第6話

 花崗たちが能取湖畔を出てから暫くのことだった。

 雪かきとタイヤの跡がついた細い私道を、ワゴン車が走る。揺れる車内には、苦味の強い紫煙の香りが充満していた。ハンドルを握る史化が、ブレーキを踏んだ。彼が「降りろ」と言うと、後部座席の扉に、美沙と花崗が手をかけた。

 三人が降り立ったのは、大学キャンパスの水産研究棟だった。硝子で覆われた二重扉の奥には、薄暗い廊下が繋がっていた。慣れた手つきで凍った扉を押し開ける花崗は、口先で息を吸った。

「……ここ、何でこんなに腐った魚の匂いがするんですか?」

 鼻に皺を寄せて、美沙はそう問いを吐いた。胃内容物とも違う異臭が、彼女の鼻腔を撫でる。キャンパス内の中でも、水産学科の建物が裏口側にあるのは、彼女が顔を顰める程の異臭に理由があった。美沙が「腐った魚」と呼ぶその匂いの元に、花崗は心当たりがあった。

「アザラシのせいだよ。ここからサンプルを搬入したり、運び出したりするから」

 ほら。と言って、彼が指差した先には、「解剖室」と書かれた金属の扉があった。扉の上部の窓からは、その様子が伺えた。

 ふと視線に入った解剖室内のホースや胴長を見て、花崗は顔を下に向けた。瞼を閉じた瞬間、花崗の中に浮かび上がるのは、赤い風景と赤子の鳴き声だった。鮮明だが、鼓膜の揺れは感じられない。冷や汗が首を伝う感覚で引き戻された花崗は、瞼を開けた。視界には、見覚えのある扉があった。

「珍しく花崗から連絡を寄越してきたと思えば、何だ、畠山とつるんでいるのか」

 扉を開けた瞬間、不貞腐れたような籠もった声が、三人の耳に入った。本棚とパソコンに囲まれたテーブル。その奥に陣取っていたのは、南雲俊之だった。

「そういや、今は同じ研究室だったか。盲点だった。正直、畠山とは関わりたく無いんだ。こんな騙し討ちみたいなことされちゃ困る」

 南雲はそう言ってマグカップを握りしめると、左頬を痙攣させた。南雲俊之という人間にしては、全身全霊で穏やかな対応を心がけている様子だった。そう理解出来ているのは、花崗だけだった。南雲の歪んだ頬と口が、ぎこちない笑みであることは、察することが出来ていた。花崗はその笑みが向けられている自らの背後に目を向けた。そこでは、怯えた様子の美沙が、眉間に皺を寄せていた。彼女は花崗の背に顔を半分隠すと、口を真一文字に結んだ。

「俺が頼んだんだ。あんまり冬ちゃんを責めないでやってくれ。それに、同期として学部四年間を過ごした仲じゃないか。仲良くしようぜ。網走から離れてる間、お前と遊べなくて寂しかったんだぜ?」

 爛々と瞳を輝かせて、史化は笑った。彼は花崗と南雲の間に立つと、そのまま当たり前のように椅子に腰掛けた。そんな史化を目で追って、南雲は大きく舌打ちを鳴らした。

「俺と遊べなくてじゃなくて、俺『で』遊べなくてだろ。カス」

 横柄な態度が目につく南雲ではあったが、こうまで純粋な悪意を向ける姿を見るのは、花崗も初めてのことだった。南雲俊之は気難しい人間ではある。しかし畠山に対する態度は並々ならぬ警戒心を表していた。二人の間に何があったのかは、畠山と南雲だけが知るところのようだった。

 ククック。と、畠山は引き攣るように笑うと、すぐに表情を落とした。無表情に転じた彼の顔を覗いて、南雲は眉間の皺を緩めた。

「何が聞きたい。俺も暇じゃないんだ。三十分後にはアザラシが運ばれて来る」

 一転して穏やかにそう言う彼の口には、まだ苛立ちのようなものがあった。史化は「助かるよ」と呟いて、また笑った。

「一年前の人面アザラシについて聞きたい」

「俺以外にも人面アザラシの目撃者はいるだろ。そこの花崗とか」

「花岡冬彦の証言はもう得ている。俺が欲しいのは、あの場で一人冷静であったお前の証言だよ。あの時、お前だけが冷静であった理由を知りたい」

 仄かに笑みを乗せた唇で、史化は言う。南雲が「は?」と短く理由を問うと、史化は歯を見せて目を細めた。

「集団パニックが起きたあの場で、唯一、お前だけが冷静であった。それはお前が人面アザラシの発見という事象に対して、他の連中とは違う条件を持っていたということに他ならない。お前と一緒に二年もアザラシを解剖し続けた明美が失踪し、一年お前の指導を受けた冬ちゃんすら休学に追い込まれた状況下で、何がお前を冷静にさせたんだ? 他の学生たちと違う点は何だ?」

 問いを置く史化の目は、ずっと南雲だけを見ていた。鋭い視線。掠められた花崗ですら、一瞬息を止めるようなそれを、南雲は鼻で笑っていた。

「そんなこと、俺自身がわかるわけないだろ」

「それを『考察』するのが俺の今回の目的。答えは俺たちで探すよ」

 肩をすくめる史化に、南雲は溜息を吐いた。眼球を横にずらして、美沙を視界に捉えた南雲は、そのまま花崗と目を合わせた。数秒、花崗を見つめて、南雲は視線を下ろした。それが言葉の選別であるということは、花崗にはわかっていた。

「皆が人面アザラシと呼んでいるものは、アザラシの奇形児だ。少なくともあの場で俺はそうだと確認した」

 無感情に、南雲はそう言って指先で机をつついた。タンタンと爪とプラスチックのぶつかる音に合わせて、南雲は誰とも視線を合わせないまま口を動かした。

「顔面の奇形自体は珍しいことじゃない。よく言われる人面獣というものは、大概がただの奇形だ」

「人面牛の件なんかがその類だな。生まれてすぐの人面牛が予言を残してすぐに死ぬってやつ」

 意気揚々と声を挟んだのは、史化だった。そんな彼を睨んで、南雲は「あのな」と置いた。

「件なんてのは知ったこっちゃないが、頭部の奇形は息が出来なかったり脳が欠損していたりして、死産するか出産直後に死亡するケースが多いんだ。だからあのアザラシの胎児もすぐに死亡を確認して、解剖後にホルマリン漬けにした」

「作業は南雲が?」

「俺以外に誰がいる。花崗は震えて使い物にならなかったし、遠野は喚き散らしてたから、後から来た四島先生に介抱してもらったんだ。武杜教授も居合わせていたが、手を怪我した女学生を病院に送ってもらう方に回って貰ったし。まあ、セクハラ回避のためだな。うち教員で女性なのは四島先生だけだし。他の見学に来てた女学生は全員パニックになって、それこそ全く使い物にならなかったしな」

 南雲がそう語ると、史化は「ふむ」と置いて、腕を組んだ。問答が一息ついたのか、彼は数秒、考え込むようにして自らの唇を摩った。南雲がコーヒーを一口、喉に通したことを確認すると、史化は再び口を開いた。

「その女の子たち、今は連絡取れるか? 研究室に配属された子はいないのか」

「解剖如きでパニック起こした奴を受け入れるほど、うちの研究室が懐深いと思うか?」

 そうだよねえ。と、史化は肩をすくめて見せた。そのワザとらしさが気に障ったのか、南雲はまた舌を鳴らした。そのまま黙り込んで睨む南雲に、史化は僅かに上がった口角を見せた。

「でも一人くらい顔と名前を覚えている子はいないのか。水産学科の女子は全体の二割を切ってる。残りの八割強よりは覚えていられるだろ」

「当時見学に来ていた女子六名のうち、四名が退学もしくは東京の別学科へ転籍。一人は現在も休学。覚えるもクソもあるか」

 南雲がそう言うと、花崗の隣で美沙が小さく「ひい、ふう、みい……」と呟いていた。右手の指を全て織り込むと、彼女は小さな唇を開いて、南雲を見つめた。

「残り一人……」

 六人のうちの一人が足りない。それには、部屋にいる全ての人間が気づいていた。

「失踪」

 その二文字を呟くと、南雲は頭を掻きむしった。それが彼の動揺を示す姿だというのは、誰が見ても明らかだった。

「未だに家族が探し回っているらしい。何度か父親が話を聞きに来た。先月も電話が来たよ。一年経つからな、また網走に来るって話だ」

「名前は。顔写真とか、友人関係はわかるか」

「名前は園崎ロアン。お袋さんが海外の人で、見た目だけは目立つ奴だったよ。だが、家族によると大学内での交友関係は狭かったらしい。一緒に見学に来ていた女学生しか友達と呼べる相手はいなかったんだと」

 そう置いて、南雲は胸ポケットからスマホを取り出すと、その画面を史化へと向けた。画面に映し出されていたのは、明るい栗色の髪を束ねた、穏やかな女の姿だった。大学の入学式の写真だろう。スーツを着た齢二〇前後の彼女は、深く青い瞳を暗く濁らせていた。

「ご家族に確認をとって、お前宛に送っておいてやる」

「ありがたいよ。他に何かあったら、今度は俺に直接連絡してくれ。お前、俺の連絡先持ってるだろ」

 史化がそう言うと、南雲は「了解」とまた頭を掻いた。そんな南雲を見て、史化がパッと歯を見せて口角を上げた。

 二人の間に落ち着きが流れ始めて数秒、花崗の股関節に痒みとも似た振動があった。ズボンのポケットに手を入れる。指先に触れたスマホが震えていた。花崗が急いで廊下に出ると、部屋にいた全員が彼を目で追った。刺さる視線の中で、焦燥感に煽られた花崗は、画面を注視することなく通話ボタンを押した。

「はい、もしもし、花崗です」

 彼がそう言うと、スマホのスピーカーからは、男の低音が「やあ」と快活に響いた。

「花崗くん、ラジオ局の飯田です。今どこかな。連絡くれた件について話したいんだけど」

 その言葉に、花崗は固まっていた舌と頬の筋肉を緩めた。そんな彼を見て、史化はニンマリと頬を持ち上げ、不思議そうに見つめる美沙へ瞳を合わせていた。

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