終章
epilogue
一週間が経過した。
町の中からは少しずつ、動物の姿が減っていった。
彼らはなかなか律儀な性格をしていた。この町にいれば安定した餌場を確保できるというのに、それを利用し続けることを選択しなかった。
今はもう、電線を見上げても鳥の姿を見つける方が難しい。
彼らはきっと、納得してくれたのだろう。
自分たちはもう必要ない。わずかな『何か』が変わったという、その実感だけで十分だと。
あの日以降、誰かの心が操作されることは一度もなかった。
相変わらず、緑のカードの効果だけは続いていた。だからそれを使い、生き残った榊と二人、様々な事後処理を進めていった。
「ひとまず、君はもう自分の好きなようにしていいと思う。あとのことは、私が責任を持ってやっておくよ」
学校の転校手続き、知り合った人たちとの別れ。それらを少しずつ処理していく。なるべくはカードの力を使わず、言葉と礼儀で解決することを自分に課した。
「では、あとのことはお願いします」
直斗は梅嶋家の前に立ち、榊に深々と頭を下げる。彼は相変わらずの猫背で、「いやいや」と照れた表情を浮かべた。
日曜日の午前十時。幸いにも天候には恵まれた。
直斗は今まで暮らした家を眺める。午前の光に照らされて、白い外壁が眩かった。
家の中では今も、夫婦が穏やかに生活している。もう彼らには緑のカードを使い、嘘の記憶はリセットしてある。
彼らの姿を思い、直斗は家へ向かってお辞儀をした。
総合病院の前に辿り着き、駐車場のスペースに目を走らせる。
一週間が経過して、『痕跡』は綺麗に取り除かれたようだった。現在では事件現場を表すテーピングもなく、花が供えられることもない。
あの日、全てに決着がついた時、宍戸の願いも叶えられた。
そして、宍戸義弥は鳥になった。
彼は晴れ晴れとした表情で、すぐに屋上の鉄柵をよじのぼる。そのまま空へと向けて、高く羽ばたいて行ったのだった。
直斗はそっと両手を合わせる。人間ではなくなったあの男の死後は、自分には感知できない。動物たちと共にあるべき世界へと行けたのだろうか。
やめよう、と頭を振り、自動扉をくぐり抜ける。すべてが終わった以上、もうあの男を恨むのはやめよう。
病院の待合室を抜け、一般病棟への階段を上っていく。この町で得た知り合いに対しては、ちゃんと挨拶をしておきたかった。
「入るよ」と病室の戸をノックし、夕美の部屋へと入る。幼い少女はベッドの上で体を起こし、両手にぬいぐるみを抱えていた。
「ナオくん」と弾けんばかりの笑顔で迎えてくる。そしてすぐに傍らを向き、「ナオくん、来てくれたよ」と報告をしていた。
彼女の傍らへと歩み寄り、優しく頭を撫でる。夕美は気持ち良さそうに目を細めた。
「今日、これから引っ越すんだ。だから、お別れを言いに来た」
目線の高さを合わせ、柔らかく語りかける。「えー」と夕美はわずかに声を上げる。
「もう、会いに来てくれないの?」
「そうじゃないよ。一度、家に帰るんだ。少ししたら、必ずまた会いに来るよ」
「じゃあ、やくそくだよ」言って、小指を出す。
「うん、約束だ。必ずまた、会いに来る」
直斗も小指を出し、夕美としっかり結び合わせる。また彼女の頭を撫で、「じゃあ」といとまを告げる。
病室の入口へと行き、そこでまた振り返る。夕美は小さな手を振ってきた。「またね」と告げ、直斗も手を振り返す。
(ああ、またな)
かすかに声が聞こえてくる。夕美の傍らでふんわりと、手を振る姿が見て取れた。
今はきっと、喜んでいられる場面ではないのだろう。
東京行きの電車を待ちながら、直斗はじっと考える。
現在、駅のホームには他の人間の姿はない。直斗は一人きりでベンチに座り、膝の上で両手の指を組み合わせる。周囲には一切の物音がなく、自分の呼吸する音までが鮮明に聞き取れる。
おかげでずっと、あれこれと物想いに沈んでいた。
終わったのだ、とは実感できる。
もう動物たちが人を操ることはしない。彼らの不可思議な『救済劇』は終わり、世の中はわずかな変化に気づくことなく、今まで通りに動いている。
でも、失われたものは戻らない。
動物にされてしまった人々は、今もそのままだ。回復の兆しが見られるのかどうかは、今後も症状と向き合わなければわからない。
でも、今は信じたいと思う。
何かが動物たちに指示を出し、人の心を変えようとした。
最終的に、彼らの提示したのとは別の形で全ての決着がつけられた。それを察知したことにより、『何か』が動いてくれるかもしれない。
人を動物に変える必要はなかった。だから、いずれ元に戻そうと。
あまりにも、希望的過ぎる見方かもしれない。でも、今は信じたいと思う。
「だから、僕はまた戻ってくるよ」
直斗は静かに囁きかける。
人間の姿はなく、声を出しても不審がる者はない。だからはっきりと、傍らへ向けて意思を伝える。
傍らの影は身じろぎ一つしない。ベンチの端に体を収め、じっと虚空に瞳を向けていた。
「僕の言いたいこと、わかってるよな? 理屈がどうとかじゃなくて、これはただの希望かもしれない。それでも僕は、どうにかなりそうな気がしてるんだ」
相変わらず相手は無言。直斗は目元を和らげ、構わずに話を続けた。
「神様みたいなのが本当にいるんなら、この町の人たちのことも、元に戻せるはずだ。だからそれが出来るんだったら、すぐにでもみんなを助けて欲しい」
はっきりと一語ずつ、言葉を投げかけていく。
相手はまだ動かない。でも耳を傾けているのは伝わってきた。
「だから、伝えておいてほしい。話をする手段があるんだったら、僕がそう思ってるってこと、ちゃんと話しておいて欲しいんだ」
直斗は肩を落とし、深々と吐息をつく。「頼むよ」と静かに付け加えた。
心からの願いだ。この町に深い爪痕が残されている限り、安心して家に帰ることはできない。今朝になった段階で、家族の記憶は元に戻されたことを伝えられた。これでもうお役御免で、この町に留まっている必要はない。
でも、自分はもう関わってしまった。このまま全てを放置して、一人だけ安穏としているわけにもいかない。
だからせめて、心からの想いを伝えておく。
直斗はもう何も言わない。じっと頭を垂れ、静寂に身を任せる。もう間もなく電車が来るはずだったが、線路の先から音が響いてくる様子はなかった。
そうして、じっと耳をそばだてていた時だった。
ようやく、傍らの影が身じろぎをする。ベンチの上で足を動かし、黒一色の瞳でまっすぐに見上げてきた。
直斗はわずかに顔を向け、相手に一度頷きを返す。
何度も瞬きをする。相手も同じく目線を逸らさず、黙って傍に佇んでいた。
そんな時間が一分ほど続いた後、相手は嘴を大きく揺らめかせてきた。
声を発することはない。もう、今までのように使者をよこして語りかけてくることもしない。何があっても不器用に、こうして身じろぎをするのみだ。
だけど自然と、言いたいことは伝わってくる気がした。
『了解した』と。
深々と頷くかのように、彼は頭を上下させる。直斗は口元を綻ばせ、「じゃあ」と相手に言葉を投げかける。
程無くして、ようやく電車がやってくる。甲高いアナウンスと共に、ホームに銀色の車両が入ってきた。
「じゃあ、僕はもう行くよ」
穏やかに呟いて、直斗はゆっくりと立ち上がった。相手は最後に一声小さく鳴き、別れの挨拶を述べてきた。
黒い翼を大きく広げ、彼は空へと飛び立っていった。
(了)
ちいさなちいさな黙示録 黒澤カヌレ @kurocannele
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