エピローグ
網走は四月を春とは呼ばない。遠くへと浮かぶ流氷を眺めて、未だ残る冬に、白い息を吐く。
アパートの前で一人、青年は燻る煙草の先を手の内で擦り消した。手の中のポケット灰皿を懐に仕舞うと、彼は一歩、凍った階段を進んだ。
郵便物の詰まった投函口を眺めて、青年はチャイムを押した。
「はい」
若い男の声が、扉の向こうから聞こえる。青年は口角に指を置いて、その先をつり上げた。青年がそうやって笑顔を作ると、目の前の扉が開いた。
「あ、お、お久しぶりです」
玄関口に額をぶつける男――――花崗冬彦は、青年を見下して、そう苦く笑った。動揺する彼の瞳には、作り笑いを貼り付けた青年の姿があった。
「入ってください、畠山先輩」
青年――――畠山史化の名を呼ぶと、花崗は彼に背を向けた。一人暮らしにしては広いアパートの玄関先は、赤色のゴミ袋で埋まっていた。「狭いですが」と置いて、花崗は居間の扉を押し開けた。玄関と部屋を仕切る扉に、意味は無かった。玄関と同じ赤いゴミ袋の中に埋まったデスクとキッチン。部屋の隅に並べられた四リットルの安酒ボトルだけが、唯一規則性を持って並べられていた。
「好きに座ってください。お茶、ペットボトルしか無いんですけど、良いですか」
部屋の一角に立つ史化へ、花崗はそう笑った。彼は苦味を含んだ臭気の中に埋まった冷蔵庫へと腕を伸ばした。そんな花崗の視線に、史化は「いや」と呟いて掌を置いた。
「すぐ帰るつもりなんだ。何も出さなくて良い。飲むなら自分で飲んでくれ」
史化がそう言うと、花崗は、眉を下げて「そうですか」と呟いた。彼はバンと大きく音を立てて、冷蔵庫の扉を閉めた。その瞬間、史化は、カーテンで仕切られた部屋の奥を見た。花崗が史化の顔に視線を移す。
「先輩」
花崗は史化の前に立つと、彼を呼んだ。史化が自らを見上げたのを確認して、花崗は小さく笑った。
「人魚の血を飲んだって、本当だったんですね」
花崗はそう言って、史化を見下ろした。にじり寄る花崗に、史化は数ミリ足を下げた。困ったように眉を下げて、史化はまた口角を上げた。
「なんだよ今更。飯田さんだって言ってただろ。村上史化。人魚の血を啜った少年って」
コロコロと喉を鳴らして、史化は笑った。彼の歪みの無い蒼黒の瞳に、花崗の表情が反射する。それは、仮面でもなければ演技でもない、純粋な虚無だった。
「そうですか。そうですよね」
花崗はそんな言葉を繰り返すと、眉間に皺を寄せて、口角を上げた。彼のぎこちない笑みは、乾ききっていた。花崗の目元の隈を視線でなぞる。史化はそうして目を瞑った。
「あのな、花崗。ちょっと聞きたいんだけど、良いかな」
史化は、態とらしいぎこちなさを口に含めて、花崗にそう問いを置いた。ゴミ袋の上に腰を落とした彼を見て、花崗もまたその場に座り込んだ。
「本当に退学するのか、お前」
「はい」
史化の問いに、花崗は間髪入れずに答えた。淀みの無い返答に、史化は肩を揺らす。居心地悪そうに歯を食いしばると、彼は再び口を開いた。
「そりゃあ俺はどう明美に責任取るのって聞いたよ? でも何も大学辞める必要は無いし、アイツと結婚する必要も無い」
頭を掻き毟って、史化はそう僅かに声を荒げた。そこには、確かに花崗に対する配慮があった。言葉を選ぼうとしている彼に、花崗は穏やかな表情で放った。
「でも、彼女、ひとりぼっちなんです。寂しがり屋なんですよ。ご両親は他界されて、今回の一件で、叔母さん達も美沙さんも縁を切って……じゃあ、僕がなってあげるしかないじゃないですか。家族」
花崗がそう言うと、史化は掻き毟る指を止めた。爪先で滲んだ血を己の首に擦りつけると、長い溜息を吐いた。
「…………なあ、花崗、俺に対して『天罰が下ったんだ』って言った奴は何人もいるんだ。飯田さんが出会ったのも、その一人だと思う。でもさ、それを直接俺に対して、一番最初に言ってきた奴って、誰だと思う?」
眉を上げる史化は、花崗と目を合わせる。花崗は、ただジッと黙って、史化の言葉を待っていた。
「お前が婚姻届の隣に名前を書いた、この部屋の奥で寝てる、馬鹿女だよ」
史化の指先は、カーテンで仕切られた奥へと向かった。彼はフッと小さく笑うと、そのまま滑らかに舌を回した。
「飯田さんがお前に言っていた情報はほぼ全て事実だ。俺は人魚の血を飲んで死なない身体だったし、その俺の身体がご神体の一つだった。女神様である人魚の血を飲んだ俺は、彼女の眷属。血を飲めば病を祓い、肉をかじれば死に損ないが三途の川を引き返す。そういう触れ込みでね」
そう語る史化に、花崗は一瞬、顔を顰めた。その隙を、史化は見逃さなかった。にたりと湿度を持った微笑みで、花崗の耳に口を寄せた。
「なんだその顔。熱いキスをしてやったじゃないか。覚えてるだろ?」
花崗は、己の唇に手を置いた。冷たい史化の息が、耳にかかる。だが、花崗はそのままただ黙って、彼の言葉に耳を傾けて見せた。
「親父もお袋も、俺が死なねえのはわかってたし、俺の血と肉がよくわかんねえ力を持っているというのもわかってた。だから俺を祭り上げて、他の人間に触れられないよう隠した。宗教として確立した集団にはルールが浸透する。定期的にほんの少しの血で信者の一部を癒やした。そういう奇跡を見せていれば、俺の肉を生きたままむしゃぶりつくなんて勝手はしない。お袋達は俺を守るために宗教を作った。そういう家だった。俺の家は」
花崗の耳から離れた史化の口元は、実に穏やかだった。まるで思い出に浸る老人のようだった。しかし一転して、彼は眉間に皺を寄せると、睨むように花崗の目を見た。
「それも全部海に流れちまったけどな。全部さ。俺の肉が欲しくて欲しくてたまらなかった百歳越えのジジイも、小児がんで余命半年だった俺の初恋も、親父もお袋も、全部」
ハッと鼻を鳴らして、史化は牙を剥いた。理不尽な苛立ちを、彼は花崗に向けていた。
「全員、平等に死んだ。海水と泥の中に沈んだ。生きたままの俺と一緒に沈んで、俺以外が全員死んだ」
史化の怒りは、じりじりと熱を持ち始めた。彼の息が荒くなっていく。がなり声が混ざり込んでいく。史化の冷静さは、既にゴミ袋の隙間に沈んでいた。
「それを俺の口から教えたとき、あの女、なんて言ったと思う? 天罰だよ。新興宗教なんて馬鹿なことやるから罰が当たったんだと」
そう吐き出す史化の口の端には、小さな泡が溜まっていた。彼は一度その唾液を指先で拭うと、苦虫を噛みつぶしたように顔に皺を寄せて、カーテンの向こうを睨んだ。
「何故明美が妹に殺されそうになったか、何も言わなくたってわかるだろ? 殆ど赤の他人みたいな俺にも遠慮無く言葉を使うんだ。身内に対してどう出ると思う? 最初こそお前に感謝しても、お前の事なんて都合の良いサンドバッグくらいにしか思わなくなるぞ、そのうち」
史化はそう言って、フッと小さく息を吸った。荒げた息を整えるようと、意識的に深呼吸を重ねる。数度の呼吸の後、彼は大きく咳き込んだ。僅かに鼻に入った腐った生ゴミの臭いが、史化の嗅覚を刺激したのだ。そんな、歪なリズムで上下する史化の背を見て、花崗はまた穏やかに口角を上げた。
「サンドバッグでも良いんです。僕、結構タフな方ですし……それに、僕――――」
花崗は満たされた表情で、言葉を吐く。だが、それを、史化は許さなかった。
「罪滅ぼしをしたいか、
飛び出した飛沫を掌に、史化は花崗の顔を見上げた。逆光で視認性の下がった彼の表情は、やはり虚無を湛えていた。
「人面アザラシが発見された現場で、イレギュラーだったのは、冷静だった南雲だけじゃない」
思い出せ。と、史化は指を己のこめかみに置いた。虚無を貼り付けた花崗の顔に、僅かなひびが入る。彼の息はコンマ数秒、乱れが生じていた。
「人魚との接触が無かったはずなのに、男であるはずなのに、パニックを起こした奴がいる」
史化はそう言って、花崗を指差した。その指先を、花崗の肩に置くと、ククッと引き攣ったように笑った。
「お前が動揺していたのは人面アザラシに対してじゃない。それを抱いて子守歌を歌う明美に対してだ」
なあ、そうだろ。
そう置いて、史化は花崗の言葉を待った。
一秒、五秒、十秒、三十秒――――待てど暮らせど、花崗はその唇を開くことはなかった。
「恨まれていると思うなら、尚更そいつから離れた方が良い。サンドバッグどころの話じゃなくなるぜ」
史化はそう言って、首を横に振った。
「俺は可愛い後輩の死体が、こんなゴミ屋敷で転がってて欲しくはないんだ」
そんな言葉を置いて、史化は立ち上がった。表情の動かない花崗を見下ろして、彼は扉を引いた。無言で玄関を開ける彼を、花崗が追う事は無かった。
「サンドバッグで良いんですよ」
花崗がそう呟いたのは、史化が部屋を後にしてから、実に一時間後のことだった。ストーブの点かない部屋は、ゴミの放つ発酵熱で温もりを保っていた。その中心で、花崗は一人、フッと小さく息を吐いた。
「頼めなかった……肉……先輩の……」
呟く言葉に、反応する者はいなかった。
「肉……先輩の……肉を貰わなきゃ」
花崗の口元に、意思はなかった。無意識の中で、彼は夢と現実の境がわからないまま、ぶつぶつと口を動かす。
キッチンの、錆びた包丁を手に取った。収納扉の蝶番が軋んで、上手くはまらなかった。故に、花崗は目一杯力を込めて、扉を叩きつけた。
板と板がぶつかる音が、収納空間に共鳴して、部屋に響く。花崗の荒い息が、何度も木霊した。
その数秒後、彼の息の隙間に、小さな泣き声が入り込んだ。
おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ。
盛りの付いたカラスのように泣くそれを、花崗は、カーテン越しに見つめた。
錆びた包丁を握ったまま、カーテンを開ける。布越しに遮られていたそこには、黄ばんだ布団と服が重ねられていた。その中心で、一人の女が横たわっていた。耳を澄ませれば、くちゃくちゃと咀嚼音が聞こえた。
花崗は、茶色く染まった服を払うと、息を止めた。指先に付いた白い米粒状の生き物を、部屋の奥へはじき飛ばす。そうやって、蛆で埋まった布を掘り起こした。
「明美さん、すみません、うるさかったですね」
そう言って、花崗は蛆の塊を手で掬った。歯と顎の骨が見える明美の顔を撫でて、彼はそっと微笑んだ。
そして、その隣、蠢く布に手をかけた。黒ずんだタオルを開けて、花崗は再び口角を上げた。
「お母さんはお乳が出づらいみたいだね。しょうがないね、病気なんだ。大丈夫、病気が治れば、ちゃんとお腹いっぱい飲ませて貰えるよ」
花崗はそう語りかけながら、その『赤子』を抱いた。
鱗の無い人魚のような、アザラシに人の顔が付いたような、そんな乳児。その赤子を抱いたまま、彼は台所へ進んだ。
錆びた包丁を赤子に握らせて、花崗は雑音混じりの子守歌を歌う。そうして、彼は、赤子をシンクの中に置いた。排水口から出た何某かの子葉を見て、赤子はきゃっきゃと笑った。
赤子――――娘のそんな姿を見て、花崗もまた、頬を緩めた。そして、彼女の
「人魚の」
包丁の先を、娘の足に置く。なぞったそこは、まるで鱗の無い魚と同じだった。
「何で、今まで思いつかなかったんだろう」
パッと、一際明るい表情で、花崗は歓喜に震えた。迷うことは無かった。何を考えることも無く、花崗は包丁を右手に握った。
花崗冬彦が、その右手を振り上げて、金属の板の上へ落とすのに、一秒もかからなかった。
抱仔の湖〈了〉
抱仔の湖 棺之夜幟 @yotaka_storys
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます