事件の半年前

 暴力団事務所襲撃事件の半年前──


 雨の降る山道にて、バスが走っていた。乗っているのは、都立石原高校に在籍する一年A組の生徒たちと教員である。入学してから、初めての修学旅行へと行くためのバスだ。

 中は騒がしく、動物園のような雰囲気であった。いや、動物の方がまだ常識をわきまえていたかもしれない。


 ・・・


「だからよお、俺は言ってやったね。てめえらよ、ヤんのかヤんねえのかはっきりしろ! ヤんなら、さっさと来いや! ってな。そしたら、全員ビビって逃げてんの。向こうは二十人くらいいたんだぜ。情けねえ奴らだよ」


 後ろの席で、取り巻きを相手に大きな声で武勇伝を語っているのは上条カミジョウ京介キョウスケだ。身長は百八十センチを超えており、骨太で肩幅の広いガッチリした体格である。喧嘩では負けたことがねえ、と常日頃から語っていた。自分はギャングだか少年ヤクザだかの準構成員だ、などとクラスで吹聴してもいる。

 

「ねえ、お姉さん。今日、どんな色のパンツ履いてんの?」


 バスガイドに向かい、そんなことを聞いているのは鈴木スズキ康夫ヤスオだ。時おり聞こえて来る「ヒャッハー!」という奇声は、芳賀ハガ優衣ユイのものだろう。どちらも、クラスで有名なお調子者だ。彼らは、ウケるためなら何でもする。近いうちに、犯罪の動画投稿で逮捕されるだろう……そういうタイプの人間だ。

 そんなバスの騒ぎを聞きながら、僕は溜息を吐いた。なぜ、こんな学校に入学してしまったのだろうか。

 窓から外を見れば、大粒の雨が降っていた。空は暗く、昼間とは思えない。憂鬱な気分に、さらに拍車をかける天候だ。

 ふと、自身の辛い過去に思いを馳せてしまった。




 僕の名は、飛鳥アスカショウ

 中学生の時の僕の特徴はと問われれば、パッとしない奴……という一言で終わりだろう。見た目は地味だし、スポーツの類いはまるで駄目。勉強も平均点以下である。性格も暗く引っ込み思案で、大勢でわいわいやるよりは、ひとりで遊んでいる方が好きなタイプの少年だった。

 しかも、幼い頃より他人と接するのが苦手であった。いわゆる、空気が読めないタイプだったらしい。

 そんな僕は、中学生になってしばらくしてからイジメに遭う。


 そもそもの発端は何だったのか、自分でも未だによくわかっていない。

 確かなことはひとつ。僕は中学二年生の時には、とある数人のグループのイジメのターゲットになっていたのである。

 初めは、ごく些細な「イジリ」と呼ばれるもの……特定のグループ内での、ちょっとした毒のある言葉や体をこづいたりといったものだった。それだけなら、よくあることの一言で終わりだ。

 しかし、イジリというものは段々とエスカレートしていくのが常である。特に中学生くらいの年代では、ほどほどのラインで止めておくという事が出来ないものなのだ。僕に対する「イジリ」が「イジメ」に変わるまでに、そう時間はかからなかった。

 いつからか、僕はグループ内でサンドバッグの役割をさせられるようになっていた。みんなが気晴らしのために、彼の腹や肩を殴るようになっていたのだ。初めは軽く、次第に強く。

 そして、いじめは更にエスカレートしていく。コンビニで万引きさせられたり、川に突き落とされたりもした。さらには、全裸で公園を歩く様を動画に録られたりもしたのだ。

 ついこの前まで、友人だったはずの彼ら。だが僕と彼らとの関係は、まるで違うものになっていた。いつの間にか、主従関係へと変化したのだ。いや、主人と奴隷といった方が正確だろう。

 かつて友人だった者たちからのイジメは、心と体をズタズタにしていく。やがて僕は、中学校に行かなくなった。いや、行けなくなってしまったのだ。

 やがて教師たちにイジメが発覚し、どうにか地獄の日々からは解放された。しかし、その頃にはどん底に近いレベルまで成績は落ちていた。中学三年生の時には、まともな高校に入れないような状態になっていたのだ。

 そんな僕が、どうにか入れたのが石原高校である。晴れて合格はしたものの、高校生活には何の希望も持てない状態であった。入学試験の時点で、どんな生徒がいるのかは把握している。都内の高校の中で、もっとも低レベルな学校なのだ。入学試験で、自分の名前を漢字で書くことが出来れば合格する……そんな噂まで流れていたくらいだ。

 こんな高校に入ったとして、一体どんな夢が見られるというのだろう。




 その時、隣の席に座っていた工藤クドウアキラが、微かに身をよじる。僕は、思わずビクリとなった。そっと顔を見てみるが、機嫌を損ねた感じはない。目をつぶり眠っている。狸寝入りなのかもしれないが。

 この明の異様さは、同級生の中でもトップクラスであろう。身長は百七十センチから百七十五センチくらい。髪は短めで、ピアスの類はつけていない。肩幅は広くがっちりした体つきであり、手のひらや拳はゴツゴツしている。まあ、ここまではいい。

 明は老けていた。何か事情があるのだろうが、外見からして高校一年生でないのは明らかだ。その上、異様なくらい落ち着いていた。態度や仕草など、完全に僕たちとは違う人種である。

 また、目鼻立ちの整った彫りの深い顔立ちは、純粋な日本人のものとは思えない。さらに、全身から放たれている迫力は、そこいらのチンピラやヤクザなどとは比較にならないものだった。近寄りがたい何かを、一目で他者に感じさせる。

 結果、クラスでもっとも影の薄い僕と、クラスでもっとも近寄りがたい明とが、余った者同士で隣に座ることになってしまったのだ。

 バスに乗る前、僕は怖さとやりにくさとを感じていた。何せ、クラスの皆から避けられているような男だ。隣の席から何を言ってくるのだろうか……という不安があった。

 しかし、その不安は杞憂だった。バスに乗ると同時に、明は僕に話しかけてきたのだ。


「おい飛鳥、お前は乗り物酔いとかするのか?」


「えっ? あ、あの……うん、するかもしれない」


「だったら、お前は窓際だな。もし気持ち悪くなったら、窓開けて外に吐いてくれ。外だったら、いくら汚しても構わないから。俺は寝るから、着いたら起こしてくれよ。本当に面倒くさい話だよな……何が修学旅行だ。何を学べと言うんだろうな」


 そんな無茶苦茶なことを言ったかと思うと、明は本当に寝てしまった……ように見えた。目をつぶり、顔を横に向けている。もっとも、その方が僕としてもありがたかった。起きていられたら、気を使うことになる。

 一応、今も寝ているらしい。そんなことを思っていた時だった。 


「ちょっと! 何ここ! 最悪じゃん。信じらんないよ」


 後ろの方の席から、声が聞こえてきた。大場オオバ佳代カヨのものだ。彼女は、僕とは完全にランクが違う人種である。男を引き付ける美貌と体の持ち主であり、同級生を手玉にとることなどたやすいことだった。クラスの者たちの人心を掌握する術にも長けていたし、自信に満ち溢れた態度は女子からも人気があった。

 結果、入学して一ヶ月足らずの間に、クラスのリーダー的な存在になっている。無論、「オオバカの奴、本当うぜえよ」などと陰口をいう者もいた。しかし、面と向かって言う者はいない。

 そんな大場が、何やらぶつぶつ言っている。何が最悪なのかは不明だが、大場の機嫌が悪いのは間違いない。とりあえず、彼女の方を見ないようにしておこう。僕は、窓の方を向いた。

 バスは、山道を走っている。雨はどんどん激しくなり、視界も悪くなっている。確か天気予報では、曇り一時雨だった。しかし外を見る限り、一時雨どころではない。もはや、嵐のレベルである。天気がこうまで急変するのは珍しい。

 この時、僕は気づいていなかった。クラスの担任である滝沢タキザワと運転手とが、深刻な顔でヒソヒソ話していたことを。

 隣の席の明の目が、すっと開いたことを。


 次の瞬間、バスがぐらりと揺れた。


「地震か?」


 明が、ボソッと呟いたのが聞こえた。僕は彼の方を向く。何が起きているのか聞こうとした時だった。

 直後、バスがバランスを崩す──




 考えうる限り、最悪の状況だった。

 当時、バスが走っていたのは崖沿いの道路である。急に降り出した雨は、もはや豪雨と呼べるほど激しいものだった。当然ながら路面は濡れており、滑りやすくなっている。急な天候の変化により、視界は最悪だ。風も強い。

 実際、バスの運転手と担任の滝沢は校長らと無線で連絡を取っていた。崖沿いを抜け開けた場所に来たら、バスを停めて様子を見よう……ということを決めていたらしい。あと数十メートル走ったら、バスは停まるはずだった。

 あと数秒で停まる……そのタイミングで、地震が起きたのだ。それも、震度五の地震である。通常なら、スマホに緊急地震警報が届いていたはずだったが、地形や急な大雨による電波障害のせいで、運転手や教師らには伝わらなかったのだ。

 もはや、運転手の腕でどうこう出来る状況ではない。バスはコントロールを失い、ガードレールを破壊し、崖下へと転落していった。

 約三十人の人間を乗せたまま──




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