アメリカでの暮らしは
アメリカでの暮らしは、楽しいものだった。若い明にとって、見るもの聞くもの感じるもの、全てが新鮮だ。銃と刃物で武装したギャングがうろつくメキシコの貧民街とは、まるで違う。銃を所持している者も少なくないが、今まで暮らしていた場所に比べれば、治安は格段にいい。
火薬と血の匂いから解放された明は、アメリカでの生活を満喫していた。今まで触れ合うことのなかった様々な娯楽を味わう。もっとも、父との日課となっていたトレーニングだけは変わらない。走り込みや格闘技の練習などは、欠かさず
時には、チンピラに絡まれることもあった。ひどい時には、二十人の集団に襲われたこともある。もっとも、襲ってきた全員を病院送りにしてやった。メキシコにて銃器で武装したギャングと殺し合ってきた明にとって、アメリカの不良学生やチンピラなど子供も同然であった。
そんな中、明は父の様子がおかしいことに気づく。
ペドロは夜になると、どこかに出かけることがあった。狩猟用の大型ナイフや小型の電動ノコギリ、強力な洗剤、さらには硫酸など……用途がバラバラな道具を積んだ車で、ひとり出かけて行く。
そして、昼過ぎに帰って来た。血の匂いをぷんぷんさせながら、何事もなかったかのように家に上がって来る。常人には気付かれないであろう匂いだが、ついこの間まで死と隣り合わせに生きてきた明には、はっきりと感じ取れたのだ。
そんな事が数回続き、明は確信した。父は人殺しをしているのだ、と。
明の知る父は、冷酷であったが残忍ではなかった。凶人ではあったが、狂人ではないはずだった。
しかし、今のペドロの行動は完全に理解を超えている。当分の間、平和に暮らせるだけの金はあった。わざわざ罪を重ねて金を稼ぐ必要はない。ましてや、人を殺す必要などないはずだ。
なのに父は、この平和な国で人を殺し続けている。何か事情があるのか。あるいは……人殺しは、父ペドロにとって何ものにも勝る快楽となっているのかもしれない。
当然ながら、アメリカの司法当局はペドロの犯した罪を黙って見過ごしてはいなかった。FBIによる徹底的な捜査の末、連続殺人事件の犯人として逮捕される。不思議なことに、ペドロは抵抗らしい抵抗もせず、あっさりと逮捕されてしまったのだ。メキシコでは、軍隊のごとき装備をした者たちを相手に戦った。しかし、アメリカでは数人の捜査員が来ただけで、あっさりと両手を挙げる。
ペドロの罪は、七件の殺人事件であった。アメリカは、州によって法律が異なり死刑を廃止している所もある。
七人を殺したとなれば、半分以上の州で死刑になるであろう。だが、ペドロは司法取引をした。メキシカンマフィアの大物や組織の内部事情……その情報と引き換えに、仮釈放つきの終身刑を言い渡されたのである。
明には、未だにわからなかった。父が、なぜ人殺しをしていたのか……全くわからない。
抵抗もせず、あっさりと逮捕されてしまったことも理解不能だった。
その時、明は十七歳になっていた。
火薬と血の匂いの漂う世界で父と共に暮らしていた明だったが、その神にも等しい存在だったペドロが、いきなり消えてしまったのだ。
どうやって生きればいいのかわからない。金は、かなりの額が残っている。贅沢さえしなければ、あと十年くらいは暮らせるだろう。どうにか生活していけるだけの知識もある。だが、それでいいのだろうか。
偏った知識しかない自分が、アメリカでどうやって生きればいいのだろうか。
やがて、明は決心した。身の回りの僅かな物をかき集めて金に替え、さらにパスポートを取得した。このままアメリカに居ても仕方ない。それより、日本に渡り母の元を訪ねることにしたのだ。
こうして明は日本に渡った。ペドロから聞いていた僅かな手がかりだけを頼りに、母を捜すことにしたのである。
言葉もほとんど話せない異国の地にて、明は苦労しながらも母の実家を捜し当てる。だが、待っていたのは想像を超える事態だった。母は、何年も前に亡くなっていたのである。
母・工藤美樹は、日本に帰って来てから……誰に教わったのか、覚醒剤を打ち始めるようになっていたのだ。
美樹は薬物のもたらす快感に溺れ、その挙げ句に精神を病んでしまったのだ。奇怪な妄想に取り憑かれ、近所を徘徊する姿を目撃されていた。
最後には奇声を発しながら、包丁で両親を滅多刺しにして殺害した。その後、ビルの屋上に上がったかと思うと、喚きながら飛び降りてしまったのだという。
病院で解剖された時、母の全身の骨は粉々に砕けていた。覚醒剤の打ち過ぎにより、骨が異常に脆くなっていたのである。
彼女は、薬物に心も体もボロボロにされていたのだ。
その話を聞かされた時、明は呆然となった。
実のところ、母親の顔すら覚えていない。自分を父の元に残してひとりで日本に帰ってしまった彼女に対し、何のわだかまりもないと言えば嘘になる。
だが日本に来てみれば、その母は既に死んでいた。しかも、覚醒剤依存症の挙げ句に両親を刺殺し自殺とは。普通の少年なら、どんな反応を示したのだろうか。
ただ幸か不幸か、明は普通の少年ではなかった。これまで血なまぐさい世界に生き、人間の裏側をさんざん見てきている。そんな話は珍しくもない。しかも、父はプロの犯罪者であり連続殺人犯である。
明が唖然とした理由……それは単に、日本という国でどうやって暮らしていったらいいのかわからなかったためだ。当時の彼は、ただただ己の運の悪さを嘆くことしか出来なかったのである。
そんな明の前に現れ、後見人になってくれた人がいた。母の妹、つまりは明の叔母にあたる
純と初めて会った時、明は困惑した。母の妹のはずだったのだが、とても若く見える。明と、ほとんど変わらない年齢に見えた。
年齢を聞いてみると、二十七歳だという。それでも、彼女の見た目が若いことに変わりない。
「あたし、姉さんとは十歳違いだよ。しかも、血が繋がってないし」
そう言って、純はにっこりと笑った。化粧っ気はないが、可愛らしい顔立ちの女性だ。背はさほど高くないが、とても溌剌としたエネルギッシュな雰囲気を感じさせる。
「よろしくね、明。あたしのことを、お母さんだと思ってくれていいから」
挨拶の後、純は簡単に家庭環境を説明する。美樹が幼い頃、彼女の両親が離婚したのだ。美樹は母に引き取られる。
やがて美樹の母は、幼い娘を連れた男と再婚したのだ。その幼い娘が、純だったのである。美樹と純は、年齢の離れた義理の姉妹となったのだ。
母の義理の妹である純に引き取られ、明は彼女と一緒に暮らすこととなった。生まれて初めて、まともな人間としての暮らしができるようになったのだ。
日本という異国での生活は大変ではあったが、楽しいものでもあった。アメリカの時と同じく、目に映る何もかもが新鮮である。しかも、メキシコに居た時よりも遥かに便利な生活だ。夜にひとり歩きをしていても、襲われることはない。
それに何より、叔母の純が居てくれる。
叔母はとても面倒見が良く、慣れない日本の暮らしに悪戦苦闘している明を助け、様々な事を教えてくれる。根気強く丁寧に、時に優しく時に厳しく指導した。
一方の明は、飲み込みが早く素直で、しかも勉強熱心だ。教えられた事を、持ち前の真面目さでどんどん吸収していく。
純の熱血指導の甲斐あって、明は日本の暮らしに対応できるようになった。複雑な習慣にも慣れ、日本語の微妙なニュアンスの違いを理解し、日本でも不自由なく暮らせるようになったのだ。
こうして明は、父ペドロの呪縛から解放される。叔母が、彼に真っ当な生き方を教えてくれたのだ。日本に来たおかげで、犯罪以外の生き方を知ったのである。
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