第9話

「『花崗くん』、大丈夫?」

 聞き覚えのある男の声を聞いて、花崗は目を開けた。彼の視界には、明るく照らされた会議室の風景があった。花崗の名を呼んだ畠山は「疲れてんの?」と肩をすくめた。

 彼がわざわざ花崗の名字を唱えたのは、この会議室が博物館のバックヤード内に位置するからであった。花崗は自らの手で握りしめたボールペンとメモ帳を見る。そこにはしっかりとした筆跡で、記憶に無い会話のメモが記されていた。

「すみません、緊張してるみたいで。俺たち、初めてなんです。こういう取材とかするの」

 史化がヘコヘコと頭を下げる様子を眺めて、花崗は「心にも無いことを」と脳内で吐いた。そんな上部だけの言葉を取り上げて、一人の女が華やかに笑った。

「本当? 凄い上手だよ。昨日急に来るって言われた時はどうしようかと思ったけど」

「そりゃすみません。俺たちも飯田さんに急に行けって言われて」

「飯田さんねえ。あの人、悪い人じゃないんだけどさあ、ちょっと強引な時があるじゃない。それがねえ……」

 彼女がモヨロ貝塚の研究を行っている学芸員――――磯野久美香であることは、テーブルの隅に置かれた名刺を見て、花崗にも理解できた。

「貴方たちも大変ねえ」

 磯野は二人に同情を含んだ視線を送ると、フッと小さく溜息を吐いた。彼女の笑みには長年の経験が滲み出ていた。首や目元の皺が、呼吸をする度濃くなっていくのを、花崗はジッと見ていた。

「いやいや、大変だったのは学芸員さん達の方でしょう、突然知らない学生に取材だなんだって言われて来られて」

 花崗が言葉を入れる隙間を失っている間に、史化はその饒舌な口を鳴らしていた。柔らかな舌は、磯野を包むようにしてその場を支配していた。熱の入る史化の言葉に、花崗も磯野と揃って聞き入っていた。一瞬見えた彼の瞳は、やはりあの夢で見た少年と同じだった。

「気を使ってもらっちゃった結果だと思いますけど、凄いやりやすかったです。のびのび聞きたいこと聞けましたよ」

 輝く瞳を瞼に納め、彼は言葉を重ねる。相手の功績をあげて己の行動の意図を仄めかす。なるほど、計算された会話であると、花崗は黙って彼の劇場の眺めていた。

「俺も花崗くんも、普段は能取湖の湖畔にある研究所で魚育てて。だからこうやって知らない人と喋るの久しぶりなんですよ。だから本当、無駄に緊張しちゃって」

 そう言って、史化はまたパッと明るく声のトーンを上げた。彼が何か意思を持って雑談を動かしていることは、花崗には明らかだった。仮面を繕っている史化の見開かれた目を見て、花崗はただ穏やかな表情で椅子に座っていた。

「能取湖の研究所……ってことは、キャンプ場の隣の建物? あそこって大学の研究所だったの?」

「そうですそうです。俺らの世話になってる教授がそこの所長で、実質そこが研究室みたいな扱いです。色々やってますよ。魚育てる他にも、タコとかカニも飼ってます。あと、たまに鯉とかアザラシ解剖する連中もいますね」

「アザラシ! アザラシの研究してる子がよくうちに実習に来るのよね。水族館の職員になりたいって学術課程取るでしょ、そういう子って」

 磯野がそう呟いた瞬間、花崗はびくりと肩を震わせた。これだ。待っていたのはこれだ。その確信を持って、花崗は史化と目を合わせた。一瞬、彼はイタズラを隠す少年のように無邪気な視線を流していた。

「へえ、じゃあ俺、知り合い来てるかもですね。いたんですよ、年齢的には多分三年か二年くらい前に実習来てると思うんですけど」

 無垢な様子で、畠山は笑って見せた。彼の問いに、磯野は腕を組んだ。数秒考えるような素振りを見せると、彼女ははっきりと首を傾げた。

「うーん、てことは、遠野さんかな。遠野明美さん」

 その名を聞いて、「あの」と思わず花崗が腰を上げた。しかし、そんな彼への注目を塗りつぶすかのようにして、史化は大きく手を広げた。

「そうです! 明美ちゃんです!」

「やっぱり! ねえ、彼女、今どうしてるか知ってたりする?」

 強引に引きつけた意識を、史化は離さない。饒舌になっていく磯野を眺めて、花崗は再び口を閉じた。

「凄い元気な子でね、熱意もあるししっかりした子だったから、色々体験して行ってもらったの。でも水族館って就職難しいじゃない? 今どんな仕事してるんだろうって思って」

「俺も連絡取れてないんですけど、風の噂で、網走に来てるって聞きましたよ」

「あら、そうなの?」

「大学院進学とか考えてるのかもですね。結構多いんですよ、社会人になってからやっぱり進学したいってなるの。実習で世話になってたなら、そのうち挨拶に来たりするんじゃないですか? なんか、すげー世話になった職員さんいたみたいなこと言ってましたし」

 ねえ?

 ようやく史化から降ってきた言葉は、その一つだけだった。それだけで、自分が何をすれば良いかは花崗にも理解できていた。彼は「はい」と穏やかに返事を落とした。

「あぁ」

 視線を交える花崗と史化を見て、磯野がそう声を上げた。彼女は部屋の扉を見ると、ふと何の意識もなく呟いた。

「小林さんのことかな。彼女、遠野さんの実習で指導やってたから」

 小林。そう史化が反芻すると、磯野はただ頷くだけだった。

「今お会いできます? 明美が先に連絡してるかもしれないし、もしそうだったら明美と連絡取りたいんで」

 史化が脈絡なくそう問う。その瞬間、磯野の笑みが割れた。彼女は史化の目を見て怪訝そうに睨んだ。一転して冷め切った空気に、花崗は背筋に冷たい汗が滲む感覚を覚えた。

「出勤してるし会えるとは思うけど……何? どうして?」

 剥き出しになった磯野の敵意は、警戒心を表していた。史化は彼女の鋭い視線をへし折りながら、また歯を見せて笑った。

「そりゃ良かった。今どこにいます?」

 一つ低く唸る史化の声。その声は何処かヒトから離れていた。地を這うような。否、海の底を揺らすような響きが、部屋を支配する。彼がニッと口角を上げると、磯野は何も言えないまま震えた指を扉に向けた。

「修復室に……修復室で、作業いてるはず。この時間なら」

 その振動が怯えから来るものであることは、花崗にも察せられた。

 史化は笑っていた。確かに、口角を上げて目を細め、眉を下げていた。だというのに、彼のくぐもった声一つだけが、異質だった。

「そうですか。じゃあお会いしてきますね」

 途端、史化は全ての関心を失った様子で部屋を出た。黒い水晶を嵌め込んだ人形のような顔で、廊下を歩いていく。花崗はそんな彼を一心不乱に追いかけた。声の一つもかけなければならないとは思っていたが、何故だか声帯が震えて声が出なかった。

「すみませーん」

 迷いなく進んでいた史化の足が止まったのは、修復室と書かれた扉の前だった。彼は分厚い鉄の扉を開くと、高らかに声を上げていた。

 その瞬間、辺りから音が消えた。その場にいる全員が史化の顔を見て、口を開けたまま動くことが出来なかった。部屋で固まる男女二人は、先ほどまで動かしていたのだろう手を止めて、丸い目で史化に視線を向けていた。数秒後、彼らは顔を見合わせると、「何?」と呟いた。

「学芸員の小林さんって何処ですか?」

 唐突の問いに、首を傾げ、二人は眉間に皺を寄せた。狼狽えながらも、女が一人、「えっと」と置いて口を開いた。

「喉が渇いたって言って、自販機に水買いに行ったんだけど……そのまま帰って来ないんですよ」

 胸に手を置いて、女はそうポツポツと語った。彼女の言葉を補足するように、男が困惑を浮かべたまま身を乗り出した。

「朝から体調不良だったんです、小林さん。それで、館内で倒れてるかもと思って、他の職員が探しに出たところなんです」

 男がそう言うと、史化は「そうですか」と体から力を抜いた。その瞬間、花崗もまた、全身から力が抜ける感覚を覚えた。何とか膝に力を込めて、彼はフッと息を大きく吸った。

「トイレ借りて行っても良いですかね?」

 花崗が顔を上げた瞬間、史化は唐突にそんな気の抜けた問いを吐いてみせた。すると、作業室からは「どうぞ」と声が上がった。困惑で満たされた部屋へ背を向けて、廊下を歩く。その速度には優雅さすら感じられた。長い足を小さく前に出して自らを追う花崗に、史化は目も向けずに呟いた。

「冬ちゃんも来て」

 そう言う史化に、花崗は「何故」と声を上げようとしていた。しかし、そんな問いを嘲笑するかのようにして、史化は彼の言葉を折った。

「博物館で一番水気があるのはトイレなんだよ」

「え、えぇ……? 確かにそうですけど……」

 重なる困惑を無視して、史化は花崗の前を進む。彼の足はただ真っ直ぐだった。何の迷いもなく、史化は赤い女性のマークに触れた。花崗が彼のジャケットを掴もうと手を伸ばした。

 その瞬間、耳に、違和感があった。博物館ではまず聞かない音。だが、花崗には聞き覚えのある、日常感や安心感すら呼び起こされる音。

 足先に冷えた何かが満ちる感覚があった。足元を見れば、広がる水溜りが、スニーカーの隙間から花崗の靴下を濡らしていた。

 博物館という場所に、湿気などあってはならない。特に剥製や毛皮のような動物由来の品が存在する場合は、カビや虫食いの原因になる。下水管の水漏れなどもっての外だ。

 だと言うのに、その女子トイレの床はすえた臭いと、吹き出す水に満ちていた。

 淀んだ流れが、その水源を訴える。一番奥の個室の扉は、水流で揺れていた。周囲を見渡す史化を置いて、花崗は無意識にその扉の中身を除いた。

 白いブラウスが、茶色に滲んでいく。その中で、女が一人、便器に顔を突っ込んでいた。

「小林さん?」

 予想の中にあった名を、花崗はその背に投げかけた。彼の戸惑いを嘲笑うかのように、史化は汚物に濡れた髪を掴んだ。

 ずるりと音を立てて、髪の毛が千切れる。辛うじて起き上がった顔は、まるで水を吸ったスポンジのように、各部位が膨らんでいた。

 腫れ上がった顎や唇から流れるのは、唾液と血液、そして排泄物が混ざった汚水。爛れた瞼からは、眼球そのものが溶け出していた。

 ぽたり、眼球と歯が、床に落ちる。逆流した下水に流されて、それらは床を這い、トイレから流れ出た。

「溶けてる」

 ぽつり、史化はそう言った。彼の視線は冷ややかだった。

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