第22話

 花崗がコンクリートの上に足を着けたのは、一時間後のことだった。二つの砕氷船は真っ直ぐに網走の漁港へと向かい、その間に混乱が生じることは無かった。女達も、観光客達も、誰も何も言わずに、ただ海に揺られていた。何のアナウンスも無い不安感は、誰にでもあっただろう。だが、文句の一つさえも言葉にしてはいけないという共通認識が、全ての人間の口を塞いでいた。

 その認識は、船を降りた後も続いていた。ネイビーの制服でくるくると周囲を走り回る海上保安官達は、まるで牧羊犬のようであった。海岸のコンクリートの上を狼狽える人々を四角く整列させる。隣にいる人間の足に揃って、前へ進む。その先には、彼らが船に乗り込んだ乗船口と、大量の簡易テントがあった。

「花崗」

 テントの前を横切ろうとしたとき、ふと、花崗を呼ぶ声があった。花崗は、そこでようやく「はい」と声を上げた。震える手足を声の方向に向ける。開いたビニールの奥からは、眉間に皺を寄せた武杜がこちらを覗いていた。延ばした花崗の手を掴んで、武杜は力強くテントの中に彼を引き入れた。

 倒れ込むようにして、花崗はテントの中へとその身を放り投げた。前のめりに倒れる彼が顔を見上げると、武杜と南雲が二人で花崗を見つめていた。

「医者連れてきます」

 上半身の乾いた血を見て、南雲は立ち上がった。彼を引き留めたのは、武杜だった。武杜が「待て」と言ったのを合図に、花崗もまた、乾いた喉を震わせた。

「僕は平気です。これ、全部返り血です」

 花崗がそう言うと、南雲は「は」と口を大きく開けた。呆れた様子でパイプ椅子の上に腰を落とす。そんな南雲の様子を眺めた後、武杜は長い溜息を吐いた。彼は頭を掻き毟りながら、再び「花崗」と彼の名を呼んだ。

「史化は成功したんだな」

 ぽつり。テントの中に、問いが落ちる。武杜の言葉を頭の中で反芻して、花崗は震える唇を噛んだ。

「先生は知ってたんですか、史化さんの、その……」

 武杜からの問いに、答えることは出来なかった。花崗が投げかけたもう一つの問いを、武杜は「あぁ」という小さな溜息で返した。

「女王との接触自体は、以前から計画されていた。それこそメタンハイドレートの採掘が始まってすぐのことだ。赤子の頭を小突いたと気付いて、な」

 船の上で何が起きていたのかを、花崗の姿で察したのだろう。武杜はそのまま、つらつらと何の説明も無しに語り出した。

「問題は母胎の確保だった。母胎だけが我々人類側の交渉カードだが、その血筋が今も存在しているかどうかも不明だった」

「でも、明美先輩が母胎になったことで、その血筋が見つかったんですね」

 花崗の応答に、武杜は僅かに口角を上げた。彼は疲れ切った表情の中に、穏やかな笑みを浮かべていた。

「ここまで話がまとまったのはつい先日のことだそうだ。遠野美沙の証言で、遠野明美が妊娠していることがわかってからの動きだからな。その後の行動指針が史化の提案だったのか、それとも海保側が言い出したことなのかは、私も知らないが」

 武杜はそう言うと、口を閉じた。彼は花崗から目を逸らすと、自らの唇を指で撫でた。それが口寂しさを紛らわす癖だということは、花崗にも何となく理解出来ていた。

「畠山先輩は結局何者なんですか?」

 その口の寒さを奪うようにして、花崗はまた問いを置いた。返答を期待してはいなかった。だが、武杜は花崗の問いに、何の躊躇も無く口を開いた。

「人智を越えた存在と、ヒトの間を取り持つ者。かつては巫者、シャーマン、巫女、イタコなどと呼ばれた存在」

 単語を散らして、武杜は口をもごもごと動かす。どう文章化すべきか。と、彼は数秒考えた後に、フッと小さく息を吸った。

「アイツの故郷は、三陸地方の中でも海の神に対する土着の信仰が根強く残る土地でな。母方の家系は代々集落の行事を取り仕切る巫女の家系。父親は東京出身の一般人だったと聞くが、元を辿れば母方の家系にも行き着く。つまり、畠山史化は、その巫者の血を濃く継いだ存在ということだ」

 海の神。その単語を、花崗は反芻した。

「そして、その母方の家系というのが、海保と繋がりがあった。元より海上安全に関わる女神を祀る家系でもあったらしい。お偉いさん方の祈祷なんかから始まって……いつからそういった関係だったかは不明だが、三代前には、今回のようなビジネスパートナーの関係にあったそうだ」

 花崗を置いて、武杜は語る。そんな彼の言葉の隙間に、花崗は小さく口を開けた。

「じゃあ、先輩は、お母様の仕事を継いで」

「半分はそういうことらしい。が、もう半分は違う」

 そう言って、武杜はふと、テントの外を見た。南雲が、天幕の隙間に指を入れる。そこには、船から降りようとする史化の姿があった。

「アイツは人魚を探している」

 武杜の呟きは、やけに軽かった。彼はテントから出ると、天幕を押し開けて、花崗と南雲を見た。南雲がテントの中から出ると、花崗もそれに続いた。南雲が、船の前に駆けていく。そんな彼の背を見つめて、武杜は歩を進めた。

「幼少の時分に出会い、その血を自身に飲ませた人魚を探しているんだ」

 独り言のように、武杜はそう言った。その言葉の意味を理解出来ないまま、花崗は前を行く二人に続いた。

「畠山!」

 船から続く階段を降りた史化に、南雲がそう叫んだ。響く低音に、史化はパッと笑った。彼の少年のような笑みに向かって、南雲は躊躇無く拳を叩きつけた。南雲からの理不尽な暴力を受けながら、史化は声を上げて笑っていた。

 そんな二人を眺めて、武杜は僅かに口角を上げていた。そんな調子で、武杜は溜息を長く吐くと、静かに「史化」と名を呼んだ。

「交渉はどうだった」

 南雲に胸ぐらを掴まれたまま、史化は武杜の問いに「そうですね」と喉を鳴らした。彼は悪戯な笑みを浮かべると、南雲の手を掴んだ。南雲から目を逸らし、手を外す。身体に着いた泥雪を払うと、ようやく彼は口を開いた。

「そこら辺は俺の仕事じゃないんで知りませんよ。ま、何とか上手くまとまったみたいです。真社会性なのが功を奏しました。女王が決めたことに娘達は逆らえません。加えて、あの女王様は思っていたよりも理性的な個体でしたんで、海保側から提示された条件はほぼ飲んでくれましたよ」

 そう言って、史化は船の上へ目を向けた。

「後は、明美の腹の中に居たのが新女王なら完璧です」

 史化の視線の先には、カラカラと音を立てるストレッチャーがあった。その上には力無く横たわる明美がいた。彼女の腹部は、既に膨らみを失っていた。そんな明美の乗ったストレッチャーの前を先導するように、スーツの女がタオルでくるまれた何かを抱えていた。海岸へ接続する階段を降りると、史化達の隣をすり抜けた。その一瞬、タオルの中身を、花崗は視界に入れた。

 心臓の底を、素手で撫でられる。そんな不快感が、花崗の吐き気を誘発した。

「なんだ、そんなに怯えて」

 硬直する花崗に、史化はそう首を傾げた。問いのようで、問いではない。彼は嘲笑と侮蔑に満ちた笑みで、花崗を見ていた。

「何か勘違いしているようだがな、お前にはみんな感謝してるんだぜ。お前が明美に手を出したおかげで交渉の余地が出来た。そうじゃなけりゃ海保は人魚との共生を打診するためにまた数十年待つことになっていただろうよ」

 本当だよ。と、史化は重ねた。そんな彼を、武杜が睨んだ。その鋭い視線を目に移して、史化は眉を下げた。何か言いかけていた口を閉じて、彼は一転して柔らかに頬を持ち上げた。

「ま、お前が心配すべきは、アレがお前の娘だった場合の責任の取り方じゃねえかな」

 彼はそう言って、テントの方へ視線を逸らした。花崗達が簡易テントの方向へ目を向けると、そこには、あのタオルを抱えたスーツの女がいた。彼女の腕から、タオルの中身がもう一人の女に手渡される。

 

 それは、ヒトの胎児でありながら、二の腕を持たなかった。

 それは、ヒトの胎児でありながら、足を持たなかった。

 それは、ヒトの胎児でありながら、鱗の無い魚のような下半身をしていた。


 ぎょろりと丸い瞳で、その赤子は、周囲を見渡していた。母を呼ぶ泣き声も上げず、それは、周囲の人間をしていた。


「アレがお前の娘だったとしたら、お前、どうする?」

 史化はそう笑って、花崗と目を合わせた。花崗は何も言えないまま、その場に立ち尽くしていた。期待の無い問いかけに、用意できた答えは無かった。クチの動かないその数秒が、花崗の喉を絞める。彼を見上げて、史化はフッと鼻で笑った。

「現実逃避は一回やめるか。お前に何言っても何も言わないんじゃ、意味が無い」

 意味が無い。そう呟いた時、史化の表情は地面に落ちていた。無感情な彼の目は、そのままジッと船の上を見ていた。

 ストレッチャーが、階段を降りようとする様子を眺めながら、史化は再び口を開いた。

「とりあえず、まずは遠野姉妹の叔母さんを呼ぶところからかな。姪っ子その一が化け物産んだかもしれない上に、姪っ子その二が女性一人殺しましたって……泡吹いて倒れないと良いけど、あの人」

「それならもうこっちでやってあるぞ。船に乗った時点のことだから、状況は何も伝えていないが」

 武杜がそう答えると、史化はまたパッと明るく笑った。

「逆にその方が良かったですよ。電話越しにパニック起こされても困るし。美沙ちゃんのことなんか、俺説明出来る自信無いですし」

 彼はそう言って、苦く口元を歪めた。史化の視線は、船の上へと向いていた。そんな彼の横顔を見て、ふと、花崗は口を開いた。

「そういえば、美沙さんは」

 その問いを耳にした史化は、一度、眉間に皺を寄せた。彼はその表情のまま、数秒固まった。

「は? それ聞きたいのこっちなんだけど。最後に美沙ちゃん抱えてたのお前だろ。誰に預けたんだ」

 史化がそう言うと、その場に立っていた全員が、花崗を見ていた。花崗は、パクパクと口の開閉を繰り返す。冷や汗が背を伝う。そんな彼の表情を見上げている中で、南雲が目を見開いた。

 南雲は咄嗟に、階段の前に走った。階段を下るストレッチャーを持つ救急隊員達の、その奥。一人の少女を見上げて、南雲は息を吸った。その様子に、誰よりも早く反応したのは、史化だった。

「待て、やめろ!」

 南雲の声と共に、少女――――美沙は、姉の乗るストレッチャーの、その端を持つ隊員の膝裏へ、靴裏を押しつけた。そのまま、彼女は己の全体重をその隊員の身体に乗せる。バランスを崩した彼ともう一人の隊員は、ストレッチャーと共に南雲の上に降りかかった。

「こんのクソガキッ…………!」

 横に崩れた隊員の隙間、明美を括り付けた金属と布の塊が、南雲に触れようとした。その瞬間、南雲の身体は横にズレた。彼を押しのけたのは、史化だった。飛び出した史化の目は、階段で勢い付いた金属パイプを捉えていた。

 体重五十キロの女が乗った、重量五十キロの金属パイプと布。史化の頭蓋をクッションにして、総重量百キロとその加速の勢いが殺される。


 人間の脳と眼球が潰れるのに、特別な音が響くことは無かった。

 横になぎ倒されたストレッチャーと地面の間で、史化の指先が、静かに痙攣していた。

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