日本に来てから

 日本に来てから、明は純に様々なことを教わった。日本語の微妙なニュアンスの違いや敬語、日本での一般常識、それに礼儀作法などなど。

 明は乾いたスポンジが水を吸収するように、教わったこと全てを次々と吸収していく。純は明の飲み込みの早さに驚き、喜んでくれた。


「明! あんた凄いね! 頭いいよあんた!」


 そう言って、子供のように無邪気にはしゃぐ。そんな彼女の顔を見ると、明も幸せな気分になれた。

 明は、さらに学習を続け様々なことを覚えていった。自身のためではない。純の喜ぶ顔が見たい、ただそれだけだった。

 同時に、ある思いが彼の中に芽生える──




 ある日、明は迷いながらも純に打ち明ける。

 父が殺人鬼であることと、自らの過去を。その告白により、縁を切られるかもしれないことは覚悟の上だった。純は、自分に真剣に向き合ってくれている。これ以上、彼女に嘘をつきたくなかったのだ。

 話を聞き終えた純は、真剣な表情で口を開く。


「あんたは悪くない。悪いのは、あんたの父親だよ。明は、明。あたしの大事な家族だよ。これから、正しく真っ当に生きればいいの。もう二度と、悪いことしちゃ駄目だよ」


 そう言いながら、明を優しく抱きしめてくれた。

 その行為は、明を戸惑わせた。それまでとは、また違った想いが湧き上がってくる。

 叔母の純を、女性として意識するようになってしまったのだ。


 純は美しかった。同時に、可愛らしくもある女性だった。明より年上だが、楽しいことがあると豊かな表情ではしゃぎ、子供のようにちょっかいを出してきたり……かと思うと、ドキッとするような悩ましい仕草を見せることもある。そんな彼女が、今ではひどく眩しく見えた。

 初めは、その気持ちを必死で押し殺していた。しかし我慢できなくなった明は、自らの気持ちを純にぶつける。


「俺、あんたのことが好きだ」


「な、何を言ってるの……駄目だよ明……」


 頬を紅潮させ、純はうつむく。だが、明は止まらなかった。手を伸ばし、強引に彼女を抱き寄せる。


「俺は、あんたのことが好きだ。本気なんだよ。好きで好きで仕方ないんだ。もし迷惑なら、俺はこの家を出る。二度と叔母さんの前には姿を現さないから……」


 明のその言葉に、純は表情を歪める。顔を逸らし、呟くように言った。


「待って……明、聞いて欲しいことがあるの」


 そして純は、明の母である美樹の過去を語り始めた。




 美樹が覚醒剤を始めた理由、それは義理の父親・耕作コウサクからの暴力だった。明にとっては、祖父にあたる人物である。

 耕作は厳しい性格であり、もともと美樹とペドロの付き合いには反対していたのだ。しかも美樹が日本に逃げ帰って来てからは、性的虐待まで受けるようになっていたのだ。いくら血の繋がりがないとはいえ、これはあってはならないことだ。鬼畜の所業である。

 しかし母は、それを見てみぬ振りをしていたのだ。もし警察に言えば、身内の恥を晒すことにもなる。母は、義理の娘の受けた傷よりも家族の名誉を優先したのだ。

 家族の中で、唯一まともな心を持っていた純は、この狂った状況に耐えられなくなった。やがて、家を出て行く決意をする。

 美樹のことも誘った。だが、返ってきた答えは予想外のものだった。


「あたしが、あいつの……お父さんの言うこと聞かないと、お母さんが酷い目に遭わされるから……」


 そう言って、やつれた顔で笑った。この時には、もう普通の思考が出来なくなっていたはずだった。それでも、微かに優しい気持ちが残されていたのだ──

 純は迷ったものの、僅かな荷物をまとめてひとりで逃げ出した。これ以上、狂った家には居たくなかったのだ。

 しかし、それから一年も経たないうちに惨劇が起きる。純は、天涯孤独の身になってしまう。しかも、結果的に姉を見捨る形になってしまった。

 そんな彼女にとって、明は残された唯一の家族だった。




「もし、あたしがあの時に姉さんを無理やりにでも連れて行けば、あんなことにはならなかったかも知れない。あたしは姉さんを……あんたの母さんを助けられなかった。だから、あんたのことは絶対にちゃんとした大人にする。それまでは、あたしが面倒みるから……でないと、姉さんに申し訳ないよ」


 そういうと、純は明の腕から離れる。明は、それ以上何も出来なかった。

 語り終えた純の表情が、あまりにも痛々しかったからだ。


「今日のことは聞かなかった事にするから。あんたにも、いつか相応しい人が現れるよ」


 そう言うと、純は微笑んだ。だが、その笑顔は無理やり作ったものであるのは明白だった。

 以来、純との関係はぎごちないものになっていた。会話も、ほとんどない。二人でいる時の空気は、重苦しいものだった。

 明は、家に寄り付かなくなる。虚ろな空虚感が、彼を支配していた。ろくでもない家族の中に生を受け、希望もなく友もなく居場所もない。いつしか明は、メキシコに居た時を懐かしむようになっていた。殺し合っている時は、余計なことを考え悩まずに済むから──

 しかし、バスの事故が二人を変えた。


 ・・・

 

「あの後、家に帰ったら叔母さんに言われたんだ。俺のことを、男として意識してたって。俺が事故に遭ったって聞いた時、もし生きて戻ってきてくれたら気持ちに応えてあげよう……神さまに、そう祈ったってたんだって」


 明はそこまで話すと、急に顔をしかめる。しどろもどろになりながらも、再び語り出した。


「で、俺は……その……純、いや……叔母さんと──」


「ちょっとさあ、そういうのやめようよ。深刻な顔してるから、何かと思ったよ。ただのノロケじゃないか。これからラブラブぶりを聞かそうってのかい」


 そう言いながら、僕は明の胸を軽くド突く。


「えっ……」


 明は僕の対応に、キョトンとしている。その表情が可笑しくて、僕はプッと吹き出してしまった。

 さらに、鈴も立ち上がり明を睨む。


「叔母さんに手を出すなんて……この不良少年」


 そう言った次の瞬間、鈴は笑いながら明の頭をはたいた。


「ノロケてんじゃないわよ、全くもう」


「お、お前ら……」


 唖然した表情になる明。僕と鈴の顔を、交互に見ている。


「今までやってきたことに比べれば、大したことないじゃん。明は純さんが好きで、純さんも明が好きなんでしょ? 血は繋がってないんだし、問題ないじゃない」


 言いながら、僕は微笑んで見せた。鈴もニコニコしている。

 世間一般の常識に照らすなら、明と純さんの関係は忌むべきものなのかもしれない。だが、人殺しまでしてきた僕たちに、今さらタブーなどあるだろうか。二人の関係が、むしろ微笑ましかった。

 戦場にも等しい街で、怪物として育てられた最凶の男・工藤明。そんな男が、この日本で幸せを掴もうとしている。その事実が、僕は心の底から嬉しかった。

 そして最凶の男は今、僕たちの前で照れている。頬を真っ赤に染めながら……。




 鈴の家からの帰り道、僕と明は並んで歩いていた。


「それにしても、お前は本当に変わったよな」


 不意に明は足を止め、僕にそう言った。


「えっ?」


 明に合わせて、僕も足を止める。すると彼は、Tシャツ姿の僕の体を、まじまじと見つめ口を開いた。


「なんかお前、別人みたいに逞しくなったな。人の体って、短期間でここまで変わるのか……」


「いや、あれから筋トレが趣味になっちゃってさ。それに、明に比べりゃまだまだ甘いよ。とりあえず、今はベンチプレスで百キロを挙げるのが目標なのだ。うおお!」


 おどけた口調で言いながら、僕は腕を曲げ上腕二頭筋を盛り上げてみせた。ボディービルダーみたいな表情を作りながら……。

 そんな姿を見て、明はプッと吹き出す。この男は、本当に明るくなった。


「ハハハ、それじゃ筋肉バカじゃねえかよ。ところで、鈴は元気そうで良かったな。密かに心配してたんだが──」


「違うんだ。あれは、僕たちの前だけなんだよ」


 僕の言葉に、明の表情が堅くなる。


「んだと? どういう意味だ?」


「鈴は、外に一歩も出られないんだ。両親から聞いたんだけど、知らない人が近づくと、体が拒絶反応を起こすんだって。気分が悪くなったり、情緒不安定になって泣き出したり……ひどい時には、暴れ出したりするんだよ。外で、誰彼かまわず殴りかかって行ったこともあったらしい。カウンセリングすら受けられないんだ。僕ら以外の人間と接するのが怖いみたい。ねえ明、暇があったら、週に一度だけでも顔を出してあげようよ」


 そう、鈴は未だにあの村の記憶から逃れられずにいるのだ。

 僕たちが覗いてしまった修羅の世界。その闇は、あまりにも深く恐ろしいものだった。鈴は、覗いてしまった闇の恐ろしさに今も怯えている。怯えながらも、どうにか生きている。

 にもかかわらず、僕たちを心配させまいと明るく気丈に振る舞う。そんな鈴の姿は、見ていて辛いものを感じる……。


「そう言うお前は、大丈夫なのか?」


 不意に、明が尋ねてきた。


「えっ、僕? 僕は大丈夫だよ」


「本当か? はっきり言うがな、鈴の反応は特殊なものじゃない。あんな戦場みたいな一夜を過ごして、大丈夫な訳はないんだ。なあ、強がらないで俺にだけは本当のことを言え。お前、本当に大丈夫なんだろうな?」


 言いながら、明は僕の目を見つめた。

 あの闘いの時と同じ、すべてを射抜くかのような強烈な視線を感じる。だが、その奥には暖かいものもある。僕は、思わず視線を外した。


「少なくとも、今のところは大丈夫だから。もし今後、何かあったら、真っ先に相談させてもらうよ」


 下を向きながら、そう言った。しかし、明は視線を外さない。黙ったまま、じっと僕を見つめる。

 だが……少し間を置き、口を開いた。


「わかった。だがな、もしも何かあったら……遠慮しないで言えよ」


 明は、僕を本気で心配してくれているのだ。形容の出来ない熱いものが、僕の胸にこみ上げてきた。これまで生きてきた十六年の人生。初めて出来た友だちは、凶悪な犯罪者で、しかも連続殺人犯なのだ。

 でも明は僕にとって、かけがえのない存在だ。




 それから十日ほど経ったある日、僕はひとりで鈴の家に行った。


「また来たの? 暇だねえ翔は」


 口ではそう言いながらも、鈴は嬉しそうな顔で迎えてくれる。


「そういえば、明って普段は何してんの?」


 鈴の問いに、僕は笑みを浮かべて答える。


「うーん、あれでも一応は高校生だからね。学校行ったり純さんとイチャイチャしたりで忙しいんだよ。今日はアメリカに行ってるらしいけど」


「えっ? アメリカ?」


「そう、アメリカさ。向こうの刑務所に入ってる、親父さんの面会に行ったんだよ」


「親父さんって、あの殺人犯の?」


 鈴は目を丸くする。まあ、当然だろう。僕も、聞かされた時は唖然となってしまった。


「そうだよ。逮捕されてから、初めて面会するんだって」





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