第10話

 花崗と史化の二人が警察署から出たのは、女子トイレに入って数時間後のことだった。

 誰も女子トイレへ侵入したことを咎めることはなかったが、ただニコニコと笑ってばかりの女性刑事に囲まれたことは、花崗にとって一種のトラウマになっていた。冷たい受付ロビーへ出た時、妊婦や女子高生たちがこちらへ向けた目線ですら、皮膚を刺すようだった。

「二人とも災難だったわね。大丈夫?」

 駐車場から、そんな高らかな声が聞こえた。二人は同時にその車へ目を向けた。真新しいセダンの中から腕を振るのは、血色の良い婦人だった。彼女の声は、花崗も知っていた。

「英子さん」

 武杜英子えいこ。武杜佳純の妻であった。彼女はニッと歯を見せると、「乗りなさい」とドアを開けた。その言葉に何の躊躇いもなく後部座席に飛び込んだのは、史化だった。彼に続いて、花崗は体を丸めてやっとのことで車に乗り込んだ。二人が腰を落ち着けたことを確認すると、英子はアクセルを踏んだ。

「うちの人も心配してたわよ。美沙ちゃんもね」

 一つ目の赤信号で車を停めたと同時に、英子はそう呟いた。不機嫌と粗暴さで染まった夫と異なり、英子は穏やかさを纏いながらも強固で賑やかな精神を体現したような女性であった。そんな彼女の性格を知る花崗は、ただ「はい」とだけ頷いて見せた。

「とりあえず二人とも、うちに来なさい。お腹空いたでしょう。夕飯食べてって」

 落ちていく日を横に眺めながら、英子は市街地の中に車体を進めた。オホーツク海の奥に、黒い雲があった。花崗がその雲に目を向けていると、史化が「やった」と無邪気な笑顔を見せていた。

 数分後、一軒家の前に花崗が立つと、玄関から高らかな若い女の声が聞こえた。それが武杜家の四女である美恵子みえこの声であることは、面識のある花崗は理解していた。そんな声の隙間、扉を開ける英子の後ろを付いて歩く。そうして英子が二つ目に開いた扉の先には、広々としたリビングキッチンが広がっていた。

「ただいま! 美恵子! 冷蔵庫のお夕飯出して! 佳純さん! 史化くん連れて来ましたよ! 手伝ってください!」

 英子はそう言って、一目散にキッチンの中に入っていくと、手を叩きながら美恵子と佳純を追いかけ回した。渋々動き出す二人に混じって、上機嫌の史化もまたその輪の中に入っていった。

 ただ一人、花崗だけがその明るい調和の内に入ることが叶わず、ただリビングの隅に立ち尽くしていた。彼がその巨体を窄めていると、ふと、目線の下で動くものを見つけた。

「花崗さん」

 彼が視線を落とすと、そこには一人の少女が立っていた。僅かに不安を含んだ瞳で、その少女――美沙は花崗を見上げていた。

 数時間で随分と顔色が明るくなっている。

 花崗の脳裏には、そんな疑問が浮いていた。吹雪の中で保護した時、人形のように白く生気のなかった美沙は、今やしっかりとした恒温動物としての熱を持っていた。

「だ、大丈夫ですか? ぼーっとして……警察に連れて行かれたって聞きましたけど……」

 美沙が僅かに声を震わせると、花崗はハッと思い出したように手を振った。手首をくるくると胸の前で動かすと、数秒後になってようやく口が動いた。

「ただの事情聴取です。大丈夫、心配しないで」

 事実をそのまま言えるわけもなかった。女子トイレの便器に顔を溶かした女が死んでいたなどと、誰が言えるだろうか。ようやく明るさを取り戻し始めたのだ、その表情が曇るようなことを言葉にするわけにはいかなかった。

 花崗と美沙が会話を重ねているうちに、食器の音が二人の耳を裂いた。二人が目を向けた先には、キャラクターの描かれた丸皿を運ぶ美恵子がいた。彼女に「手伝いますよ」と花崗が駆け寄ると、彼に言葉を返したのは、美恵子ではなく英子だった。英子はキッチンから「そうだ」と甲高い声を上げると、花崗に「ちょっと」と手招いた。

「ごめん、花崗くん、うちの人と史化くんを呼んで来てくれる?」

「二人ともどこかに行かれたんですか?」

「多分二人で煙草吸ってると思う。うちの喫煙スペースは裏の勝手口の前だけだから、そこに行ってみてくれる? 勝手口は突き当たりを左に行ったらすぐだから、わかると思うわ」

 英子の言うとおり、よく見れば、広い部屋の中には二人の姿はなかった。史化の手に染み付いていた苦い香りと、時々香る武杜の甘い煙の匂いを思い出して、花崗は廊下に出た。

 初めて足を踏み入れたとはいえ、一般家庭が住む家屋の広さなどたかが知れていた。花崗は静かに廊下の突き当たりまで足を進めると、左を向いた。声が聞こえた。それは確かに、花崗の少年のような笑い声と、それに呆れを示す武杜の溜息だった。

 花崗は「先生」と呟いて、扉に手をかけた。だが、彼は一瞬、その手の動きを躊躇い、息を止めた。

「どうだった、モヨロ貝塚で何かわかったか」

 扉の向こう、そんな武杜の声が聞こえた。花崗は壁に背を預けて、手で口を押さえた。

 そうしている内、史化の「そうですねえ」という気の抜けた返事が流れた。耳を壁に押し付ければ、彼の通りの良い声が澱みなく耳腔で響いた。

「明美に人魚のことを吹き込んだのは小林佳代子で間違いないです。でも溶けちゃったんで、彼女から探っていくのは無理ですね。遺体も警察が持っていってしまいましたし」

「警察の様子は」

 一貫して冷静な武杜の言葉は、事務的で、感性を失っていた。しかし、史化のそれは彼とは対照的に、一種の光にも似た雰囲気を纏っていた。

「予想通りでした」

 ただその一言だけを置いて、史化は息を吸っていた。煙で肺を満たしているのだろう。彼は舌の上で転がした煙を周囲に漂わせると、コロコロと喉の奥で笑った。

「女、女、女ばかり。いつから網走の警察署は女性を積極的に採用するようになったんですか?」

 脈絡の無い言葉。史化と武杜の会話に、花崗は一瞬、息を止めた。

 女。確かに、そうだった。女性刑事ばかりが自分の周囲を取り囲み、ニコニコと雑談を強要してくる空間。そして、受付の女性警官達に、妊婦、女子高生、女子大生。並び立つ全ての人間が、女性だった。女がいることそのものに異常性を感じているわけではない。しかし、その偏りが異質だった。

「ねえ、冬ちゃんもそう思ったでしょ」

 ふと、突然、史化がそう声を上げた。ガタンと音を立てて、花崗は背中を扉に叩きつける。その扉を引き開けて、史化は背を丸めた花崗と目を合わせた。

「そう怯えるなよ、別に取って食おうってわけじゃないんだ」

 ほら。と、史化は花崗の襟首を掴んだ。そうして裏口に引きずり出すと、彼は煙草の箱を花崗に向けた。花崗は、おずおずとその掌に納まった細い一本を引き抜いた。放り投げられたライターで、火を点ける。炙り出た煙が喉に送られる。肺に触れる異物感に、花崗は大きく咳き込んだ。そんな様子を見て、史化はまた声を上げて笑っていた。

「悪いね、俺のタールきっついんだよな。先生のやれば良かったか」

「史化」

「あぁ、すみません。ま、無理に吸うこたねえや。とりあえず、男同士でお話しようや」

 な。と首を傾げて、史化は言った。彼の軽い様子に、武杜が深く溜息を吐いていた。怯えた様子で史化を見下ろす花崗は、ジッと武杜の目を見た。武杜は小さく手を振って、眉を下げた。

「女性陣には聞かれない方が無難な話なんだ。少々厄介なことがわかってね」

「厄介……ですか」

 冷静な武杜の言葉に、花崗の混乱の熱が引いていく。己がしっかりとした思考を保っていると確認して、花崗は「具体的には」と問いを置いた。

「端的に言えば、遠野明美さんが所属する宗教団体が概ね特定できた」

 武杜はそう言って、新しい煙草を一本咥えた。彼はその先をチラチラと上下させると、視線を横にずらした。その先にいたのは、同じく新品の一本に火を点ける史化だった。

「先生にも大学周りの調査で、色々協力して貰ってたんだよ。で、俺が持ち帰った話と先生が調べてくれた情報を重ね合わせたら、ビンゴってとこさ」

「や、やったじゃないですか。すぐにその団体を調べましょうよ。ご家族である美沙さんがいるんです。遠野先輩を返してほしいって交渉しましょう」

 饒舌になる花崗を見て、史化は小さく鼻を鳴らした。彼はばつの悪そうな表情で空中を見た。そうして、史化は煙を一つ転がすと、眉間に皺を寄せた。

「それが出来たら楽なんだけどねえ。それが出来ないから、ここで男三人だけで喋ってんのさ」

 は。と、花崗は短い問いを漏らす。そんな彼に、史化は眉間の皺を深めた。不快なわけではない。それは、答えを出す難易度の高さを表していた。

「その宗教団体には、名前が無い」

「名前?」

「自称することも、他称されることもない。ご立派な教祖もいない。徹底した教義も無い。寄付金を求めてくるわけでもない。信仰することで生活に変化が出るわけではない。信者は自分達が何を信仰しているのかすら知らない」

 史化は花崗の問いに、直接答えることは無かった。どれだけ花崗が不思議そうに声を上げても、彼の舌は止まらなかった。だが、次第に積もっていく違和感こそが花崗の欲する回答であることに、花崗自身が気付いたのは、史化が薄ら笑いを浮かべた頃のことだった。

「それは……その団体は、宗教団体として成立するんですか。信仰心など、あるようには思えませんが」

 花崗は、史化の言葉を舐めるように思案すると、そう問いを置いた。疑義を受け取った史化は、また小さく口を開いた。

「する。何故ならその集団には明確に『神』なる存在がいるからだ」

 史化はそう言って、一口煙を肺に納めた。短くなった煙草を掌に擦りつける。彼の手の中には、使い古されたポケット灰皿が納まっていた。

「でもさっき、教祖はいないって」

「教祖ってのは神様じゃなくて、基本的には神と信者の仲介者としての側面がデカいの。教祖は超常的な存在の代弁者だから、信者をコントロールする立場だけど、信仰対象そのものじゃねえんだわ。それに神がいれば教祖なんて不要なんだよ。圧倒的な奇跡が目の前で引き起こされていれば、そこに神の言葉を騙る存在は不要だ」

 煙を失った史化の手は、何かを確かめるように口元へ運ばれた。彼は唇をさすると、フッと小さく息を吐いた。そんな彼を見つめて、花崗は息を吸った。

「先輩、神って何かの隠語ですか?」

 花崗の声に、震えは無かった。ただ淡々と、認識を摺り合わせようとしていた。

「いいや? 強いて言うなら、俺達よりずっと古くて旧い生き物の名だよ」

 対して、史化もまた軽くそう笑った。困ったように笑う彼に、花崗は肩を落とした。おそらく、説明するつもりが無いわけでは、決してない。しかし、それ以外に言葉が見つからないのだろうということも、花崗には理解出来ていた。故に、彼は一時の不理解を飲み込んで、再び問いを紡いだ。

「それで、その神が存在すると、何故交渉が出来ないんでしょう」

 花崗の言葉に、史化は満足そうな笑みを浮かべた。彼は「そうだね」と納得を置いて、再び口を開いた。

「失踪も、人面アザラシを盗んだのも、両親の骨を盗んだのも、全部本人の意思だからだ」

 そう言って、史化は遠くを見つめた。そこには、一転して疲労感にも似た虚無が浮かんでいた。

「全部、明美の意思なんだよ。だから誰もアイツを連れ帰ることが出来ない。法的拘束力も倫理的理由も無いから。アイツを匿っているだろう他の信者達は、ただアイツの自由意志を厚意で手助けしているに過ぎない。交渉のテーブルが開かれる事すら無い。マインドコントロールしたという証拠になる教祖役もいないから、誰かを仮想敵にすることも出来ない。というか、そもそもこの宗教団体に悪意は無いんだ。全員が全員、己の意思と善意で行動している」

 史化は冷えた手を擦りながらそう言った。彼の冷めた目は、未だ空中を見ていた。史化の横顔から見える瞳は、深い夜と混ざり始めていた。

「それじゃあ、八方塞がりじゃないですか」

 落胆の声が、花崗の口から漏れた。事の状況があまり良い方向に向いていないのは、彼にもわかっていた。

 しかし、眉を潜めて己を見下ろす花崗に、史化は一転して笑みを浮かべた。

「うん。だからまずは、ちょっとぶっ壊してみようかなって、この宗教団体」

 数秒、時が止まる。花崗は、目の前の男が何を言っているのか、回答を探すことが出来なかった。整合性がとれていないのではない。ただ、史化と対話をしているという実感が、失われた事が大きかった。

「要はアイツが寄りつく場所が無ければ良いんだよ。引きずり出す必要は無い。外堀を壊す。環境が無くなれば良いんだ。そうすりゃアイツは両親を蘇らせるなんて希望を持つことすら出来なくなる。帰ってくる他の選択肢を奪うんだ」

 史化の声は、華やかだった。浮き足立っている、遠足の前日の子ども。そんな言葉が、今の史化にはよく似合っていた。楽しげに語る彼を見下ろして、花崗は苦虫を噛みつぶしたように顔を顰めていた。

「でもそれは、なんというか……明美さんや他の信者達の意思はどうなるんです? なんか、凄く人道から離れた解決方法な気がするんですが」

 花崗がそう疑問を垂れ流した。最大限、オブラートには包んだつもりだった。抑えきれない困惑の捌け口に、彼はそっと史化の丸い瞳を睨む。すると、史化は瞼を三日月型に閉じて応えた。

「今更何言ってんの、お前」

 その表情は、言わば満面の笑みだったが、吐き捨てた声は低く、唸り声に近かった。

「明美を探してアイツを止めるってのはさ、最初から明美の信仰対象を奪うってのと同義だったじゃん。本人の意思が云々なんて考えてどうすんの? もしかしてお前、明美が『悪い宗教』に騙されているとか、洗脳されているんだとでも思ってた?」

 目の前に置かれる言葉が、次々と稚拙になっていく。それは、花崗が史化に侮られていることに違いなかった。同じ語彙で対話することを既に諦められている。そんな疑いが、花崗の中で確信に変わった。その瞬間、花崗は、史化に反論を吹きかけることが、出来なくなっていた。

「あのさあ、冬ちゃん。冬ちゃんはさあ、『神の名前を叫んでヒトを殺す人間』が、『悪い宗教』の信者だと思ってるクチ?」

 故に、彼の問いにも、答える隙は与えられなかった。間髪入れずに、史化は大きく溜息を吐いて唇を曲げた。

「信仰のために何かしでかす奴ってのはさ、大抵既存の文化と信仰に馴染めなくて、自分が見つけた新しい価値観に心酔してるだけなんだよ」

 への字に曲がった眉と唇は、舌打ちと嘲りを我慢していることを表していた。今すぐにでも罵倒を吐きつくしたい。そんな史化の意思表示が、花崗には見えた。

「そして既存の信仰と新しい信仰ってのは、根本は何も変わらない。何故なら宗教や信仰とは本来、『正しく畏れることで特定の個体群が危機を回避する』ためのヒトの生態行動であって、それ以上でもそれ以下でも無いからだ。差があるのは歴史と信者の数くらいだよ。そこに善悪そのものが内包されるわけじゃない」

 良いかい?

 と、史化は口癖を置いて、フッと小さく笑った。その眼球と鼻腔には、嘲笑が満たされていた。

「そんなこともわからずに、よく偉そうなこと言えたもんだね、お前」

 そうやって、史化は鼻で笑った。見せつけるようにして、彼は花崗の顔へ、一歩足を出した。

 数秒、無言が続いた。花崗は半開きになった口から、ただ息を漏らすだけだった。そんな彼の様子を見て、史化が再び口を開けた。

 その史化の口を叩き塞いだのは、三本目の煙草に火を点けた武杜だった。容赦の無い拳を、史化の脳天めがけて叩きつける。揺れた史化の頭を片手で鷲掴むと、武杜はその顔面を壁にそっと押しつけた。史化は、壁と武杜の手の間で、ククッと引き攣ったように笑っていた。

「花崗」

 武杜が名を唱える。その瞬間、不思議と身体が軽くなったような感覚を覚えた。花崗は、ようやく開いた声帯で「はい」と応えた。

「これの罵倒を気にする必要は無い。だが、数年これの面倒を見てきた身としては、これの行動は大抵間違っていない。気分を害することも多いが、最終的な利益はしっかり出してくる。まあ、何、これ自身がそういう台風のようなものだと思って欲しい」

 擁護しているのか、貶しているのか。その両方だったのかもしれない。武杜は淡々と、迷いを含んだ口元で、花崗にそう語りかけた。史化を抑え付ける力が強まっていく。反して、武杜の言葉にはふくよかな甘さがあった。

「だから、まあ、何だね。もう少しだけ、コイツを信じちゃくれないか。信じなくても良いが、とりあえず美沙さんがコイツの被害を受けないように、傍で監視するくらいは頼まれてくれないか」

 そう言って、武杜は両腕から力を抜いた。史化が音を立てて雪の上で咳き込む。窒息していたらしい彼は、青くなった顔で、やはり引き攣った笑みを浮かべていた。そんな彼を見下して、武杜は首を横に振った。

「花崗、お前の感性は正しい。怯えてばかりだが、かと言って周囲の雰囲気に飲まれることもない。事実、お前はコイツに同調を示したことは一度も無い。納得していないときはずっと無言だ。それでいい。お前ならコイツのやることなすことに、上手い妥協点を見つけられる筈だ」

 白い息と煙を吐き出して、武杜は続けた。冷淡で鋭い目は、しかし温かみを内包していた。彼の言葉を受け取る度、花崗は背筋が伸びた。背骨をなぞるような武杜の語り口に、彼は肩を強ばらせた。

「私はお前の、その調整役としての資質を買って、うちの研究室に呼んだんだからな」

 期待しているんだ。と、武杜は零して、口を閉じた。数秒、ただ風が吹くだけの時間が流れた。壁伝いに置き上げる史化が視界に入ったとき、花崗はようやく口を開いた。

「……一応、聞いておいても良いですか」

 花崗がそう尋ねると、史化は「何」と明るく笑った。

「何故、美沙さんには遠野先輩のいる団体のことを説明しないんですか」

 花崗の問いに、史化はまた「そうだね」と置いて、眼球をずらした。虚空を見る彼は、フッと小さく息を吸った。

「明美のいる団体――――仮に『教団』としよう。この教団の信者は、全て女だ。それだけは

 立ち上がった史化は、膝に付いた雪を払って、表情を落とした。雪の上に零れた彼の感情は、すべからく仮面としてのそれだった。

「教団は古代の、オホーツク文化の文脈を継ぎ、この土地で生き残ってきた。そして、信仰において古さとは正義だ。それだけ信仰を深掘りし浸透させることが出来るからだ」

 機械のように出力される史化の言葉は、花崗の耳にスッと染みついていった。嘲笑も扇動も含まない彼の言葉は、清らかだった。

「この土地にいる女全員が、信者である可能性を持っている。事実、園崎ロアンと遠野明美は信者だったし、他の女学生達は明美を経由して教団と接触した経験があった。だから彼女達はあの人面アザラシを見てパニックを起こした。半信半疑だったんだろう。オカルトの類いだと思っていたんだろう。それが、目の前で現実になったんだ。おかしくもなるはずさ」

 髪を掻き毟って、史化は眉間に皺を寄せた。その表情は、一瞬、武杜と同等の厳格さを纏っていた。だが、彼はすぐに、にへらと頬を緩めた。

「網走にいる全ての女性が俺達を敵視するかもしれない。そういう可能性が消えない限りは、警戒を解かない方が良い。冬ちゃんは女の子達に優しくしすぎるからね」

 柔らかな微笑みが、史化に帯びる違和感をより異質なものに塗り替えていく。

 花崗は黒く塗りつぶされたような史化の笑みを眺めて、薄ら笑いを浮かべた。

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