第14話

 三時間前にも通った道をなぞって、史化と花崗は早苗の屋敷へと急いだ。空には厚い雲があった。ふと、史化は窓を開けて腕を伸ばした。片手で握るハンドルに花崗が心臓を高ぶらせていると、史化は眉間に皺を寄せて腕を戻した。

「これは暴風雪が来るかも」

 そう言って、史化はアクセルを踏んだ。白く濁った空と、遠くにある市街地を眺めて、花崗は息を飲んだ。

 その十分後、早苗の屋敷の扉を史化は何の躊躇も無くスライドさせる。

「早苗さん、すみません突然出て行っちゃって」

 謝罪を口にしながらも、史化はしおらしい態度も無いまま早苗の前に立った。腕に抱えていた紙とノートの束を客間の机に置くと、早苗は柔らかく笑った。

「大丈夫です、緊急だったんでしょう。指示頂いた通り、資料はまとめておきましたよ。美沙さんも手伝ってくださいましたので、思ったより早く終わりました」

 そう言って、早苗は軍手を脱いだ。机の前に正座していた美沙も、軍手を丸めて床に置いた。

「こりゃ有難い。助かります」

「一応、湖という単語が出てきたものは網羅してあります。それでもピンとこないようでしたら、追加も持ち出しますが」

「そうですね。とりあえず、今日はこれを見ます。湖に何かあるのは、確かみたいなんで」

 史化の言葉に合点がいっていたのは、共に血の臭いを纏う花崗だけだった。花崗は「明美さんが動いたんです」と置いて、早苗と美沙に、南雲に呼び出された理由を語った。研究室での出来事を語ると、早苗はただ頷いて「わかりました」とだけ呟いた。

「史化さん、今夜は泊まっていってください。私も資料の分別程度であれば手伝いますし、蔵以外にも曾祖父の遺品がありますから、持ってきますよ」

 それに。と置いて、早苗は窓の外を見た。

「そろそろ暴風雪警報が出るようですから。この辺りは暴風雪になると動けなくなりますから」

 彼がそう言うと、風と雪が硝子を叩いた。バンバンと音を立てる白い空間を眺めながら、早苗はシャッターを閉めた。

「大伯母の様子を見てきます。ついでに客間を空けるので使ってください。おもてなしは出来ませんが、とりあえず眠る場所は作りましょう」

 早苗の動きは速かった。史化たちが礼を言うよりも前に、彼は慣れた足取りで部屋を後にした。そんな早苗を見て、史化は小さく首を傾げた。

「有り難いけど俺寝ないんだよな」

 そう言って、史化は頭を掻くと美沙と目を合わせた。美沙はソファの上で史化を見ていた。彼女の虚無を湛えた顔に、史化は歯を見せて笑った。

「美沙ちゃんはしっかり寝な。冬ちゃんは寝かせないから」

 史化の宣言に、美沙は僅かに苦笑を漏らした。文句を口に出しかけた花崗は、そんな美沙の表情で言葉を飲んだ。


 それから数時間後。応接間を紙を捲る音が支配していた。ソファの上で転がる花崗は、ただジッと史化の背を見ていた。寝かせないと言いつつも、うとうとと顔を上下させる花崗を見た史化は、「寝たら?」とソファを指差した。薪ストーブで保たれた温もりの中で、花崗はその巨躯を縮こめて、革製のソファの上で意識を薄く広げた。広範囲に散らばった意識は、部屋の細やかな装飾の色形を拾った。カチカチと小さく音を立てる古時計。羆の毛皮で作られたラグ。壁にかけられた雄雌二つの鹿の頭。それぞれの威圧感に当てられて、花崗は無理矢理目を閉じた。紙と紙が擦れる音の、緩やかなリズムが眠気を誘う。指と眼球だけを動かす史化の様子は、音だけでは分からなかった。深夜一時を迎える古時計の音で、僅かに目を開ける。薄らぼんやりとした視界の中には、伸びた背筋の史化だけがいた。彼の小さな動きを、目で追う。揺れる眼球は、まるで海の上に浮かべられた揺り籠の中に抱かれたような、そんな錯覚を見せた。微かに聞こえる網走湖の波と氷が軋む音が、より一層その錯覚に現実感を与えていた。

 瞼の裏では、思考の全てが現実になった。

 海の中に、いる。身体が全て揺れている。

 生ぬるい海水。それは、おそらく、羊水と呼ぶもの。

 羊水の満ちる腹の中で、一人、花崗は息をしていた。

 赤子の、声が聞こえた。それが自らの産声とは思えなかった。産道を通る苦痛に喘ぐ胎児の声とも異なる。

 花崗の耳に深く刺しこまれていくそれは、次第に鋭さを増していく。

 鈍痛が花崗の脳を炙る。冷えたナイフを刺された時のような、冷感と熱の同居。それが頭の中でころころと動くのだ。揺り籠の動きが、心臓の動きに合わせて激しくなっていく。その度に、赤子の声がまた大きく強くなっていく。

 

 その泣き声は、正しく、母への恨みを吐き出す赤子のそれだった。


「ふゆちゃん」

 ふと、泣き声の隙間に、聞き覚えのある声があった。花崗は海の貼り付いた瞼を開けた。揺らぐ視界に、輪郭を得る。蒼黒い瞳が、鈍く光っていた。それが史化であることに気付いたのは、数分後のことだった。

「冬ちゃん、寝ぼけてないで起きてよ」

 僅かに焦燥感を含んだ彼の声と、頬を叩く手の衝撃で、花崗はようやく上半身を起こした。周囲は暗く、波の音は聞こえなかった。部屋を覆う音は、風と木々の枝、そして雪が叩きつける打撃音だけだった。

 数秒経って、花崗は部屋の暗闇に違和感を覚える。さっきまで史化は書面に目を通していた筈である。だとするなら、こんな光源の少ない部屋は適していない。史化が眠っていないのだろうことは、踏みしめたレポート用紙の散らばり具合で理解出来ていた。

「停電ですか」

「そうらしい。吹雪か折れた木の枝で電線が切れたっぽいな」

 存外冷静さを保っている己に驚きつつも、花崗は史化の背を追った。ライトを点けようと、スマホの電源ボタンを押す。ロック画面には深夜二時半を示す数字が並んでいた。通知欄は暴風雪警報を知らせるばかりだった。

「一応ブレーカー確認しますか」

「それもそうだけど、とりあえず、早苗さんと美沙ちゃんを起こそう。二人とも疲れてたみたいだから寝かせちゃったけど、流石に緊急事態だ。特に美沙ちゃんが心配だ。ストーブ点けて寝る習慣無いから、電気毛布だけで寝てるかも。もしそうなら凍死しちゃうよ。この屋敷、結構隙間風入るし」

 史化の指示に、花崗はただ頷いた。そこに一切の感情は無かった。

 暗闇と猛吹雪という非日常感が花崗の背を押したのかもしれない。何故だか花崗の足は軽かった。闇に遮られ、視線がありこちに散る。何処を見れば何が見えるのか、そんなこともわからなかった。時々、屋敷の梁や天井に頭をぶつけては、花崗は床にうずくまっていった。頭を振って、額と後頭部の痛みを払い落とす。そんな花崗の動きを見ながら、史化はフッと小さく笑った。彼の口角から隙間が見えた瞬間、花崗は白い光に目を焼かれた。

「キャンプ用の電気行灯あったけど使う? 一応ちゃんと光るよ」

 そんな軽い史化の声が聞こえた頃、花崗の白んだ視界は黒さとコントラストを取り戻した。彼の視界に入った廊下の一角では、段ボールが開けられていた。

「ランプですか……一応お借りしますが、畠山先輩はどうするんですか」

「俺はスマホで十分。とりあえず、美沙ちゃんを迎えに行ってあげてよ。明るい方が安心できると思うし、二人でストーブ当たっててもらっても良いし」

「先輩、早苗さんの寝室わかるんですか?」

「いんや? ただこの手の家の間取りは何となくわかるよ。あんまり増築とかはされていないみたいだし、時代的な特徴も残ってるから、当たりはついてる」

 そんな知識を何処で。と、花崗は問いを飲み込んだ。ただ「わかりました」とだけ呟く花崗を見て、史化は小さく手を振った。

 花崗は夕暮れに早苗から案内された廊下を歩いた。床板が花崗の体重移動に伴って、ギシギシと何度も音を立てた。軋む板には、湿度があった。史化の言う隙間風の音が、時折、口笛のように花崗の耳を突いた。

 階段を過ぎる頃、花崗の足裏からは感覚が失われていた。足の皮膚が割れていたとしても、気付かないだろうことは予測できていた。無意識に履いていたスリッパが、功を奏していた。ふと、花崗は史化の足下を思い出した。ぺたぺたと足音を立てて消えた彼は、おそらく裸足だった筈だ。凍傷になるとは言わないが、この吹雪で窓硝子など割れていれば、間違いなく大怪我は免れない。廊下に広がる血の海を想像して、花崗はくるりと身を翻した。

「先輩、足怪我しますから、スリッパを……」

 ギシと音を立てて、史化の姿を探す。だが、彼は既に応接間からも、その周囲の廊下からも消えていた。時折ペタペタという早い足音が聞こえた。縦横無尽に二階を歩き回っているらしい彼の姿を想像して、花崗は小さく溜息を吐いた。

 あの人なら、まあ、大丈夫か。

 心配を徒労に変換した数秒の時間を飲み込んで、花崗は再び客間へ向かった。

 記憶のある扉の前に立つと、彼はその扉を数回ノックした。扉の向こう側から擦れる布の音を聞いて、花崗は「美沙さん」と彼女の名を呼んだ。

「すみません、驚かせましたか。吹雪で電線が切れたみたいで、停電しているんです。暖房がつかない部屋もあるみたいなんで、暖かい部屋に移動しませんか。薪ストーブなら電気が要りませんから」

 扉越しに花崗がそう言うと、キイと音を立てて扉が押し開けられた。小さく縮こまった美沙が、暗闇の中で目を丸くしていた。

「眠れなくてスマホ見てて……急に電気毛布冷たくなって寒くなっちゃって……」

 つらつらと言葉を垂れ流す美沙の体が、震えていた。それを見た花崗は、彼女が抱えていた毛布を彼女の肩にかけた。

「大丈夫、畠山先輩もいますから。下は薪ストーブと灯油ストーブがありますから、暖かいですよ」

 年相応の非力さを見せる彼女に、花崗は饒舌になっていた。自然と出る笑みが、暗がりで隠されていて良かったと、花崗は息を飲み込んだ。そんな彼の黒く塗りつぶされた顔を見上げて、美沙は無言でその裾を掴んだ。遠慮がちな彼女の細い手指の感触を記憶しながら、花崗は応接間への階段を降りていった。一歩前に出る度、花崗の背を引く力が強くなっていく。一瞬顔を後ろに向ければ、美沙が唇を噛んでいる様子が、薄らと見えた。

 一階の廊下を踏んだ時、花崗は一瞬動きを止めた。動かない巨躯の背に、美沙の顔がぶつかる。鼻を擦る美沙に「ごめんね」と零すと、花崗は違和感へと目を向けた。

 細い空間。細い床。そこに置いた足。

 スリッパ越しに、じんわりと温もりを感じる足裏は、数秒後には更なる冷感に満たされていた。

 その感覚は、冬の雨の日、スニーカーに入り込む雨水と似ていた。唯一違うのは、触れた瞬間から一気に熱が奪われていく危機感だけだった。

 花崗は記憶を辿った。階段を上がろうとする自分が、こんな水溜まりを踏んだだろうか。否、彼が客間へ向かうまで、廊下には湿気の一つも無かった。花崗は唾を飲み込むと、視線を横にずらした。応接間に向かうよりも手前、仏間と、そこから続く台所。そうして再び、前を向いた。ずっと奥の、昼間には庭が見えた現代的な硝子窓。己の顔に叩きつけるような、痛みを覚えるような風。氷を運ぶそれが、目の前でストーブの熱気と混ざっていく。窓が開いている。それを確かめるためだけに、ランプをかざした。だが、周囲を明るく照らすだけのそれは、十数メートル先の暗闇を晴らすには心許なかった。ただ、床にまき散らされた水分だけが照り返しを見せていた。

「花崗さん?」

 不安げな声が、背後から聞こえた。急いで振り返れば、美沙が眉を潜めていた。彼女の訝しげな目を見て、花崗は「床が濡れてるんで。気をつけて」とだけ置いた。美沙は花崗の言葉に黙って頷くと、最後の三段をゆっくりと降りた。床に足先を置いた瞬間、鋭い冷たさを感じたらしい彼女は、細かく肩を振るわせた。

「雪でも入ってきたんですか」

 美沙がそう言うと、花崗は肩を竦めた。無言で己の理解を否定すると、彼は美沙の手を取った。

「とりあえず、応接間のストーブに当たりましょう。靴下は脱いでしまった方が良い。濡れていると体温が奪われるから。また凍傷になると困りますし」

 敬吾混じりの花崗の言葉は、動揺しているとも取れた。ただ、彼は精神の揺れをどうにか止めようと、唇の下を噛んだ。

 嫌な予感がしていた。花崗の勘はあまり鋭い方ではない。しかし、状況分析が一般のそれより劣るというわけでもなかった。彼の視線の先にあるであろう窓は割れていて、そこから何者かが侵入したのは明らかだった。玄関のインターホンも鳴らさずに入り込んでくる人間が、まともである筈はない。

 花崗は美沙の身体を自分の近くに寄せると、摺り足で廊下を駆けた。足音を減らす。何処に何がいるかもわからない状況で、花崗は直感的に足を滑らせていた。撥ねる水滴の音よりも、吹き入る風と雪、枝葉の叩きつける音の方がずっと大きい。それらに紛れるようにして、花崗は美沙を応接間まで誘い走った。

 数秒後、ごうごうと音を立てて稼働するストーブの前に、美沙を置いた。彼女は花崗の手に導かれるまま、ストーブの前で蹲っていた。花崗を見上げる彼女の瞳が、ランプの光を反射させる。その虹彩が仄かな青を反射させた時、彼女が史化との血縁を解した。吸い込まれる様な瞳の奥に、花崗は小さく息を吸って顔を背けた。そんな彼の視界の中に、揺れるものがあった。その背は、ランプの光を反射して、仄かに光っているように見えた。それが人間の背であることがわかったのは、数秒後のことだった。

「早苗さん?」

 花崗は、丸い背に語りかけた。史化は確か、黒い作業着を着込んでいた。ならば暗闇の中に溶け込んでいるはずである。とすれば、そこにいるのは早苗だけだ。思考が辿ったルートに対して実直に、花崗はその名前を呟いていた。

 だが、その背はぐらぐらと揺れるばかりで、花崗へ応答することは無かった。花崗の腰に、美沙が身を寄せる。花崗が思い至ったのは、あの割れた窓だった。彼はその人影ににじり寄った。

 間取りを思い浮かべる。揺れる背のある場所は、確か、台所の一角だった。そこからマグカップを持ってくる早苗の姿を、花崗は覚えていた。

 ずるり、ずるり。足を滑らせながら、それに近づく。小さく丸め込まれた背が、呼吸と共に上下していた。

 ふと、足に、柔らかいものが当たる。花崗はそっとそれに目を向けた。ランプをかざす。一瞬、黒い何かが光りを反射した。

 臭いが、した。腐った魚のような臭いと、嗅ぎ慣れた鉄錆びの臭い。花崗はその臭う「黒」を辿る。

 凹凸があった。膨らみと、山のような軟骨の隆起。それを鼻と頬、そして眼球と呼ぶというのは、美沙も花崗も知っていた。

 弱々しく上下する胸と、赤い気泡をぶくぶくと吐き出す口。赤く濡れた顔の輪郭をなぞって、花崗は目を丸くした。

「早苗さん!」

 ランプを放り投げて、花崗は倒れる早苗の首に手を置いた。弱くなっている心音のリズムと共に、手指の隙間を体液が濡らしていく。それが血液であることは明らかだった。花崗は強く首を押さえつける。息を止めないようにと、探り当てた傷口を太い指先でつまみ上げた。

「美沙さん! 走って逃げて! 警察! 救急車呼んで!」

 スマホを落とした美沙に、花崗はそう叫んだ。意識外に置いた男の背を視界の端に置く。落としたランプの光に当たって、鈍く赤黒い刃先が照り返しを見せていた。男が刃物を持っているのは明らかだった。光と冷気を失った冷蔵庫に頭を突っ込んでいる男から、花崗は目を離さない。今すぐにでも男から包丁を取り上げなければ、自分が、美沙が危うい。それはわかっていた。だが、花崗は早苗の首から手を離すという選択肢を選ぶ事は出来なかった。

 ――――男が動く前に、手元の早苗をどうにか連れ出さなければならない。美沙はもう走って逃げたか? 畠山先輩は何処にいる? 応戦できるか? 手を離しても止血できるものはないか? 早苗さんの大伯母は無事か? 男の手にある包丁、自分の背中なら何回まで耐えられる?

 思考がぐるぐると回る。早苗の口から出る気泡が割れる度、焦燥感と浮遊感が募っていく。最善手が次々と奪われていく。

「……食べてる?」

 滲み出る血液の質感に指を侵されながら、花崗はそう呟いた。花崗の目に映っていたのは、細い男の手だった。男は骨のような指先を、何度も己の口に置いた。肋の浮いた胴体が、膨らんでは凹む。喉が膨らんで、またしぼむ。口元はぐちゃぐちゃくちゅあくちゃくちゃと音を立てていた。薄い唇から零れる唾液。その唾液と混ざった高級ハムや漬物の残骸が、床に零れる。

 正しく男は、餓えた鬼のそれと、同じ姿、同じ行動を示していた。

 短く、断続的に、花崗は息をした。目の前で広がる光景に、理解を示すことが出来なかった。彼は浅くなる息を喉の奥で転がした。

 感情が浮かばなかった。人を刺し殺そうとしておいて、この男は食事を貪っている。この令和の世の中で、ここまで飢えた人間がいるものか。何より全裸なのは何故だ。野良猫も凍って死ぬ網走で、全裸の浮浪者が生きられる場所はない。なればこの男は、一体何処から来て、ここに辿り着いたのか。

 思考だけが巡る。花崗は、息を吐いた。それは溜息に似ていた。

 吐き出された息の温もりを、冷えた皮膚に感じたらしい。男が、ぎょろりと眼球を回した。周囲を見回るようにして、男は一点に視線を集中させた。その先には、花崗がいた。静かに息をする早苗の血を浴びた、彼がいた。

「す、好きなだけ食べれば良い。腹減ってんでしょ……だから、見逃してくれよ」

 包丁の柄を握る男に、花崗はワントーン明るい声を放った。僅かに頬を歪ませて、花崗は笑って見せた。ぎこちない笑みを、虚空を孕んだ瞳で見つめる。支離滅裂なことを言っているのはわかっている。花崗を慮る精神が、目の前の全裸男にあるとは思わない。それでも、花崗の中には、今の状況を切り抜ける手立てが、それくらいしか思いつかなかった。

 無言が続く中で、心臓の音だけが響いていた。三つの心音が重なる。確かに、花崗の心臓はずっと跳ね上がっていた。しかし、それは全裸男も同じだったようで、彼は荒い息を吐きながら、ジッと花崗を見ていた。

 ヒグマと相対した時というのは、こんな感覚なんだろうか。

 そんな現実逃避を頭に置いて、花崗は心音の弱まっていく早苗へ、僅かに視線を落とした。

 ――――その途端、視界の隙間で白いものが動いた。それは、男の細い足だった。産毛が見える。花崗は顔を上に向けた。

 直線九十センチ先で、眼球が動く。数ミリ、花崗は己の眼球を動かした。その視線の先には、血の乾いた包丁が握りしめられていた。血走った眼球と、包丁とを何度も見比べる。その二つを比較する意味など無かったが、その二つが二秒後の花崗の姿を示していたのは、事実だった。

 やめろ。そう口を動かそうとして、花崗の身体は停止した。

 白さに飲み込まれた視界の中で、丸い黒と細い黒が、音を立ててぶつかる。蛍光灯の光に目を焼かれた花崗は、ウッと声を上げて目を瞑った。床に落とした視線の先には、蹲る全裸の男がいた。彼は頭に包丁を握った手を当てて、唸っていた。そんな彼の手と頭蓋を蹴り飛ばす黒いブーツがあった。

「一つ聞いて良いか。何、悪いようにはしない。本当に質問があるだけなんだ」

 そう言って男と花崗を見下ろしたのは、雪に濡れた史化だった。彼は視線の通った花崗に満面の笑みを向けると、床に落ちた包丁を掴み、廊下へと放り投げた。

「先輩!」

 何やってんだよ、アンタ。

 声を荒げようとした花崗を、史化は片腕だけで制止した。彼は床で荒く息をするだけの男の顔を、片手で掴んだ。史化はその耳の穴に指を押し込むと、再び引いた。耳孔から出たのは、どろりとした黒い塊と、濁った水だった。それが耳垢の一種であると気付いたのは、何十日も風呂に入っていない人間が纏う独特の臭いと腐った魚のような匂いの二つを混ぜた臭気が、床を撥ねたそれから発せられていたからだった。早苗の出血に両手を奪われている花崗は、その臭いに鼻を摘まむことも出来ずに、ただ口で息をしていた。

「アンタ、一体何処から来た?」

 荒い息は、男の感じている恐怖心を表していた。史化が男へ向ける表情を、花崗はうかがい知ることが出来なかった。しかし、彼の声だけは、花崗が知る中でも最も無邪気で、好奇心で満ちたそれに聞こえた。

「あ……網走……網走監獄だ……」

 監獄。男の言葉を、花崗は舌先で反芻した。彼が思い浮かべたのは、煉瓦造りの建築物だった。明治に建てられたというそれは、現在は博物館として機能している。そこから来たのだというのだから、今年失業したばかりの浮浪者が駐車場で車中泊をしていたのだろうと、花崗は一つの答えを飲み込んだ。

「監獄か。じゃあアンタ、囚人なんだな?」

 花崗が飲んだ現実を奪い去るようにして、史化はそう言った。そこに冗談や遊び心は無かった。正しく、彼は男に「囚人か否か」を問うていた。その問いに、男は地面に伏せたまま、静かに頷いた。

 一人、花崗は目の前で広がる会話に、ただ呆けていた。

「何をやったかは聞かねえよ。だが何をされたかを聞きたい。どうせコイツが何かお前にしでかしたんだろ? 

 史化はそう言って、花崗の下で血の泡を吹く早苗を指差した。すると、男は再び血走った目で早苗を見つめた。

「湖に落とされた……凍った湖に……この看守に騙されて、夜中に脱走したことにされて……」

 荒くなっていた息が、更に荒くなる。そこには憤怒が伴っていた。憎悪。悪意。報復。その三つを舐めるようにして、彼は早苗を睨み続けた。

「鉄球で藻掻いても藻掻いても沈んでいくばかりで、それで、声が聞こえて……」

 男はそう言うと、腕を早苗に伸ばして、爪で床を削った。うーうーと唸る男の頬に、史化は躊躇無く拳を叩きつける。

「で」

 たった一音。その一音で、史化は男を制御していた。怯えを含み始めた男の視線が、史化の下に戻っていく。史化は部屋に居る全ての人間の注目を集めて、歯を見せて笑っていた。

「赤ん坊の泣く声がしたんだ。赤ん坊の声が……水の中から……」

「溺れて、命からがらここまで戻ってきたら、早苗がいたから刺したってことか? 早苗……なんだっけ?」

「さ、早苗幸大だ。そいつが俺を沈めた。みんな沈めた。実験だって言って、俺も、隣の房の奴も」

 ふーっふーっ。と音を立てて、男は興奮を鼻から漏れ出す。男の目から水滴が出ていた。それが涙の一種であることは、南雲にも理解出来た。ただ、それが史化へ向けられた恐怖から流れ出ているものなのか、記憶に対する生理現象によるものなのかは不明だった。

「アンタなんだ……屯田兵じゃねえな? その目は露助か? いや、アイヌか? アンタらのその奇妙な服はなんだ?」

 一滴、床に涙が落ちたとき、男は目を白黒させて、はっきりとそう言った。一転して明確な意識を見せた男の顔を見て、史化はその手の力を緩めた。馬乗りになっていた身体を持ち上げて、溜息を吐く。男が急いで冷蔵庫に縋り付く姿を見て、史化は小さく「は」と鼻で笑った。

「ある意味アンタと似たようなもんだよ。囚人だと思ってくれれば良いさ」

 そう言って、史化はシンクの前に立った。彼は軽く肩を回すと、息を漏らして、テーブルの上に置かれたマグカップを手に取った。そのまま、水道の蛇口を捻った。脈絡の無い彼の動きに、花崗も男もただ身体を硬直させる以外に出来ることは無かった。

「喋って喉が渇いたんじゃないか? 水だよ、冷えるが雪を食うよりはマシなはずだ」

 快活な笑みを浮かべて、史化は濡れたマグカップを男に差し出した。それが優しさではないことは、誰の目にも明らかだった。だが、男は唾を飲み込んで、そのマグカップに触れた。

 その一瞬、奪うようにマグカップを掴み、史化を押しのける。男はそのままマグカップの中身を史化の口にまき散らす。咳き込む史化を見下ろして、男は大きく肩を上下させていた。

「なにすんだよお前」

 悪態を吐いて睨む史化を確認した男は、そのままくるりと彼に背を向けた。蛇口に手をかける。水道水が飛び散る。氷のように冷えたそれを、男は浴びるように口に入れた。

 そんな男の様子を、史化は一転して冷めた目で見ていた。彼は男から興味を失ったように、花崗の傍に寄った。近づいた史化の横顔を見て、花崗は、「こんなに人形のような目もするのか」と、言葉を飲んだ。

 そう思考が巡った瞬間。男から目を離した瞬間、ガタンと何か重いものが床を跳ねる音が聞こえた。

 花崗は薄ら笑いを浮かべる史化の視線を追う。そこには、茶色く濁った胃液と、冷蔵庫に入っていたらしい高級ハムの破片が散らばっていた。その上で上半身を跳ねる男は、首を掻きむしって、史化を見ていた。縋るような瞳に、花崗の中で僅かな同情心が沸いたのは、史化の他人事のような表情を見たせいだった。

「目」

 濁った気泡の中で、男は確かにそう言った。

「目が」

 腕が、史化に向かう。這いつくばる男は、まるで赤子のように床を進んだ。

「同じ……目」

 男の指先が、史化の膝に触れようとした。

「かみさま」

 男がそう呟くと、史化の表情が落ちた。彼は立ち上がり、右足を後ろに引くと、そのまま吸い込まれるようにその爪先を男の顔に叩きつけた。数度、鈍い音がした。溶ける男の顔が、飛び散っていく。

 男の眼球が花崗の顔に貼り付いた。それを見た史化は、フッと堪えきれなくなった様子で、腹を抱えて笑った。

 目の前で笑う史化の姿に、花崗は何も感じなかった。

「畠山先輩」

 彼の名を呼ぶ。史化は「何?」と笑い涙を拭いて首を傾げた。

「早苗さんが刺されたんです。助けてください」

 自分でも何を言っているのかわからないまま、花崗は淡々とそう言った。すると、史化は、足下の早苗と目を合わせた。早苗の浅い息に数秒耳を傾けると、史化はいつもの調子で微笑んだ。

「何、傷はそこまで深くない。あんな浮浪者に刺されたくらいで死にゃしないよ」

 そう言う彼の、その背後にある窓には、二種類の赤いサイレンが回っていた。

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