明と力士との
明と力士との、凄まじい闘いが始まった。
だが、両者の死闘を見ている余裕などない。ほぼ同時に、僕もボクサーに向かって行った。咆哮と共に突進し、サバイバルナイフを突き出す──
だが目の前にいるボクサーは、突き出された刃を掴む。いとも簡単に、刃の軌道を逸らせたのだ。
あいつ、痛くないのかよ!?
ナイフの刃を掴むという想定外の行動に驚き、一瞬ではあるが動きが止まってしまった。
その瞬間、パンチが放たれる──
ボクサーの拳が飛んでくる。恐ろしく速く、キレのある右のストレートだ。元プロボクサーという言葉に嘘はなかった。
そのパンチをまともに
結果、右ストレートは顔ではなく額に当たったのだ。
強烈な痛みが頭に走った。だが、それは耐えられる痛さだ。まだ動ける。痛みに耐えながらも、ナイフを振り上げ必死で反撃を試みた。
しかし、すぐさま次の攻撃が来る。ナイフを振り上げ、がら空きになった腹。そこに、腰の回転を利かせたボディフックが炸裂したのだ。
僕の腹に、ボクサーの左拳がめり込む──
「うぐぅ!」
その瞬間、思わず声を上げてしゃがみこんでいた。痛いだけでなく、息がつまるような衝撃を感じた。今まで受けたいじめでも、こんな苦しいパンチはなかった。それまでの人生において、もっとも効いた攻撃だ。僕は耐えきれず、腹を押さえて倒れる。内臓にまで届くダメージだ。
前屈みに倒れた僕の背中に、ボクサーが馬乗りになってきた。残忍な表情で、パンチを浴びせてくる──
それに対し、僕は腕で頭を覆うことしか出来なかった。だが、ボクサーの動きは止まらない。なおも殴り続けてくる。
今から思うと、このボクサーは幾つもの細かいミスを犯している。やはり、高校生である僕たちを甘く見ていたのだろう。自信は大事だが、それが過信になってしまっては、むしろマイナスでしかない。
彼の犯したミスのひとつは、この状況で僕に馬乗りになったことだ。馬乗りのパンチというのは強力ではある。だが、僕は前屈みに倒れ背中を向けていた。仰向けならともかく、うつぶせになっている状況では、パンチのダメージも少なくなる。
さらに、ボクサーには周りの状況がまるで見えていなかった。奴は、直枝の存在を完全に忘れていたのである。
突然、ボクサーのパンチが
今しかない。僕は、素早く上体を起こして立ち上がった。見ると、ボクサーが顔面から血を流しながら倒れている。鼻血のようだ。あるいは、前歯が折れているのかもしれない。
そして、直枝が蒼白な顔をしながらも、闘いの構えをして睨み付けている。どうやら、直枝の放った蹴りがボクサーの顔面に当たったらしい。
しかし、闘いはまだ終わりではなかったのだ。タラレバになるが、もし直枝が、倒れたボクサーに追い討ちをかけていれば、闘いはそこで終わっていたかもしれない。
だが直枝は、まだ情けを捨てきれていなかったのだ。
「このガキが! ぶっ殺してやる!」
ボクサーは、喚くと同時に立ち上がる。蹴りのダメージは、彼にとって耐えられる範囲のものらしい。興奮状態にある時、人間は驚くほど打たれ強くなるのだ。まして、ボクサーは打たれることに対する免疫がある。痛みに耐える能力もまた、常人よりも上だ。
しかし、当時の僕にそんな知識は無い。ボクサーが凄まじいスピードで直枝に襲いかかるのを、呆然と眺めていたのだ。
突進して行くボクサー。その左足に、直枝の体重を乗せた右のローキックが炸裂する──
一瞬、ボクサーの顔が歪んだ。だが、ボクサーの突進はその一発では止まらない。鋭い左ジャブを放ち、なおも前進していく。その動きは速い。
直枝は避けきれず、顔にまともにパンチをもらってしまう。彼女は、顔を両腕でガードしながら下がっていく。
だが、ボクサーの連打は止まらない。一気に壁ぎわまで追い詰めると、ガードの上から容赦なく殴りつける。
直枝は苦悶の表情を浮かべた。普通の女の子なら、最初のパンチで戦意を喪失していただろう。
だが、直枝は空手の有段者だ。彼女もまた、殴り合うことには慣れている。打たれながらも、必死で組み付いていく。
その時、僕はようやく我に返った。彼女だけに戦わせる訳にはいかない。
直枝を助けるんだ!
その一念により、僕の口から喚き声が出ていた。半ば本能的な行動だったのだが……吠えることで自らの恐怖を打ち払い、勇気を奮い起こしたのだ。
直後、ボクサーに向かって行く。背後から突進していき、その背中めがけて、ナイフを突き出した。
しかし、その刃は突き刺さらなかった。何かに弾かれるような感触だ──
何だこれは!?
すると、ボクサーが憤怒の形相で振り向く。組み付いていた直枝を突き飛ばすと、僕を睨みながら拳を構える──
考えている暇などなかった。殺らなければ、殺られるのだ。無我夢中で、ボクサーの顔めがけてナイフで切り付ける。
すると今度は、はっきりとした手応えがあった。皮膚を切り裂き、骨まで到達する一撃。
ボクサーの顔に、奇妙な表情が浮かんだ。驚き、怒り、苦痛、混乱などの感情が入り混じった表情だ。直後、顔の傷を片手て覆う。
しかし、僕は止まらなかった。ここで躊躇していたら、今度は僕たちが殺られるのだ。僕だけでなく、直枝まで殺される。
後で知ったことだが、ボクサーは防刃のグローブをはめ、防刃ベストを着ていたのだ。
だが、その時は考えている余裕などなかった。僕は必死で、何度も切りつける。頭や首など、空いている部分を目茶苦茶に切り続けた──
ボクサーの顔が、みるみるうちに恐怖に染まっていった。彼の体から吹き出た血が、僕の心と体を真っ赤に染めていく。
この時も、僕は間違いなく感じた。あの、命が抜けていく瞬間を──
それを感じた時、はっきり理解した。どんな人間も、死ねば同じなのだ。ただの肉の塊なのである。どんなに強い格闘家も、どんなに知能の高い学者も、死んでしまえば肉の塊だ。
そう、全ての人間は死の前に平等だ。僕には、人間に死をもたらす力がある。その時、全ての人間が平等になるのだ。
まるで、神にも等しい力だ。
ならば、僕は正義のために、この力を行使する。
「おい翔! もういい! こいつは死んでる!」
いきなり声が聞こえた。と同時に、誰かに襟首を掴まれ、頬をはたかれる──
その強烈な一撃で、ようやく我に返る。すると、目の前に明が立っているのがわかった。険しい表情で、僕をじっと見つめている。
辺りを見回すと、既にボクサーは死んでいた。おびただしい量の血が流れ、顔は原形をとどめていなかった。喉は切り裂かれ、傷口がぱっくり開いている。サバイバルナイフで、何度も何度も切りつけたせいだ。
だが、その時の僕に恐怖はなかった。むしろ、別の感情の方が大きかった気がする。あの、強いボクサーに勝てた……その満足感が、僕の五体を駆け巡っていた。
そう、僕は勝利の喜びを知ったのだ──
だが、余韻に浸っている場合ではなかった。直後、奇妙な音が聞こえてくる。
音の主は直枝だった。彼女はその場にしゃがみ、恥じらいを捨て、僕たちの目の前で胃の中の物を戻していたのだ。
それは当然だ。僕だって、先ほどは恐怖のあまり失禁しているのだ。現実の戦いは遊びとは違うし、アニメや映画のように格好のいいものではない。直枝は、普通の女の子に比べればずっと強い。いや、並の男よりも遥かに強いはずだ。にもかかわらず、こうなってしまう……。
「直枝は、もう無理だ。後は、俺とお前だけしかいないぞ。俺とお前の二人だけで、奴らを倒していくしかない。覚悟はいいな」
明が耳元で囁き、僕は小さく頷いた。
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