第12話
「来たな」
十数分後、雪道を滑るようにして車を走らせた花崗と史化は、仏頂面でそう舌打ちを放つ南雲に出迎えられていた。「お前が呼び出したんだろ」と笑う史化は、南雲から何を言われるでもなくゴム手袋を手に着けた。
「花崗も手伝え」
南雲がそう言って、花崗にもゴム手袋を投げつけた。それは一年前、彼が使用していた最大サイズのキッチン用手袋だった。飛び抜けた巨躯を持つ彼は、備え付けのゴム手袋を嵌めることは出来なかった。一年ぶりに指を通すゴムの感触は、懐かしさと同時に、あの日の記憶を呼び起こす。花崗は、二人が何処に向かっているのかを察して、歩みを進めた。
「能取湖と網走湖から搬入されたアザラシの死体だ。解剖室に入りきらなくて外に置いてあるやつもある。凍る前に全て捌く」
淡々とそう語る南雲は、腐った血の匂いに満ちた解剖室で、研がれた包丁の刃を見せた。
「数頭、既にサンプリング済みだ。が、これを全部開くのには俺一人じゃ足りん。畠山、お前は魚の解剖なら異常な速さだと聞いている。脊椎動物の構造なんぞ基本は同じだ。やり方を教えてやるから手伝え」
南雲の冷淡な語り口は、事務的なそれに徹していた。しかし、彼の言葉の裏に、何か意図があることは、花崗にも察せられた。
「俺を呼んだのは手伝わせるためだけじゃないだろ?」
唾を飲む花崗の隣で、史化はそう問いかけた。その問いに、南雲は溜息を吐くこともなく、「そうだ」と冷淡に零した。彼の視線が史化から逸れる。一度、花崗の目を見ると、そのまま床へと視線を落とした。その先には、死んだアザラシがただ転がっていた。
「見ろ」
そう言って、南雲は膝を床につけた。彼は片手でアザラシを横転させると、その腹部に手を当てた。
ぐち。
と、音を立てて、その腹部が開く。鋭利な刃物で切断されたのであろう皮下脂肪と筋肉の断面は、夏の生ゴミを越える臭気を放っていた。湿った腐敗臭を纏った空間には、何もなかった。ただ、先を断たれた紐のような肉の塊だけが、その空間に何かがあったのかを物語っていた。
「綺麗に胎児を摘出済み……大分手慣れてるな」
一転して冷静な声色で、史化はそう言った。指先で肉の隙間を拭うと、黒い体液の塊を指と指の間で擦った。糸を引くそれを光に透かす史化を横目に、南雲は二つ目のアザラシの腹を開けた。
「一発で絶命させ、その上最短の時間で子宮切開まで終わらせてる。一般人じゃねえよ」
その言葉と共に、南雲はアザラシの前鰭の横を指差した。そこには丸く黒い穴があった。そこに銃弾が通っていったのだろうことが察せられた。
「一応聞くけど、ゴマフアザラシとゼニガタアザラシは狩猟対象だっけ」
「道の個体数管理計画で駆除対象になる場合もあるが、撃ってそのままなんかにゃしねえよ。それこそ、しっかり全身活用するまでがお仕事だ。これは能取湖と網走湖に放置されていたものを回収したらしい。鉛玉入った死体放置するやつなんざ正規のハンターじゃねえだろうよ」
つまり。と、史化は南雲の口を煽った。それに自ら乗り上げて、南雲は機械的に呟いた。
「アザラシの胎児を集めている異常な集団がいる」
己が繋いだ言葉の意味を、南雲自身も理解していた。
アザラシが死んでいる。それも、胎児を失って。そして、胎児を集める集団がいる。南雲の傍には、かつてアザラシの胎児を奪い去り消えた女がいた。
繋がりを辿り、南雲は史化と目を合わせた。二人の間に沈黙が流れる。先にそれを打ち破ったのは南雲の方だった。
「お前、今日までの調査で何か分かったことはないか」
その問いを、史化は数秒噛みしめると、視線を横にずらした。そうしてまた数秒身体を停止すると、彼は再び南雲の瞳を写した。
「モヨロ貝塚の学芸員が死んだ。明美を何某かの教団に勧誘した女だと思われる」
「武杜先生から聞いたぞ、お前ら第一発見者なんだろ。どうだった、様子は」
その最後の一言は、おそらく好奇心にも近しい感性で放たれた、無意識のそれだろう。南雲は返事が来ることを想定していなかった。
だが、史化は何の躊躇いも無く引き攣った笑みで答えた。
「トイレの中に頭突っ込んで、頭が溶け始めてた。塩かけたナメクジみてえに」
ただ、事実だけを置いて、史化は深く溜息を吐いた。彼は長く息を吐き出していた。そんな彼を見上げて南雲は「は」と短く疑問を唾棄した。
「こっちからも質問するんだけどさ」
そう置いて、史化は南雲と目を合わせた。しかし、南雲はその視線から顔面を逸らし、虚空を眺めて「何だ」と零した。
「確か、前にもアザラシ解剖してたよね。アザラシってそんなしょっちゅう死ぬもんなの? 俺が網走から離れてた間に増えてない?」
史化の問いに、南雲は一度目を瞑った。そうして、ゆっくりと瞼を開くと、彼は冷えた鼻で無色の息を吐いた。
「増えた。それは事実だ」
口から白い息を吐き出す。解剖室に南雲の短い言葉が落とされた。
「駆除対象となった個体が運び込まれたり、夏に刺し網漁で混獲された個体が回ってくることはあるが、年がら年中この量は異常だな」
「いつ頃から?」
「二年くらい前からか」
「原因は? 南雲の見解が聞きたいんだけど」
ぱつぱつと差し込まれる史化の質疑に、南雲は曇り無く回答を落とした。
「今回のケースはイレギュラーとして……今までの大量死の遠因は何となく想像がついている」
一瞬だけ淀んだ口元を抑えるようにして、南雲は史化を睨んだ。視線を重ねた史化は、フッと小さく笑った。
「二年前に網走沖でメタンハイドレート掘削調査が行われていたのは知っているか」
南雲がそう尋ねると、史化と花崗は顔を見合わせた。二人は共に首を縦に振ってみせる。すると、南雲は疲労感を漂わせた表情で、溜息を吐いた。
「それが直接的な原因であるとは考えられないが、間接的な原因にはなっているというのが、俺の見解だ。掘削調査が開始されて一月後には大量死が始まっている。根拠という根拠はそれくらいしかない。だが、海底掘削で周辺生物に影響が出るのはよくあることだ」
そう言って、彼は口先で息を吸った。よく見てみれば、彼の目元には深い隈が刻まれていた。
「だが」
反転を重ねて、南雲は犬歯を剥いた。そこには明らかな苛立ちがあった。それは、史化や花崗に対するそれではない。どちらかと言えば、南雲自身に向いているように見えた。
「その掘削調査は二ヶ月で停止、既に諸々撤収済みだ。その後の掘削跡が一年以上もアザラシにだけ影響を与えるとは思えない」
髪を掻上げて、南雲は史化の顔を見上げた。それは、いつもの睨みつけるようなそれではない。何処か、縋るような表情だった。そんな彼に、史化は無感情な瞳を向けていた。
「お前、何か知っているんじゃないか?」
しかしその質問に答える様子もなく、史化は「さあね」と小さく零した。ゴム手袋を嵌めた手を鳴らし、肩と首の関節の音を鳴らす。
「それでさ、ちょっと聞きたいんだけど」
一転して自身を睨み付ける南雲に笑みを投げかけ、彼は首を傾げて見せた。
「臍の緒が残ってる死体を優先で捌いて良い感じ?」
史化がそう問うと、南雲は険しい目つきで史化を見上げた。一秒ほど思案を巡らせた後、彼は重く口を開いた。
「……何を考えている」
「臍帯血を採取する。あとさあ、ここってLAMPやってたよね」
「漂着した死体なんかの種同定の時に使うが」
「じゃあ電気泳動もあるんじゃん。ちょっと使わせてくれない?」
次々と問いを投げかける史化に、ついに南雲は頭を抱えた。だが、疲労に似た素振りを見せつつも、彼は静かに答えた。
「LAMPと電気泳動の消耗品は、研究室の薬品庫だ。機器は環境研から借りてる」
「オッケー、了解。機器については南雲が話つけてきて。俺だと多分断られる」
「分かった」
南雲は史化に何も尋ねることなく、そう無表情に呟いた。口を閉じるよりも先に、彼は立ち上がり解剖室の扉を開けた。そんな彼の背を見て、史化が「あ」と声を上げた。
「それと、冬ちゃんでもトッシーでも良いんだけど、少し血液ちょうだい」
トッシーという呼び名に、南雲は僅かに反応を見せるが、その混乱を飲み込んで彼は「何故だ」と問い返した。
「調べたいことがあるんだ。何、ヒトゲノムがあればどっちだって問題無い」
「てめえの使えよ」
南雲がやっとの思いで吐き出した悪態を、史化は軽やかに受け取ると、パッと明るく口を開けた。
「俺、そういうの無理なんだわ」
理由になっていない理由を吐いた史化に、南雲は舌打ちだけを置いて部屋を出た。ただ一人残された花崗は、震える腕を史化の前に差し出した。彼はそんな花崗の姿を見ると、困ったように肩を落とした。
「後でで良いよ。真面目だなあ」
そう言って、彼はシンクに置かれた包丁と棚の中の解剖鋏を手に取った。鋏の柄を花崗に差し出すと、史化は口角と視線を上げた。
「とりあえず冬ちゃん、臍の緒探して。コンタミだけ気をつけて。母胎の血液が入っていると困る」
史化のその優しげな瞳は、いつもの爛々と輝く好奇心のそれではなかった。何処か温もりを感じるそれは、ただ一人の「先輩」を映していた。
しかし、そこに史化の感情が伴っていないことは、花崗も理解していた。彼は史化に「はい」という二文字だけを置いて、鋏を取った。
腹を切り開き、その隙間を持ち上げる。史化が開いた空間に、花崗が迷わず腕を入れる。彼の手は的確に胎盤に向かった。史化の指示を待つこともなく、花崗は胎盤を引き摺り出した。彼はそのまま臍の緒を切り取ると、身構えていた史化の手にそれを差し向けた。史化はそんな花崗の冷静な動きに、戸惑いを見せていた。だが、彼の表情はすぐにいつも通りのにやけ顔に戻った。史化は背後にあったチューブを開けて、花崗の手の下に添えた。花崗は、次の個体の腹を見て、そのまま鋏の先を開いた。ぽちゃんと音がして、チューブの中に臍の緒と、その血が満ちた。
二人がそんなことを繰り返して、三十分は経った頃だった。解剖室の扉が大きく音を立てて開いた。そこには、両手で金属の箱にも似た機器を抱える南雲がいた。彼は扉を足蹴にして開けたらしい。彼の古びたサンダルの裏の跡が、扉に残っていた。
「借りて来たぞ」
南雲がそう言うと、史化が深く息を吐いて立ち上がった。彼は大量に重ねられた赤いチューブを目に置いて、ゴム手袋を脱ぎ捨てた。
「オッケー、こっちも大体集めたわ。量多いから三列平行でやろ」
より濃くなった血の臭気と、冷えて痛む指先をほぐしながら、史化はそう笑った。包丁をシンクに置き、彼は部屋を出た。ふと、振り返ると、手を洗う花崗と目を合わせた。
「冬ちゃんも手伝って!」
そう言って、史化はゴムの臭いを纏った指先で、花崗の腕を引いた。血の染みついたジャケットが、花崗の目に入った。まだら模様の裾を追って、花崗は史化と南雲の後ろを歩いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます