第5話

 美沙を保護した翌日。花崗は一人、研究センターの扉の前に立った。

 暴風雪が過ぎた早朝の能取湖畔は、白く動かない波に飲まれていた。凍った扉を押し開ければ、僅かに温もりを感じる部屋の空気が、花崗の頬を溶かした。

 玄関の二重扉のうち、内扉の開錠を確認すると、花崗は吹き抜けの二階を見た。階段につけられた三つの足跡を追えば、見慣れた研究室の扉があった。扉の向こうからは、聞き覚えのない若い男の声があった。

 扉のガラス越し、美沙と目が合った。彼女は困ったように笑って、花崗の名を呼んでいた。

 促されるままに、花崗は薄い扉を引き開けた。ストーブで温められた空気が、圧力を伴って顔を撫でる。眼球の表面が、乾くような感覚があった。一瞬、花崗は目を閉じた。次に目を開いた時、目の前にあったのは、深い青さを伴った黒い二つの瞳だった。

「君が新しい後輩くんだろ。でっかいね!」

 パッと明るい声色で、その男は笑った。急激な視界と聴覚の変化に、花崗は数センチ身を引いた。強張った顎で、苦く歯を噛む花崗に、男は首を傾げた。

「改めて、はじめまして畠山はたけやま史化ふみかです。下の名前で呼んでくれると嬉しいよ」

 蒼黒い瞳の男――――畠山史化はそう言って、花崗の前に手を差し出した。それが握手の催促であることに気づいたのは、部屋の奥にいる武杜が「良いから座れ」と声を上げた時だった。

「後輩くん、名前は? 一年ダブってんだっけ? 俺と同じ! 俺は国立大の院受けたんだけどボスと気が合わなくてね! 出戻りで一年研究生! あ、研究テーマ何にした? 魚? 蟹? タコとかも出来そうだね、あれ体重測るだけでもすげー体力使うから……」

 洪水のような情報の羅列に、花崗はただ口をパクパクと動かすばかりだった。同じような目にあったのだろう。史化の背後、疲労感の漂う美沙と目が合った。

「え、えっと……花崗です。花崗冬彦。魚類班です。サケ科魚類担当です……」

「冬彦か。じゃあ冬ちゃんね。宜しく冬ちゃん」

 怯えを飲み込んで、花崗はようやく返答を落とす。縮こまった彼の背を叩いて、史化は声を上げて笑った。

 ふと一瞬――――笑みを浮かべる史化と目が合った。花崗の顔を覗き込むその目は、弧を描きつつも鋭い日本刀のようにも見えた。冷えた夜のような瞳が、そう見えるのかもしれない。ただ、飢えた虎に馬の皮を被せたような歪さが、畠山史化には確かに存在していた。その歪さに思考の数パーセントを置きながら、花崗はどうにか同調して見せた。

「美沙ちゃんと武杜先生から昨日までの経緯は聞いたよ。大変だったみたいじゃないか」

 花崗がデスクチェアに腰を落とした時、史化はそう言って肩を落とした。花崗が目配せした先では、美沙だけが小さな顎で頷いていた。パーテーションの奥に隠れた武杜は、ただ静かに三人の様子を聞いているようだった。

「せっかく冬の網走に来たんだから観光を、とでも行きたいところだが、その前に調査だな、調査。美沙ちゃんが来てくれたおかげで、ようやく進められる」

 史化はそう呟いて、年季の入ったマグカップに口をつけた。美沙が「調査」と反芻すると、彼は喜びを口元に浮かべて、マグカップを机に置いた。

「人面アザラシについて、ちょっくらインタビューして来ようと思うんだ」

 当たり前のように史化は語る。何を楽しそうに笑っているのだと、花崗は息を呑んだ。

 まるで会話が成立しない。既に、それは対話ではなかった。つまらない中学の授業を聞かされているようだった。その認識を互いに確かめるようにして、美沙と花崗は顔を見合わせた。

 花崗はもう一度パーテーションの隙間を覗き込んだ。布を隔てた向こう側には、呆れた表情で足を組む武杜がいた。

「前に関係者から話聞こうと思ったら、どうも怒らせちゃったみたいでね。明美を探している妹のお願いだったら話くらい聞かせてもらえるようになるんじゃないかな、と思って」

 呆気に取られる二人を置いて、史化はパッと華やかに笑って見せた。その目には、武杜を含めた三人は映っていた。寧ろ、他人の不理解を楽しんでいるようだった。

「お二人とも、お付き合いいただけると助かるよ。何、身分証とかは要らないさ。明美と顔そっくりじゃん、美沙ちゃん」

 どうにも演劇臭い台詞を置いて、彼は一瞬だけ表情を机に落とした。その僅かな機微を感じ取ったのは、花崗だった。

 花崗はわかりやすく作られた史化の隙に、大きく息を吸った。

「あ、あの!」

 声を張り上げる。密閉された雪国の部屋で、自動販売機よりも高い身長の男がそのようなことをすれば、それは叫び声にも近く、その場にいる全員の鼓膜を大きく振るわせた。

 薄い美沙の肩が、大きく跳ねる。その瞬間を見つけた花崗は、自分の口を覆った。覆った口から、二回りほどボリュームを下げた音を並べた。

「美沙さんは遠野先輩が網走にいるって言うから探しに来たんですよ。人面アザラシのことを知るためじゃなくて……」

 会話が成り立っていないのではない。目的が互いにズレている。それは花崗にも美沙にも理解しているところだった。しかし、当の史化はただ口元に笑みを浮かべるばかりで、その眼球が動揺を示すことはなかった。

「冬ちゃんのその主張は間違ってはいない。だが現状には則していないな。ま、俺の説明が足りないのが悪いんだけどさ」

 悪い悪い。と、史化は僅かに眉を下げた。誰にも史化が何を考えているのかを理解することはできなかった。しかし、彼が特段悪いことをしたなどとは感じていないということくらいは、誰が見ても明らかだった。

「理由は二つ。一つは今の網走の状況を鑑みて、だ」

 人差し指と中指を掲げる史化は、そう言って手を揺らした。中指を曲げて、人差し指だけを伸ばすと、また笑みを零した。

「網走では今、警察がある事件に手一杯の状況だ。冬ちゃんは聞いたことないか? 顔の溶けた死体の話」

 史化の言葉に、花崗は小さく口を開けた。その唇の中では、「そうか」と呟きを納めていた。一人納得を見せる花崗を見上げて、美沙は訝しげな表情を浮かべていた。そんな彼女に気付いた花崗は、慌てて美沙と目線を合わせた。

「実は、今、顔や喉が溶け出した変死体が、網走中で発見されているんです。生後数ヶ月の子どもから九十歳のお年寄りまで、老若男女問わず亡くなっていて……警察はその多くが他殺ではないかと言っているみたいなんです」

「他殺? 何か、病気とかではなく?」

 思わず声を上げた美沙に、花崗は一瞬困ったように眉を下げた。もつれる花崗の舌を見て、助け船を出したのは武杜だった。

「溺死なんだ、直接的な死因が」

 パーテーションの奥から、武杜がそう言った。彼は「溺死」と反芻する美沙と一瞬目を合わせて、再び布越しに口を開いた。

「それもな、台所、トイレ、洗面台、足湯……そう易々と溺れ死ぬなどあり得ない場所での溺死だ。しかも死ぬ間際に大暴れした痕跡もある。風呂場やプールならいざ知らず、そういった顔くらいしか浸けられない場所での溺死ということは、顔を水に沈められ、死ぬまで押しつけられたということだ」

 低く響かせる武杜に、美沙は一瞬、肩を振るわせた。だが、彼女の曇った表情に、変わりはなかった。美沙は「それで」と置いて、史化を見た。

「それで、何故、警察が動けないと、姉が探せないんですか」

 そう問いを置く美沙の視線は、何処か冷ややかだった。怒りや苛立ちではない。ただ、彼女には史化を問い詰めようという意識があった。そんな一種の悪意に近い何かを受けても、史化はへらへらと笑っていた。

「それが二つ目の理由に繋がる。要するにさ、公権力を巻き込める状況じゃないってわけ。そうすると、本格的に俺達ド素人が、網走中を駆け回って明美を探さないといけないわけよ。しかも、流氷観光最盛期の今。何の手がかりも無く、顔も姿もまるっきり変わっちまった女を、大量の観光客に紛れているあの奴を、だ」

 そう言って、史化はその場で手を叩いた。既に集まっている注目を、更に集中させる。そうして全員と目を合わせると、史化は白い歯を見せた。

「良いかい、つまり今の俺達に必要なのは、明美に繋がる手がかりだ。それも出来るだけ的確なものが良い。そうすると、どうしたって人面アザラシを追うことになる」

 もう何も説明する必要は無い。そうとでも思ったのか、史化はそのまま口を閉じた。数秒の沈黙を受けて、彼は僅かに訝しげな表情を浮かべると、乾いた笑いを零した。

「あー……両親の骨を盗んだ際の明美の様子を聞くに……明美はおそらく何らかの団体に属している。それも宗教絡みで、そこそこしっかりとした土台を持っている団体だ。その団体に人面アザラシを献上したのは明らかだ」

 一転して、史化は溜息混じりに舌を回した。その一瞬、花崗は部屋に冷気が巡るような感覚を覚えた。史化の口角は僅かに下がっていた。そして、言葉の節々に、彼は犬歯を見せた。それは獣の威嚇に似ていた。

「良いかい、俺が言っている宗教団体ってのは別に特別なカルト宗教とかそういうもんじゃない。所謂自称『霊能力者』だとか『拝み屋』『ヒーラー』みたいなのがやってる小さいサークルみたいなものも含めている。そういう『零細宗教』はその辺にいくらでもいる。まあ、要はがいれば、それは宗教なんだ。規模のでかい宗教ならまだ探しやすい。上手くやれば警察だって協力してくれるだろう。だが小規模だったり、古すぎると逆に厄介だ。小規模なら噂が広まりづらい。古すぎる宗教は血縁のように強い結束があるから、ガチガチに守りを固められている。アイツらに私有地の山の小屋でも建てて隠されたり、住宅街の一軒家で家族のフリなんかされた時にゃ、公権力を動かすのは一層難しいし、俺達も法の範囲内でどうにかすることが出来なくなる」

 花崗の視界に映った史化は、なるほど確かに科学の徒の雰囲気を醸し出していた。冷静さを身に纏って、それらしい言葉を並べる。その「それらしさ」が一種の詐欺のように感じられたのは、花崗だけでは無かった。史化が一つ手を動かす度に、美沙は花崗と目を合わせて、困惑を共有していた。

「つまりだ、俺たちは土地だけは広い北海道の数ある宗教団体の中から、明美を隠している宗教団体を見つけ出さないとならないってわけ」

 部屋に不安が満ちた頃になって、史化はまたあの快活な表情を浮かべた。両手を広げる。薄手の撥水コートの裾から見えた手首は、太く血管が浮かんでいた。

「……その団体を探す手がかりが人面アザラシ?」

 首を傾げて見せる美沙に、史化は、確かに喜びを見せた。花崗に向けていた表面上のものではない、笑み。「そう」と応答する史化の頬は柔らかだった。

「少し説明を付け加えよう。俺たちは明美が失踪した原因について、根本から掘っていく必要がある。良いかい、根本からだ」

 指を宙でくるくると回して、史化はまた一段と明るく笑った。研究室に備え付けられたホワイトボードの表面を叩く。その音を合図に、パーテーションを開く音が鳴った。ペンを持つ史化に向けて、武杜が眉間に皺を寄せた。

「まず、明美の失踪にはいくつかのキーワードがある」

 武杜の鋭い視線をものともせず、史化は白の上に青を滑らせていく。四つの単語を置くと、彼はペンのキャップを締めながら舌を回した。

「人面アザラシ、湖、両親の死。そして人魚。それぞれをまとめ上げるストーリーラインがあるはずだ。その線を追っていくうちに、明美と……明美を狂わせた連中に辿り着ける可能性が高い」

 置かれた単語同士に赤い線を結ぶ。そのうち、「人面アザラシ」の下に波線を引く。赤いペン先を、史化は静かに置いた。

「中でも大きな転換点は人面アザラシだ。だからまずは一年前に何があったのか、整理する必要があるというわけだな」

 教師然とした彼は、机の上に腰をかけると、上げていた口角を下げた。口元を歪に波打たせると、また形作ったように歯を見せた。

「それに、明美は美沙ちゃんに『待ってる』と言ったんだ。つまり明美は美沙ちゃんに発見されることを望んでる。その意図を理解しないまま、明美を探し当ててしまえば、美沙ちゃんが危険かもしれない」

 薄ら笑いを湛えて、史化は壁に背を置いた。一瞬の気怠げな彼の表情に、花崗は眉間の皺を寄せた。まるで一人芝居でもしているようにコロコロと表情を変える目の前の男に、信頼が置けないのは、花崗も美沙も同じだったらしい。二人は眼球だけを動かして、互いにその不信感を共有していた。そんな二人の様子を見て、史化はフッと小さく息を吸った。

「全身ボロボロになってまで宗教に身を投じて、両親の骨を盗むなんて馬鹿やらかす奴だぜ? 家族だからって妹を待ってるだけだと思うか? もしくは、その両親を生き返らせる儀式とやらのために、妹殺すことへの抵抗があると思うか? なんて話だよ」

 な。と、鼻を鳴らす史化は、一転して穏やかな青年に見えた。しかし一瞬にして元のニヤケ顔に戻ると、彼はその眼光を花崗に向けた。

「武杜先生」

 花崗の背後に向かって、史化はそう呟いた。空のマグカップを持って、武杜は低く「なんだ」と唸った。

「っていうわけで、暫く冬ちゃん借りますね」

 史化がそう言うと、武杜は一度「ふむ」と鼻を鳴らした。

「ちゃんと返せよ」

 そう置いた武杜は、茶色いシミのついたマグカップを宙でくるくると揺らした。その円を目で追いながら、史化は目を細めた。

「保証はしかねます」

 胸に手を置いて、首を傾げる。史化のその一通りの動きを見た後、武杜はわざとらしく溜息を吐いた。

「勝手にしろ」

 獣の威嚇のように歯を見せて、武杜はインスタントコーヒーの瓶に手をかけた。

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