第4話
「それで、網走に来て、湖を探すことにしたんです。でも、空港の人に、オホーツク地方には色んな湖があるって言われちゃって。とりあえず、バス停の名前で『能取湖畔』ってあったから、それで向かってみたら、吹雪に巻き込まれまして……」
一通りを語り終えた時、美沙は静かに自らの爪先を見ていた。荒れた爪同士を擦り合わせる。ジワと血液が滲み出た瞬間、咄嗟に花崗は口を開いた。
「あ、あの! 明美さんは網走に来てるって、確かに言ったんですよね!」
沈黙に耐えきれず飛び出した花崗の脳は、ぐるりと回転した。抑制を無くした彼の口は、美沙の反応を遮って、ただ言葉を垂れ流していった。
「僕らで手伝えないでしょうか。明美さん探し……実は、僕も一年前の事件に居合わせていて……いえ、その前から明美さんがおかしくなっていることには、薄々気づいていたんです。でも、何も出来なくて。罪滅ぼしと呼ぶには動機が曖昧ですが、僕も一応は四年ほど網走で暮らしている人間ですから、何かしら手伝えるんじゃないかと思うんです。車の運転とか……あと」
あとは、ラジオとか。
そう花崗が吐く瞬間、遮るようにして「待て」と武杜が僅かに吠えた。背筋を伸ばして、花崗は反射的に口を閉じた。ふと目をやった先で、武杜は僅かに花崗を睨んでいた。肩を跳ねる花崗を確認すると、武杜は呆れたように鼻で溜息を吐いた。やれやれと言った具合で、両手を美沙に見せると、フッと小さく息を吸った。
「美沙さんの事情は理解した。だが納得はしていない」
強張った声色で、武杜はそう言った。「納得」と言葉を反芻する美沙を見て、彼は一度目を瞑った。表情を落とした彼は、そのまま再び口を開いた。
「お姉さんがご両親の骨を持って網走に来ているとして、何故一人で来たんだ。それこそ、警察に任せる方が社会通念上は正しい。最低でも身を寄せている叔母様の帯同があっても良いはずだ」
弁が進むにつれて、再び武杜は眉間に皺を寄せていった。顔に力が入っていることに気づくと、彼は深く溜息を吐いて、額に指を置いた。
「高校生の君を置いて、保護者である叔母は何をやっているんだ?」
そう呟く武杜は、再度呆れを伴う溜息を吐いた。
そんな彼の言葉を聞いて、美沙は目を丸くしていた。ワタワタと忙しなく手で口元を覆うと、「すみません」と置いた。
「いえ、叔母はしっかり動いてくれています。両親の骨を盗まれたわけですから、警察にも届けようとしてくれて。でも、身内のことだからって内々で済ませたいって言ってる親戚もいて。だから、とりあえず私だけで網走へ向かうことになったんです。網走に住んでいる再従兄も紹介してもらっていて、本当は能取湖畔の研究室で落ち合う筈だったのですが」
再従兄。その単語を飲み込んで、武杜と花崗はお互いに目を向けた。花崗は、武杜の疑心を込めた瞳に、勢いよく横に首を振った。花崗の身内に遠野家などという一家はいない。何より、そんな連絡などした覚えがなかった。
「研究室に行く予定があるって言ってました。多分、先生方と同じ大学の学生さんだと思いますが、花崗さんではないです」
二人の様子を見た美沙は、自分の言葉を追いかけるようにしてそう唇を歪めた。慌てた様子の彼女を見て、武杜は肩と眉尻を落としてみせた。
「名前は」
「畠山史化さんという方です。東京から北海道に進学された……何だか少し、独特な方だとは聞き及んでいます」
「独特ねえ……」
独り言のように武杜はそう呟いた。彼の困ったような表情に、美沙と花崗はきょとんと目を丸めた。そんな二人の様子を見て、武杜はまた眉間に皺を寄せた。
「史化は、私が指導している大学院生だよ」
そう吐いてみせる武杜の表情は、何処か今までよりも柔らかく、丸みを帯びていた。今までに見られていたような苛立ちや焦燥感は失われ、穏やかさが際立っていく。脱力した腕を組んで、武杜は僅かに口角を上げてみせた。
「進路について、研究センターで面談を行う予定だったんだ。ついでに花崗と顔合わせもしようと思ってな。ただ、暴風雪警報が出る可能性があるからと、今朝方予定を変更したんだ。空港で待つように連絡があったりしなかったか」
武杜がそう語ると、美沙は目を丸くしたまま周囲に視線を配った。その動く視線の先を見て、花崗は女性物のコートに手をかけた。手渡されたコートを掴むと、美沙はそのポケットを弄っていく。一つ、また一つと、ポケットの中に手を入れる。飴やポケットティッシュがベッドの上に広げられていく度、美沙の表情は青く染まっていった。
「す、スマホ、落としたかも……」
なるほど。と、武杜は美沙の青い顔を見下ろした。
「わかった、なら、私の方から連絡を取ろう。とりあえず、まずは史化と合流しなさい。奴も心配しているだろう」
「あ、ありがとうございます」
そう言って美沙は頭を下げると、ホッと息を落とした。胸を撫で下ろす彼女の姿を見て、花崗は僅かに苦く歯を食いしばった。
「あの……先生、畠山さんって、
花崗の問いは、武杜に向いていた。「そうだが」と、花崗を睨む武杜は、彼の言わんとしていることを理解している様子だった。
「花崗、あまり美沙さんを不安にさせるようなこと、するんじゃないよ」
「えぇ……っと……すみません。でも、畠山さんって言ったら……その……僕はあまり良い評判を聞かないもので」
口籠る花崗は、怒りにも似た武杜の目から隠れるようにして、視線を逸らした。そんな彼を見て、怯えを隠せなくなったのか、美沙は震える瞳で武杜を見上げた。
「畠山史化と言えば……アルバイト先の人を海に落として溺死させかけたり、神社の境内で肝試しをしていた先輩学生を暴行して足の骨を折ったり……それ以外にも、河川調査中に一緒にいた学生が発狂して病院送りになったとか……」
花崗がそう連ねていくと、大きく「花崗、花崗冬彦」と彼の名前を呼ぶ声があった。俯いていた顔を上げると、そこには青冷めた美沙と、彼女の隣で苛立つ武杜がいた。
「あのなあ……一つ目の話は、ホタテ養殖のアルバイトでのトラブルだ。給与の不払いが発生して、文句を言いに行ったら暴行を受けて、反撃して海に落としたんだよ。既に警察に行って、正当防衛ということで解決している。他の話も似たようなものだ。神社の境内で藁人形を回収するバイト中、遭難して両足を折った先輩学生を抱えて山を降りただけ。河川調査中、運悪くヒグマに遭遇して奴以外が半狂乱で逃げただけ……とかな。研究室配属後からは能取湖の方でばかり活動していたから、知らないうちに噂話が歪められて、否定する機会も無かったんだろう。少なくとも、花崗や他の学生達が想像しているような怪物ではない」
そもそも。と、置いて、武杜は首を傾げた。
「単純に、奴は優秀な学生だよ。知的好奇心が飛び抜けて高く、水産学以外にも地理学、哲学、心理学、史学、解剖学……多少の偏りはあるし、その道の専門家には全く及ばないが、その辺の学生よりは圧倒的に幅広く深い知識を有している。性格も、まあ悪い奴ではない」
言葉の尻尾を撫でるように、「まあ、悪くはないんだ」と彼は苦々しく繰り返した。それが「良い」という意味ではないことくらいは、美沙にも花崗にも理解できていた。顔を見合わせる二人に、武杜は「話がそれたが」と前置きして、再び口を開いた。
「奴が関わるなら私も手助けしやすくなる。アレとは六年ほど付き合いがあってね。私が君を手助けしても、史化から頼まれたことにすれば各所に説明がしやすい」
そう言って、武杜は一度目を伏せた。再び上がった彼の鋭い目線は、美沙に向いていた。刺すような視線を、彼は横にずらした。ズレた先には、病室に備え付けられたテレビモニターが置かれていた。
「要は、警察や看護師に言えないこと――――何か警戒すべきことがあるのなら、存分に利用してくれて良い、という意味だよ」
じっとりとした武杜の目を追うようにして、花崗は黒いモニターの画面を凝視した。そこには、廊下へと続く扉と、その隙間が反射していた。
僅か数センチの扉と壁の隙間。そこから八つの女の目が――――女性警官と女性看護師達が、こちらをジッと凝視していた。
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