第11話

 翌日、史化と花崗が美沙を連れて向かったのは、市街地の外れ、網走湖を見下ろす古びた屋敷だった。

 客人用に開かれた駐車場は雪が高く積み上げられており、車一つ分だけのスペースだけが辛うじて確保されていた。その小さな面積にワゴン車を停めると、三人はインターホンを押した。聴き取りづらい男の声が「はい」と確かに応答した。二重の扉を開いたのは、飯田と同年代の若い男だった。

「お待ちしておりました、寒いでしょ、中に入ってください」

 白い息を美沙たちの赤い鼻に満遍なくかけると、男は三人を居間へと誘った。大正もしくは昭和に建てられたと思わしき煉瓦調の屋敷。冷えた見た目に反して、西洋風の屋敷の内部は、確かに暖かかった。三人が通り過ぎた部屋の一つに、巨大な薪ストーブがあった。それを見つけた美沙は一瞬、目を輝かせていた。彼女が一人の高校生であることを実感して、花崗は僅かに口角を上げた。

「早苗康順です。飯田くんからお話は聞いてますよ。遠野明美さんという方を探しているんですよね」

 客間で三人が腰を下ろした時、男――――早苗康順はそう微笑んだ。ふにゃふにゃとした彼の顔は、人好きする飯田とも異なった愛嬌があった。彼はその顔のまま三人の前に腰を下ろした。

「人魚像のことについて聞きたいんでしょう。少ないですが写真もありますから、確認していってください」

 そう言ってテーブルの上に山積みされた古びた紙束や書物に触れた。埃こそ被っておらず、虫食いもなかったが、その変色や「早苗幸大」と書かれた表紙の摩耗が、古さを物語っていた。薄らと見える指の皮脂の痕跡は、早苗の指先と一致していた。

「じゃあお言葉に甘えて」

 と、真っ先に手を出したのは、やはり史化だった。彼は山積みになったノートを頂点から順に崩していく。目を通しては隣に置く。手と指、舐めるような眼球の動きを繰り返す史化が何を『覧て』いるのかは、花崗と美沙にはわからなかった。ただ、彼が異常な早さで資料の全てを脳に飲み込んでいることだけは、その満足げな表情から察せられた。ふと、美沙は史化が読み終わったノートの一つを手に取った。花崗が共にその視界を覗き込む。

 紙面を泳ぐ文字は、達筆という一言に納められた。辛うじて読める単語を辿っていけば、そのノートには「あぃあぃとー」という単語と、いくつかの人名が記載されていた。子どもが書いたとも思えない文字に何度も出る「あぃあぃ」という単語の意味を、二人は理解出来ないまま首を傾げていた。

「あぃあぃ」

 舌っ足らずな甲高い声で、誰かがそう呟いた。花崗が美沙の顔を見ると、彼女は首を横に振った。その瞬間、美沙はびくりと肩を震わせる。美沙の視線を追うと、花崗の視界には部屋の扉と口を開けている老婆がいた。

「あぃあぃ、とー、かえればねえ、うちゃかえれるかーぁねっ」

 老婆は歪な歯と舌を交えて、二人にそう笑いかけた。その笑みは早苗の柔らかさを伴っていたが、彼の持つ愛嬌は無かった。機械的で感性のないそれは、シリコン製の人形を見ているようだった。不気味の谷。そんな単語に思い当たりながらも、花崗は「あの、この方は……」と早苗の方を見た。早苗は史化と共に見ていたノートから目を離し、老婆へと視線を向けた。老婆と目を合わせると、早苗は驚きを見せつつも冷静に、苦笑を浮かべた。

「大ばあちゃん、ちょっと待ってね、お客さん来てるから」

「のんどかわいたらむすめいるが」

「喉が渇いたら冷蔵庫に水があるよって言ってるでしょ。この子は大ばあちゃんの娘じゃなくて、お客さんだよ」

 早苗がそう諭すと、老婆は頭を抱えてか細く唸り声を上げた。彼女の背を撫でて、早苗は廊下に消えた。暫くして部屋に戻った彼は、一転して疲労感を被り、溜息を吐き出した。そんな彼に「お祖母様ですか」と史化が問うた。すると、早苗はまた柔らかく苦笑を浮かべた。

「大伯母です。以前は嫁ぎ先で暮らしていたのですが、わけあってうちで面倒を見ています。まあ……最近は多少ボケてきていますが、お邪魔にはならないようにしますから、ご容赦を」

「いえ、寧ろこちらが謝罪すべきですよ、急にお邪魔してしまって」

「いいえ、大伯母のことは、いつものことですから。気にしないでください」

 互いに丁寧な否定を交わし合うと、史化と早苗は一瞬、石のように固まった。先に会話の意識を取り戻したのは、早苗の方だった。彼は咳払いと共に、僅かに首を振って、一歩身を引いた。花崗たちを含む三人を相手にする形で、彼は確かに愛想笑いを放った。

「それよりも、人魚像がお姉さんを探す手掛かりになれば良いんですが……私自身はそういった考古学だとか宗教については疎くて……学生の頃は多少憧れもあって学びましたけれどね。それも体系的なものではなかったんです。自宅にある本を読むばかりで、わからないものはわからないまま放置するたちで……こんな時になっても、力にはなれない。申し訳ない」

 そう言って、彼は肩を落とした。そんな早苗に反射的に問いを投げかけたのは、美沙だった。

「じゃあ、なんでこんな大量に資料があるんです?」

「曽祖父が研究していたんです。まあ、趣味と言いますか、今で言うアマチュア研究家ってやつだったみたいで」

 そう語る早苗の目は美沙ではなく、遠くの何処かを見ていた。そこには確かに憧れがあった。どうにも燻りを抱えた人であるらしいと、花崗は同情に近い精神を飲み込んで彼の言葉に耳を傾けた。

「曽祖父……先ほどの大伯母の父親なわけですが、若い頃に網走監獄で看守として働いていたそうなんです。その中でアイヌだった曽祖母と出会ったそうです。それで、曽祖母の生まれたコタンについて記録したり、研究していたみたいで」

「ということは、人魚像なんかも曾お祖母様のコタンにあったものですか」

 史化がそう尋ねると、早苗は小さく頷いた。

「人魚像もその研究中に得たものだと聞いています。もしかしたら曽祖母の遺品かもしれませんが……明確な記録は無いんです。ただ、この地域で発見したものであることは確かみたいです」

 早苗が指し示した紙には、古ぼけた白黒写真が貼られていた。写真は白い陶器で出来た上半身が女性の小さな像であった。頭部は割れ、その顔を見ることは出来ないが、女性の上半身と魚のような下半身はしっかりと認識出来た。それはアザラシにも似ていたが、二つのはっきりとした乳房から、丸いハムにも似たアザラシを象ったものではないということは明らかだった。人魚。写真に投じられた像を称するなら、確かにそうとしか称する他なかった。花崗は紙の隅に記された「象牙像」という文字と、その隣の擦り削られた「母」という文字を見て、眉間に皺を寄せた。

「この資料しか無いんですか?」

 誰よりも先に問いを投げかけたのは、史化だった。早苗の言葉を聞いている間も目を動かし、テーブルの上にあった全ての資料へ目を通したらしい彼は、瞼を擦ると大きく欠伸をかいた。そんな彼に一種の戸惑いを隠せずに、早苗は史化の顔を覗き込んだ。

「モヨロ貝塚に預けた人魚像については以上ですが……」

「人魚像だけじゃなくて、早苗さんのお曽祖父様が研究していた資料全部です」

 妙なことを言うものだと、花崗と早苗は同時に首を傾げた。彼が求めていたのは人魚像に関する情報のはずだった。しかし、全てを知った筈の彼は異様な飢餓感を示していた。貪欲さを固めたような瞳で、史化は早苗を見ていた。口角こそ上げていたが、彼の蒼黒の目はぎょろりと周囲を見渡していた。それは空き巣が部屋の価値を値踏みするような、他害性に満ちた悦を孕んでいた。

「はあ……それなら蔵にまだいっぱいありますけど……これの数十倍の量はありますよ? それに、ちょっと意味がわからないやつが多くて……アマチュアなだけあって、体系的な研究をしていたわけじゃないので、意味があるのかどうかすら……」

「資料の内容を全部覚えているんですか?」

 ふと、史化の目が年相応の青年のそれに転じた。未熟さと同時に莫大な好奇心を抱えた姿で、彼は再び早苗を値踏みしていた。

「この家を相続するときに相続税を納めるにあたって、目録を作ったんです。そのときに全て目を通しています。なのでどんな内容の資料が何処にあるかくらいは覚えてます」

 早苗がそう言うと、史化は目を輝かせた。彼は人差し指を自らの唇に置くと、とんとんとその膨らんだ肉を弾いた。

「それじゃあ、『湖』もしくは『トー』って単語が出てくる資料を全部貸して貰えますか? 持ち出せないなら暫くここで閲覧させて貰えると助かるんですが」

 史化の言葉に、早苗は目を見開いた。理解を得た彼は、一種の興奮を覚えていた。それが知識欲と己の存在意義の合致による自己肯定が成したものだと理解していたのは、第三者である花崗だけだった。

「湖……もしかして、遠野明美さんが言っていた『網走で一番大きな湖』について調べようとしてます?」

「えぇ、まあ」

 軽い史化の返事は、早苗の感性から困惑を広げた。その場にいる全員が彼に説明を求めていた。それを待っていたかのように、史化はニッと口角を上げて口を開いた。

「網走にある湖は、能取湖、網走湖、リヤウシ湖、濤沸湖、藻琴湖の五つで、中でも最も巨大な湖は能取湖なんです。能取湖について記載されている資料があればそれだけでも良いんですが……ちょっとそれも的外れの可能性がありましてね」

 史化の言葉に対して、一番にその意味を解したのは花崗だった。彼は「そうか」と何か納得を咀嚼して、言葉を飲み込んだ。

 そう言って、史化は指先を自らのこめかみに置いた。彼の言葉に、美沙が「どういうこと」と疑問を呟いた。そんな彼女に、花崗が僅かな興奮を含んで目線を合わせた。

「最近になって、能取湖の水域区分が変わったんです。湖内へ海水が入りやすいように工事して、湖水が殆ど海水になってしまったのもあるみたいで。なので今は法的には能取湖は海として扱われているんです。だから法律上には海だけど、一般認識では湖ってことになっています」

 花崗の説明を追い風に、史化は早苗と目を合わせた。

「明美がどの立場で『湖』と呼んでいるのか、それがわからないんです。だから、湖と記載されている資料は全て目を通したいんですよね。それにもしも能取湖が正解なら、美沙ちゃんが能取湖の研究室に来た時点で、明美から接触が無いってのが気になります。何より、アイツがわざわざ『一番大きな湖』と範囲を濁したのは、何か理由があるんじゃないかと思うんですよ」

 史化の言葉に、花崗が一瞬、美沙を見た。彼女はただ黙って史化を見ていた。明美が「湖」と言っていたと証言したのは、美沙だった。しかし彼女は動揺を見せることもなく、他人事のように史化の声を追っているだけだった。

「つまり、俺達の感覚で湖だと考えられないものを、湖だと言っている可能性があるわけですよ。例えば、気象的に特殊条件が重なった時にだけ現れるものとか……人工的に作られたものとかも。考えればキリがない」

 最早、振り出しですよ。と、史化は僅かに疲労感を纏った声でそう笑った。彼は思案の素振りを見せる早苗を置いて、再び口を開いた。

「明美のいる教団がオホーツク文化から今に繋がったものだとするなら、オホーツク沿岸域で暮らし、教団が信仰する人魚の象牙像を所有していた曾お祖母様のいたコタンにヒントがあるかもしれません。それこそ、彼らがその湖をなんと呼んでいたのか、それが当時の和人である曾お祖父様は何だと理解していたのか……とかね」

 砕けていく史化の態度に、早苗は何処か心地よさを感じているようだった。探り合っていた互いの懐を明かした気分だったのかもしれない。早苗は史化の視線が不動となった頃、ゆっくりと言った。

「なるほど、わかりました。門外不出ってわけじゃないですし、皆さんの方が僕より詳しそうですし……資料は持ち出してもらって構いません」

 極微少の羨望のようなものを含んで、早苗はそう右の口角を上げた。引き攣った笑みは、当初の柔らかさを失っていた。ただ、自らのそんな顔の筋肉の動きに気付いたのか、彼はすぐに丸い微笑みを取り戻した。

「とりあえず、ざっと何があるかだけ目を通して行ってください。運ぶの手伝いますから」

 彼の申し出に、史化は「助かります」とまた快活な声を上げた。軽い足取りで、彼は早苗の後ろを付いていく。そんな二人を見て、花崗と美沙もまた早苗を追った。

 花崗が廊下に出た瞬間のことだった。彼はズボンのポケットが震える感覚で足を止めた。スマホを取り出すと、その画面には見覚えのある文字があった。

「花崗!」

 彼が画面を耳につけた瞬間、南雲の怒鳴り散らす声が廊下に響いた。スピーカー切り替えを行っていないにもかかわらず、南雲の響く男声は屋敷を揺らすようだった。声に気付いた早苗も不安げな表情で花崗を見上げていた。だが、ただ一人、爛々とした少年のような目をしている男がいた。

「突然悪いが、そこに畠山いるか?」

 南雲に呼ばれた史化は、早苗に「すみません」と言葉を置いて、花崗のもとへと駆け寄った。狼狽えるばかりの花崗に、南雲は唸り声を交えて吐き出した。

「至急、うちの研究室に連れて来い。今すぐだ」

 そんな屈辱に対する唾棄の混じった言葉は、南雲にとってどれだけの緊急事態が起きていたのかを表していた。

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