明は左の前腕で受け止める。空手の上段受けと同じ動きだ。
左腕に痛みが走る。だが接近することにより、最大の威力を発揮する間合いは外している。明の動きを止めるほどの威力はない。
ほぼ同時に、右手が動いた。伸ばした右手の指で、目を払うように突く──
男は目をつむり、のけぞる。指先で眼球を傷つけられたのだ。手から棒が落ちる。
明は左手を伸ばした。男の右腕を左の脇に抱える。さらに右手を男の左脇に差し込み、体を腰に乗せた。
凄まじい勢いで、一瞬にして地面に叩きつける。強烈な投げにより、男の口から呻き声が洩れた。
間髪入れず、足を降り下ろす。男の首を、一撃で踏み潰した──
その流れるような動きは、時間にして二秒か三秒ほどだ。しかも、息は全く乱れていない。表情も平静なままだ。
相手の死を横目で見ながら、明は周りの状況を素早く確認した。
すると、異様な光景が視界に入る。直枝は、呆然とした表情で翔の凶行を見ていた。己の口を、片手で押さえている。こみ上げてくるものをこらえているのか、あるいは翔の予想外の行動に衝撃を受けているのか。
その翔は相手の男に馬乗りになり、サバイバルナイフでめった刺しにしている。彼の顔は、返り血を大量に浴びて真っ赤に染まっていた。まるで、ホラー映画の怪物のようだ。
明は思わず舌打ちする。あれはやり過ぎだ。翔は今、極度の興奮状態にある。そのため、己の行動の制御が出来なくなっているのだ。放っておいたら、何をしでかすか分からない。下手をすると、仲間に襲いかかる可能性がある。
止めに入らなくては……そう思い、明は翔に近づいて行った。
だが突然、翔の手が止まる。その瞳には、奇妙な光が宿っていた。
憑かれたような表情で、翔は死体と化した男を見下ろしていた。
・・・
僕は突き刺した。サバイバルナイフを逆手に持ち、何度も何度も突き刺したのだ。
男も激しく抵抗した。しかし、すぐに弱々しくなる。そもそも、最初の不意打ちの段階で致命傷を負っていたはずなのだ。ここまで動き、抵抗できたことを誉めるべきなのかもしれない。
やがて、抵抗は
その時、僕は初めて体験したのだ。人の体から命が抜けていく瞬間と、その感触を。
口では上手く説明できないが、男に訪れた死の瞬間、その体から何かが抜けていくような感覚があったのだ。まるで、風船から空気が抜けていくような感覚だった。あれは、経験した者でないとわからないだろう。
はっきり言えるのは、その何かが抜けていくのを感じると同時に、男の死を確信した。
当たり前の話だが、僕はそれまで人を殺したことはない。いや、虫さえも殺したことはない。それなのに、男の死んだ瞬間がはっきりと理解できたのだ。
水中で苦しくなったら、呼吸という概念を教わっていない幼い子供でも、水から必死で上がろうとするはずだ。僕も、誰から教わったわけでもないのに確信した。目の前の男は今、この瞬間に死んだと。それこそが、本能の為せる業なのかもしれない。
その時、相手を殺してしまったことに対する恐怖や罪悪感などは無かった。いや、あったのもしれないが……それを、遥かに上回るものもあったのだ。
当時の僕の頭にあったもの、それは……。
何とも表現の仕様のない、ある種の達成感と満足感。さらに、不思議な恍惚感と万能感とに支配されていた。
まるで、神にでもなったかのようだった。
「おい翔、大丈夫か?」
遠くで、誰かが呼んでいる気がする。いったい誰だろう。
いや、それどころではない。僕は、殺さなくてはならなかったんだ。
奴らを殺す。皆殺しだ──
「おい、聞いてんのかよ! 翔、お前こっちを向け!」
突然、明の怒鳴る声が聞こえてきた。僕はしゃがんだまま、ゆっくりとそちらを向く。不思議な気持ちだった。万能感、とでも言おうか。今の自分なら何でも出来る、そんな奇妙な感覚に、全身を支配されているのだ。生まれて初めて味わう感覚だ──
次の瞬間、凄まじい腕力で襟首を掴まれ、引き上げられた。抵抗の余地すらないほどの強い力だ。僕は、一瞬のうちに立ち上がっていた。
直後、頬をひっぱたかれる。その衝撃は強烈だった。まるで、脳震盪を起こすような一撃。
僕はハッと我に返る。くらっとするような感覚に耐えながら、顔を上げた。
すると、目の前に明が立っていた。僕の襟首を片手で掴んだまま、射るような鋭い視線をこちらに向けている……。
「俺の声が聞こえるな? お前、大丈夫だろうな? 妙な真似をしたら、もう一発食らわすぞ」
静かな声で聞いてきた。僕に対し、怒っている訳でも心配している訳でもないらしい。その表情と声は、あくまでも平静なものだった。
ホッとした。
「う、うん。多分、大丈夫だと思う。ごめんね、僕のせいでみんなに迷惑かけて……」
その答えを聞き、明の顔にも僅かながら変化が生じる。目付きの鋭い表情が、少し柔らかくなったのだ。
「気にするな。今さら、お前を責めても仕方ない。これからは、もっと気をつけろ。とりあえず、あのズボンはどこかに隠せ。それと……」
そこで明は言葉を止め、視線を下に向ける。
つられて、僕もそちらを見た。すると、ナイフが死体のそばに転がったままであることに気づいた。血や肉らしきものが、べっとりと付着している。死体は血まみれで、あちこち切り刻まれ原型をとどめていない。
僕がやったのだ──
「あのナイフを回収して、綺麗にしておけ。切れ味が鈍ったら致命的だ。それと、次はもっと早く仕留めろ。戦いは、出来るだけ早く終わらせるのが鉄則だ。特に、こういう状況ではな。長引いたら、向こうの応援が来るかもしれない。覚えておけ」
そう言うと、明は死体と化した二人の体を調べ始める。心なしか、先ほどの言葉には感情らしきものが感じられた。
それを見ながら、僕はナイフを拾い上げる。明に言われた通り、カバンに入っていたジャージをタオル代わりにして血と脂を拭った。
異様な感覚だった。こんなに大量の血を見るのは初めてだ。にもかかわらず、僕は普通に血を拭っていた。
その時だった。
「ねえ、殺す必要があったの? ここまでやる必要があったの?」
不意に、直枝が口を開く。その表情は、真剣そのものだ。
「当たり前だろうが。戦闘不能にして逃げるなんて、そんな器用なマネは俺にはできない」
面倒くさそうな様子で、明が答える。だが、直枝はなおも聞いてくる。
「あんたなら、出来たんじゃないの?」
「絞め落としただけじゃ、息を吹き返す可能性があるんだよ。その後、どうなるかわからん。殺すのが、一番確かなやり方だ」
明の言葉には、微かな苛立ちがあった。しかし、直枝には引く気配がない。
「そんな恐ろしいことを言わないで──」
「いいか、奴らは普通じゃない。上条はな、奴らに殺られたんだ。この連中は、平気で人を殺す……いとも簡単にな。そんなイカレた集団を相手にするんだぞ。確実に止めを刺して、敵の数を減らさないと生き残れないんだよ」
その言葉を聞き、直枝は悔しそうに下を向いた。明の言葉が正しいことを、認めざるを得なかったのだろう。
直枝のような正義感の強く真面目な女の子が、なぜ石原高校に入ってしまったのだろう。彼女の悲劇は、その時点から始まっていたのかもしれない。
僕は思うのだ。直枝の言っていたことは間違いではない。むしろ、真っ当な考え方に基づくものだ。しかし、あの状況下ではベストな選択とも言えないだろう。
ひょっとしたら、あの時……誰も殺さず逃げ延びる方法はあったのかもしれない。だが当時の僕たちは、その方法を知らなかった。
「そういや、ひとつありがたいことを言っていたな。奴らは、明日になれば引き上げるらしい。となると、今夜一晩だけ持ちこたえればいいってことだ。奴らが引き上げるまで、息をひそめているとしようぜ」
そう言うと、明は僕と直枝を交互に見た。すると、直枝が顔を上げる。
「あの二人は? 佳代と優衣は助けないの?」
直枝の問いに、明は首を振った。
「大場と芳賀のことか? それは無理だ。奴らはもう死んでいるか、あるいは連れて行かれている可能性が高い。まあ、それ以前に俺に助ける気はないけどな」
淡々とした口調で答える。心の底から、どうでもいいと思っているらしい。
「そんな……ねえ、助けてあげてよ?」
「あのなあ、考えてもみろよ。俺たちは今、やっと助かるかもしれない可能性が出てきたんだよ。奴らは普通じゃない。恐らく、全員が本物の人殺しだ。そんな状況なのに、わざわざ身の危険を犯してまで、よく知りもしない奴を助けなきゃならないのか? 俺は御免だね」
呆れた顔つきで、明が言い返す。すると、直枝の表情が歪んだ。
「あたしたち、同じクラスの仲間なんだよ。一緒にあの事故を乗り切った仲間を見捨てるの?」
なおも明を説得しようとする。その表情は、横で見ていて痛々しいくらいだった。
だが、明は容赦しない。
「だったら、お前が自分だけの力で助けてやれよ。俺に頼らずに、な」
「えっ……そんなこと、あたしひとりじゃ無理だよ。出来る訳ない」
「出来ないなら黙ってな。警察でもないお前に、奴らを助けなきゃならない義務はないんだ。俺もお前も、自分が確実に生き延びる……ただ、それだけを考えていればいいんだよ。それに、俺は奴らを仲間だとは思ってない」
直枝は何も言えず、うつむくだけだった。その表情には、怒りがある。明に対する怒りか、それとも無力な自分に対する怒りだろうか。
横にいる僕は、ふと思った。あの二人は、これからどうなるのだろう。さっき明は、奴隷とか言ってたが、そうなるのだろうか。
いや、それ以前に……この連中は何なんだろう。頭がおかしいことは間違いないか、どこかいい加減な気がする。狂信的な集団にありがちな真面目さや真剣さが、今ひとつ感じられない。
そんなことを考えていた時だった。
「もういい……」
突然、直枝が震えるような声を出す。
「もう、あんたらには付き合いきれない。あんたの言う通り、あたしが二人を助ける」
そう言ったかと思うと、直枝は立ち上がる。そのまま、出て行こうと歩きだした。どうやら本気らしい。
「おい待て。まあ、落ち着けよ」
明が、すっと立ち上がった。直枝の行く手に立つ。
「直枝、はっきり言うが、そいつは自殺行為だ。しかし、どうしても二人を助けたいって言うのなら……」
次の瞬間、ニヤリと笑った。
「俺を説得してみなよ。大場と芳賀を助けるメリットがあるのか……それを教えてくれ。それが出来ないなら、ここで大人しくしてるんだな」
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