第13話
ホワイトボードの並ぶ部屋の中で、三人は大きな溜息を吐いていた。最初の数分間は悪態と嘲笑の応酬を交わしていた史化と南雲の二人も、無言でスティックシュガー四本入りの珈琲を啜っていた。そんな二人を見下ろして、花崗は「とりあえずひと段落ですかね」と、声を上げた。三人は血の付いた上着を全て脱ぎまとめ、ただ暖かな空気に浸っていた。
数十頭のアザラシから臍の緒を取り出し、その中の血液を絞り出し試薬と混ぜる。各サンプルが混ざらないように器具の洗浄と廃棄を繰り返す。そんな単純且つ精密な操作を二時間も行っていたのだ。例え精神の全てがすり減っても、サンプルの鮮度を考えれば、その場で休憩しようなどとは言えない。その労働に対する疲労感は、手慣れているであろう南雲でさえ、机の上に突っ伏す史化へ悪態を吐くことすら忘れる程であった。
数秒、呆けた顔でデスクチェアへ身を投げ出していた南雲が、頭を起こした。彼の視線の先には、古びた印刷機がガタガタと震えていた。そこから吐き出された数枚の用紙を、南雲はホワイトボードに叩きつけた。
「よし、説明しろ」
その簡潔な指示は、全て史化に向けられていた。ワンテンポ遅れて、史化は自身の頬を叩くと「おう」と声を張り上げた。彼はホワイトボードに貼り付けられた紙を並べ替えると、左指の関節をそのうちの一つに当てた。こんこんと表面をノックすると、南雲と花崗を交互に見つめ、僅かに眉を下げた。
「こっちが臍帯血、こっちが冬ちゃんの血、これが親アザラシの方の結果ね。大急ぎの簡易検査だからちょっとブレてるけど、まあアザラシと人間くらいの違いなら分かる感じだね」
サンプルナンバーをなぞりながら、彼はそう言った。黒い帯上に光る白く細い帯を赤いペンでマークしていく。その数を人差し指で数えると、史化は再び口を開いた。
「臍帯血のサンプル五七中、四十は似たようなもんだな。親アザラシと臍帯血が同じ結果を出してるってことは、ここら辺は全部アザラシの血液だったことがわかるわけだ」
黙する南雲を見て、史化は「それで」と置いた。その指先で赤いペンを回す。そのペン先に南雲が視線の先を置いた後、すぐにそれをホワイトボードの上に置いた。彼は南雲の視線を操るかのようにして、八つのサンプルナンバーにマークを付けた。
「で、残りの七体と冬ちゃんのやつがこれ」
史化の手に、不審な点は無かった。彼はただ、サンプルナンバーの下に赤を置いていた。それだけだった。
だというのに、南雲は一転して表情を曇らせた。彼は目を丸くしたまま、唸るような声を上げた。
「…………は?」
思考が停止していた。それは南雲だけではなく、花崗も同様だった。彼は首を傾げて、史化の指先を見た。そこにあった黒い帯の上には、先程のアザラシ達とは異なる配置の白い帯が示されていた。
簡潔に言えば、この場合、白い帯の並びこそが、遺伝子の違いを示している。つまり、今回の場合で言えば、帯の出現位置が違えば種が異なるということである。今回の操作で比較したのは、親アザラシと、胎児の血である臍帯血、そして花崗の血液だった。五十七のサンプルのうち、三つのみが花崗の血液であることを考えれば、理論上は『五十四』対『三』で二つの結果が得られる筈だった。一方で、もしも操作ミスがあったとしても、花崗の血とアザラシの血が混ざったパターンであり、その場合は三つ以上の結果が得られる筈だった。
彼らの前にあった用紙には、二つに分断した結果だけがあった。それは、彼らの操作が完璧であったことを示していた。しかし、その結果の比率は、五十四対三ではなく、『四十』対『十七』という歪な数字だった。
「このうち三つは冬ちゃんの血。つまり、残りの十四本の臍帯から採取した血は……ヒトの血ってことだよ」
はっきりと浮き出たそれを、史化はなぞる。彼は確信を含んだ口元で、無感情な視線を南雲へ向けた。その視線を打ち返すようにして、南雲は鋭く舌打ちを鳴らした。
「コンタミだろ」
南雲がそう言うと、史化は肩をすくめた。史化はハッと口を開いて笑うと、その身体を花崗に向けた。
「南雲が冬ちゃんを重宝した理由が分かったよ」
唐突な言葉に、花崗は目を丸くした。そんな彼を見て、史化は眉を下げたまま南雲へと視線を戻した。
「冬ちゃんの操作は正確だ。真面目な気性がよく出てる。今回の作業も完璧だった」
ただ淡々と、飾ることも無く褒める史化の表情に、曇りは無かった。いつものようなにやけ顔でも、品定めをする粘度の高いそれでもない。故に、彼が本心からそう言っているのだろうことは、花崗にも南雲にも理解出来ていた。
「研究者を目指してるなら、事実は事実として認めなきゃダメだろ、南雲俊之くん」
一転して嘲笑を含んだ史化の言葉に、南雲は「は」と小さく苛立ちと笑みを交えて吐いた。だが、南雲はその後、史化に言葉を返すことはなかった。数秒待っても何も言わない南雲に、史化は「つまりさ」と置いて、背中を壁に預けた。
「この網走で、アザラシが人間を孕んだ。そして、その胎児を持ち去った人間がいるってこと」
そう言って、史化はフッと小さく溜息を吐いた。
「俺たちの身近で、アザラシの胎児を持ち去った前科のある奴と言えば誰だ?」
史化の言葉は、南雲と花崗の二人の間に、一つの答えを作り上げていた。二人はその女の名を口にすることもなく、史化の言葉の続きを待った。
「明美たちが動き始めた。それも派手にな」
史化はそう言うと頭を掻いた。彼の言う「動き」に意味を見いだしたのは、花崗だけだった。彼は唾を飲み込んで、無言を貫いた。
「
爛々と、史化は目を輝かせる。そんな彼の顔を覗き込んで、南雲は舌打ちを鳴らした。
「何が人魚だ。居てたまるかそんなもの」
「いるんだよ」
南雲の言葉に、覆い被さるようにして、史化はそう唱えた。彼の迷いの無い答えに、南雲と花崗は、動揺を隠せないでいた。目を丸くする南雲の顔を覗き込み返して、史化は悪戯盛りの少年のように笑った。
「人魚は居る。それも今は繁殖期だ」
ふざけるな。何を言っている。
そう、南雲が追撃を口にしようとすると、史化はそっと人差し指を自らの唇に置いた。彼は口を閉じた南雲を見下ろして、歯を出して笑った。
「その辺の詳しい説明はまた今度な。とにかく、アザラシの腹を掻っ捌いている不審者が出たのは間違い無い。不幸中の幸いってやつだ。これで公権力を巻き込める。南雲、今回のことを海保に連絡してくれ。アザラシを殺して回ってる馬鹿が大量にいるかもってな」
「海保? 先に警察じゃねえのか」
「能取湖は水域区分では海だ。海で起きた事件の管轄は海保になる。何も問題無い」
「だが今回、アザラシの死体について捜査依頼を出して来たのは警察であってだな……公権力を巻き込みたいなら警察でも良いだろう。どうも、能取湖と網走湖で不審者が動いていることは理解しているようだし、話も通しやすいんじゃないか」
そう史化に語る南雲の表情は、何処か史化を試しているようだった。彼は裏側に何か別の確信めいたものを飲み込んで、史化を見ていた。
「だからこそだよ」
そんな南雲の試し行動に対して、史化は表情一つ変えずに口を開いた。
「警察内部には明美の協力者がいる。そこそこ偉いところに。だから網走市内でアザラシを殺し回ってる集団が、派手に動けるんだ。後ろ盾が無きゃこうは動けない」
「根拠は?」
間髪入れずに目線を上げる南雲に、史化は一瞬、考えるふりをしていた。視線を斜め横にずらし、頬を掻いてみせる。だが、彼は淀みの無い口元で再び南雲へ視線を落とした。
「質問を質問で返すのは良くないんだけどさ」
そう置いて、史化はまた小さく息を吐いた。
「南雲、なんで今日、俺と冬ちゃん呼んだの?」
その問いに、意味は無かった。強いて言えば、南雲と史化の間にある共通認識を摺り合わせるためだけの、マーキングと言ってやる方が正解かもしれない。
「南雲って俺のこと嫌いじゃん。でも俺を呼んだ。自分が育ててる可愛い後輩たちを呼ばずに、わざわざ他の研究室にいる俺たちを、だ」
一段と、冷えた声だった。だが、そこに悪意も敵意も無い。ただ彼が観測している事実だけを置いていた。南雲が何も言わなかったのが、その証拠だった。史化は彼の無言を合図に、そのまま考察を続けた。
「俺じゃなきゃいけなかった理由があるんでしょ。後輩の女の子達がサンプル盗もうとしたことがあったとか、人面アザラシの事件についてやたら聞かれるとか」
史化の言葉は鋭くも、返答の隙間を南雲に与えていた。しかしそれでも、南雲は無言のままその言葉の続きを待っていた。その無言を以て、史化は確信を得た。
「お前は同じ轍を踏むってことをしないじゃん。失踪する前の明美とそっくりな子でもいたんだろ。しかも複数。そういう子を避けていって、そうやって研究室で孤立したんだろ、お前。だから今のお前はずっと一人で解剖を進めている。解剖室の間取りは複数人で使うことを想定されていなかった。つまりお前はここんとこ一人で作業してる。あの大量の死体を捌いていた。そんで、ついに今日になって、腹が掻っ捌かれてる変死体が届いた。あぁ、こいつは、もしかしたら――――後輩達がやらかしたんじゃねえのかって、そう思ったんじゃねえの」
饒舌さを極めていく史化の頬が、僅かに紅潮しているのを、花崗は見逃さなかった。制止する者がいないと理解した史化は、その唇の端に、泡を溜めていく。いつも通りの演説芸に見えた。だが、今回は違った。どちらかと言えば、何かに取り憑かれたような、そんな異常性を孕んでいた。花崗がその神懸りを纏った史化の様子に気付いた頃には、史化は制止の隙をその部屋の隅から隅まで奪い取っていた。
「お前は俺と違って良い奴だ。後輩を疑いたいわけじゃない。でもその結論に、どうしたって辿り着く。悶々とそう思ってたところに、俺のことを思い出した。明美を探している俺達の行動と合わせるように、明美と似たような女学生達が動き出した。その時点で、お前の中では、結論はもう出てるんでしょ、わかるよ。俺たち、同族嫌悪してるところがあるからさ、共感を示してやることは出来る」
史化はそう言って、「そうだろ」と重ねた。
「お前が警察を本当に信用しているなら、俺達を呼ぶよりも先にそっちへ通報してただろ。腹掻っ捌かれてるんだぞ。明らかに人為的だ。それがわからないお前じゃない。でも誰も信用できなかったんだろ。胎児を奪われた死体を見た時点で、お前は市内で異変が起きていることには辿り着いていた。しかも、警察のような公権力がバックについてるやべーのが動いてるって、理解しちゃったんだろ」
史化の視線に刺された花崗は、ウッと混み上がる声を押し殺した。彼が疲労と動揺を隠せずにいる姿を見て、史化は眉間に皺を寄せた。史化は「つまりさ」とまた接続を置いた。彼は唇の先で息をすると、落ち着いた様子で頭を掻いた。取り憑かれたようだった彼は、一転して冷静さを取り戻していた。
「既に市内の誰が明美の関係者であるかもわからない。それこそ、今は静観してくれているが、いつだって俺達を黙らせる用意だってあるのかもしれない」
人間に戻った史化は、頭を掻いた指先を、机に置いた。その指先に花崗が視線を置くと、くるくると回す。
「警察はもう使えない。信頼が置けない。二人ともそれがわかっていて、俺みたいな不審者に信頼を置くしかない状況に陥ってる」
確信を持って、史化はそう笑った。自らの指を見ていた花崗と、自らの目を鋭く見上げる南雲の二人に、嘲笑を含んだ笑みを隠す様子は無かった。
「そういう何でもわかってるみてえに喋るところが気に食わないんだ。だから出来るだけ関わりたくないんだ、お前とは」
南雲がそう唸ると、史化はハッと手振り身振りを大きくして、快活な笑みを振りまいた。
「俺だって何でもわかるわけじゃねえけどさ、南雲と冬ちゃんはわかりやすい方だよ」
砕けた態度が、史化と南雲の間にある一種の信頼を示していた。蚊帳の外に置かれた花崗は、二人の間に置かれていない自らの身に、ホッと胸を撫で下ろしていた。
「お前の言う、海保は信用出来るのか?」
南雲はスマホを手に取ると、その画面を爪先で叩いた。ぬるくなった珈琲を片手で飲み干して、史化にその飲み口を向けた。
「出来る。俺が保証する」
史化は甘ったるい珈琲の香りを被りながら、そう短く返した。その簡潔さを信用と取ったらしい。南雲は素直に「そうか」とだけ置いた。そうして、彼は再び重く口を開いた。
「……どう説明すれば良い。今の状況を説明するのは骨が折れるぞ」
「海保の『書庫番』に『史化』って俺の名前を伝えるようにって言ってくれ。大丈夫、それだけ伝えれば、後は何も繕わずに見たこと聞いたことを報告すれば良い。どうにかなる」
わかった。と、史化の指示に対して、南雲は溜息を吐いた。彼の溜息は、あらゆる行動の呼び動作であった。それを知っていた花崗は、何処か安心感を持って、彼の揺れる背を見つめていた。
南雲が海上保安庁のサイトにアクセスする姿を目で追っていると、史化が「さて」と手を叩いた。彼は隣で肩を震わせた花崗に、口角を上げて見せると、コテンと首を傾けた。
「冬ちゃんは俺と一緒に美沙ちゃんと早苗さんのところに戻ろう。手伝って欲しいことがあるんだ」
早苗。その名を聞いて、南雲は背筋を伸ばした。大量の資料が積み上がるテーブルを思い浮かべて、自分が何を手伝うのかは、予想が付いていた。
「今夜は寝かせらんないかも。資料を急いで全部見ないと」
史化のその言葉に、花崗は「はい」と返す。しかし、史化は彼のそんな諦観を遮るように、ぼそりと呟いた。
「塞ぐ方法を探すんだ。あっちの準備が整う前に、早く」
そう囁く史化の蒼黒い瞳は、花崗の全てを見透かしたように深く、透明だった。
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