明は天井を見上げ

 明は天井を見上げ、溜息を吐く。


「まったく、本当に困ったもんだよ。俺たちは、何でこんな場所にいるんだろうなあ。ひょっとしたら、これは俺のしてきたことに対する罰なのかねえ」


 その言葉は、自分自身に向けられているようにも見えた。ただ、先ほどまでとは違う雰囲気もある。まるで、仲のいい友人に、ツイていない出来事を愚痴っているかのようだった。らしからぬ態度に、僕は何も言えず黙っていた。

 ややあって、彼は寝ている直枝に視線を移す。


「よく寝てるな。こんな状況で眠れるとは、大したもんだよ。いや、それだけ疲れてたってことか。まあ、当然だよな。今までひとりで逃げ回って、隠れていたんだもんな」


「あっ……どうする? 直枝を起こそうか?」


 僕は直枝に近づいた。だが、明は首を振る。


「いや、いいよ。今は寝かせておけ。眠れる時には眠っておいた方がいい。それより、直枝が起きるまで話を聞いてくれよ。俺の話をな」


 不意に真剣な表情になり、語り始める。僕は黙ったまま、じっと明の話に耳を傾けていた。


 ・・・


 工藤明は、メキシコで生まれた。十八年前、メキシコ人と日本人のハーフの父ペドロと、日本人の母との間に生を受ける。

 しかし、家に母親の姿はなかった。母の工藤美樹ミキは、明が物心つく前に父と別れていたのだ。息子をメキシコに残し、ひとりで日本へと帰ってしまったのだという。

 普通の少年だったら、その事実に思うところがあったのかもしれない。だが明には、悩んでいる余裕などなかった。物心つくと同時に、壮絶なる戦いの日々が待っていたのだ。

 同時に、その戦いが明という人間を超人のようなレベルにまで鍛え上げた。ペドロという男は、最強にして最悪の戦士であったが、教師としても非凡な才能を持っていたのである。




 それは、ペドロのこの言葉から始まった。


「お前は、俺の息子だ。お前には、俺の血が流れている。俺の後継者になれるだろう」


 そう言うと、我が子に過酷なトレーニングをさせる。

 幼い明には訳がわからなかった。なぜ、自分がこんなことをしなくてはならないのか? 後継者とは何だ? 当時の明には、完全に理解不能だった。

 しかし、幼い子供にとって、父親とは神にも等しい存在である。言われたならば、従わざるを得ない。しかも、ペドロはただの父親ではないのだ──


 そんな父と息子の一日は、肉体のトレーニングで始まった。

 まず午前中には、素手による格闘技の練習をさせられる。それも、まともな格闘技ではない。殴る蹴るは当たり前。指で目を突いたり、股間を蹴ったり、耳たぶをちぎったり、喉を握り潰したり……というような、普通の格闘技なら反則になる技も指導されたのだ。

 そんな技の練習に、毎日一時間から二時間を費やした。さらに一時間近く、基礎体力の向上を目的としたトレーニングをこなす。ランニングや腕立て伏せや懸垂といったものだ。

 格闘技の時間の終わりには、砂を詰めた布袋に、拳、足、肘、膝といった部分を何度も何度も打ちつけた。打撃技は、手足を相手にぶつけダメージを与える技である。ぶつける側の手足も、強くなくては話にならない。格闘家でも、己の技により拳や足を痛めるケースは少なくない。

 ペドロの指導により、明の手足は硬く強くなっていく。凶器と化していったのである。


 昼食を食べ終わると、しばしの休憩時間を挟み再びトレーニングが始まる。午後からの部は、様々な武器の使い方を教わった。

 拳銃やナイフのようなオーソドックスなものから、腰のベルトで絞殺したり、安全ピンで急所を突いて殺す方法まで伝授された。余った時間には、父から読み書きや簡単な算数なども教わる。

 学校にも行かず、父から戦い方ばかり教わっていたが……それでも、明に不満はなかった。ペドロの指導は厳しいものであったが、教え方は非常に細かく丁寧である。しかも、子供にもわかりやすい論理的なものだったのだ。彼の教師としての能力は非常に高く、しかも明からの質問には常に即答である。

 明は改めて、ペドロという人間を凄いと思った。父に絶大なる信頼を抱いていく。

 しかも……父は何の仕事をしているのか知らないが、常に大金を持っている。欲しい物は何でも買ってくれたし、明に不自由な思いはさせなかった。

 毎日のトレーニング漬けの日々は、決して楽なものではない。それでも明は父が大好きだったし、また心から崇拝するようにもなっていた。

 いつか、父のような男になりたい。そう思いながら、明はトレーニングに励んでいく。

 そんな日々を重ねるにつれ、明の体は逞しく成長していく。父からの指導も、徐々に激しさを増していった。同時にペドロは、明の成長を喜んでいるようにも見えた。


 ある日のこと、父は自宅にボロボロの服を着た中年男を連れてきた。髪は長く伸びボサボサで、顔は汚れている。体からは、ひどい匂いが漂っている。前歯は抜け落ち、酷く痩せていた。それでも、体格では少年の明を上回っている。

 唖然となっている明に、父は言った。


「こいつを殺せ」


 突然のことに何も言えない明だったが、父はお構いなしだ。次に中年男の方を向き、こう言った。


「さて君は、この少年と闘ってくれたまえ。勝てたら帰らせてあげよう。負けたなら死んでもらう。闘わなくても死んでもらう」


 そう言うと、父はピストルを抜く。

 直後、宙に向け撃った。天井の破片が、ボロボロと崩れ落ちる。

 すると、中年男はこちらを向いた。次の瞬間、獣のような形相で明に掴みかかって来る──


 それは明にとって、初めての本物の闘いだった。

 死に物狂いで襲いかかって来た中年男の体格は、明よりも上である。しかも、必死になって立ち向かってくるのだ。トレーニングとはまるで違う、実際の闘い。普段から鍛え上げてきた明といえど、苦戦は避けられない。

 だが、生き延びたのは明だった。手こずりながらも、素手で仕留めた。中年男の目を潰して視力を奪い、投げで倒し、首をへし折ったのである。

 無論、殺したくて殺したのではない。生き延びるため……そして父に認めてもらいたいがために、中年男を殺したのだ。

 するとペドロは笑みを浮かべ、こう言った。


「これでお前も、俺たちの仲間入りだ」


 明は嬉しかった。誇らしげな気持ちで、その言葉を受け止めた。




 やがて明は、父の職業を知ることになる。同時に、その仕事を手伝うことにもなった。

 ペドロは、プロの犯罪者だったのだ。麻薬の売買、武装強盗、窃盗、殺人の請負いなどなど……金になるなら、手段は選ばない。普通の人間ならば、確実に尻込みするようなものばかりだ。しかし、明は必死で父の仕事を手伝った。ペドロの命令通りに動く。

 成金の所有している広大な庭を持つ屋敷に、明は掃除夫として潜入する。防犯システムを破壊した後、父とふたりで金目の物を片っ端から盗み出した。

 現金輸送車を襲撃し、警備員を皆殺しにする。その後、輸送車の中に入っていた多額の現金を強奪した。

 麻薬の密売人グループのアジトを襲撃し、そこにいた密売人たちを皆殺しにした。アジトに残されていた麻薬は安く叩き売り、現金は全ていただく。


 不思議なことに、犯罪を生業にしている者には珍しく、父は金には頓着が無かった。奪った金は常にキッチリ二人で山分けにしていたのだ。時には、計算が面倒だという理由から、奪った現金をそっくりそのまま明が貰うこともあったのである。無論、そこにはペドロなりの計算があったのかもしれない。

 もっとも、明にも物欲はない。幼いころからトレーニング漬けの人生だったため、金の使い方を知らなかったのだ。とりあえずはカバンに詰めておき、何かあった時に持ち出せるようにしておいた。

 そんな父ペドロと息子の明は、いつのまにかメキシコの裏社会では有名人になっていた。




 二人は警察に追われながらも、あちこちを荒らしまくる。父の指示するまま破壊し、殺し、奪う。そんな親子の神をも恐れぬ悪行三昧は、当然ながら多くの敵を作ることとなる。しまいには、大統領すら恐れるメキシカンマフィアの大物を敵に廻すことになってしまったのだ。

 親子は、マフィアの差し向けた暗殺者たちに狙われることとなった。腕利きの暗殺者が、連日のように二人の命を狙う。

 普通の人間だったら、確実に殺されているはずだった。いや、特殊な訓練を受けたような者でも、生き延びるのは不可能であろう。現にメキシコでは、マフィアの逆鱗に触れたため、警察署長や市長が暗殺された例がいくらでもある。

 しかし、この親子だけは勝手が違っていた。ペドロと明は、怪物じみた戦闘能力と霊能者のような勘の良さ。さらには、神がかった運の良さをも兼ね備えていたのだ。

 暗殺は全て失敗し、暗殺者のほとんどは返り討ちに遭い死亡した。生き残った暗殺者も、行方不明となっている。言うまでもなく逃亡したのだ。失敗したとなれば、今度は彼らがマフィアに狙われる……そうなった以上、逃げるしかないのだ。

 暗殺者の生死はともかく、彼らがみな任務を失敗した事実に変わりはない。数々の修羅場を潜ってきたはずの暗殺者ですら、この最凶の親子には歯が立たなかった。

 しかし、それでおとなしく引っ込んでいるほど、マフィアは甘くない。ついには、親子の潜伏している街に、軍隊並の装備をした百人を超える男たちを送り込んだ。このままでは、マフィアの面子が丸潰れだ。手段は選んでいられない。ひとつの街をまるごと消してでも、この親子を抹殺しようとしたのだ。


 この事件は当時、ちょっとしたニュースとなり世界を駆け巡った。表向きには、メキシカンマフィア同士の抗争という形で報道されている。さらには、このマフィアの暴挙を止めるために軍隊が出動し、街はまるで焼け野原のような状態になってしまったのだ。

 死者は少なくとも百人を超え、重軽傷を負った者は数百人と発表された。ここまで来ると、もはや内戦レベルである。

 しかし、そんな大事件を引き起こすきっかけとなったペドロと明の親子は……この世の地獄とも思える修羅場をくぐり抜け、国境を越えてアメリカに逃げ延びていた。





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