第18話
花崗達が港近くの道の駅に辿り着いたのは、二十分後のことだった。運転席の南雲は、ジムニーのハンドルを握りながら、舌打ちを鳴らした。砕氷船の乗船場でもある道の駅には、観光客と思わしきレンタカーが大量に並べられていた。夏や秋であれば並ぶことなど到底あり得ない広々とした駐車場も、流氷が接岸する今日になっては満車となっていた。
「おい、花崗」
等々に、南雲がそう声を上げた。助手席に座る彼は、ただ「はい」とだけ唱える。バックミラー越しに目が合った武杜に睨まれると、南雲は一瞬肩を落として「あのさ」と置いた。
「お前、先に降りて畠山と遠野を探して来い。そんだけタッパがあれば、上から見下ろして探せるだろ。乗船開始時刻ギリギリの今なら、あいつらも乗船口に並んでる筈だ」
南雲の唐突の提案に、花崗は一瞬、返事が遅れた。彼が返答を起こす前に、南雲は激しく舌打ちを鳴らした。
「最大でもたかだか四五〇人。千匹の小魚に比べれば見分けは付くだろ」
そう言って、南雲は車の鍵を開けた。早く出ろと言わんばかりに、南雲は花崗を睨む。彼が「行け」と言うと、誰よりも先に扉へ手をかけたのは、美沙だった。
「ちょっと、美沙さん! 君は!」
隣に座っていた飯田の制止を振り切って、彼女は車降りた。前に進めない南雲達の前に出ると、彼女は細い身体を震わせながら、フッと小さく息を吐いた。
「お姉ちゃんがいた。いたんです」
美沙はそう言うと、そのままコートの裾を翻して、曇る硝子扉の奥へと向かった。ヒトとヒトが重なるその四角い穴へ、美沙は吸い込まれるように消えた。
そんな彼女を追って、花崗は転げ落ちるようにして車から降りた。その花崗の首根っこを掴み、立たせたのは、武杜だった。彼は雪の付いた花崗の背を叩くと、ただ一言「行くぞ」と唱えた。膝を伸ばすと、花崗は「はい」と静かに足を前に出した。
溶けた雪の飛沫を上げながら、花崗は扉を押し開ける。扉を潜った先でまず目に入ったのは、無数の蠢くダウンコートだった。老若男女が寒さの中でひしめき合い、たった一つの乗船口に向かって列を成していた。その列を乱すのは、併設された土産物屋で商品を手に取る観光客達。まぐわう蛇のようにぐねぐねと動くヒトの波は、それを見下ろす花崗の平衡感覚を失わせていた。陸地にいるというのに、船の上で立たされているような、そんな感覚が、足の裏から湧き上がった。
「私は史化を探す。花崗はとりあえず美沙さんを優先して探してくれ。どさくさに紛れて船に乗せられでもしたら厄介だ」
そんな彼の背を再度叩いて、武杜はそう声を張った。花崗は、背を伸ばして、確かに「はい」と頷いた。
己の無駄に長い脊椎と四肢を、こうも有り難く思ったのは花崗にとって人生で初めての出来事だった。南雲の提案が、如何に的を射ていたのかを、花崗は吐き気を飲み込みながら噛みしめた。蠢く人の頭の数を数える。鮮明になっていく花崗の視界は、一人一人の服装を花崗の脳に焼き付ける。色とりどりのダウンコートの中から、覚えのある色を探した。少しでも似た人間を見つければ、顔を覗き込む。それを繰り返す内に、花崗の周囲には空間が出来ていた。
ふと、青い服が二つ、こちらに向かってくる様子が見えた。それが女性警官であることは、目を合わせた花崗にはすぐ理解出来た。ひょこひょこと人の海を泳ぐ二人から距離を取るようにして、花崗は少しずつ人だかりの奥へと身を沈めた。膝を曲げ、腰を曲げる。花崗の周囲は、視線が交差していた。不審な動きで乗船の列を崩していく彼は、傍から見れば間違いなく異常者の類いだった。言い訳も出来ないまま、彼は困ったように笑う。青い警察制服の袖が見えた。
「花崗くん」
ふと、女の声が聞こえた。それは雷のように南雲の脳を揺らした。警察官の手が止まる。その手に向けていた視線を、花崗は声の方に向けた。乗船口の前、その女は鈴を鳴らすような声で再び「冬くん」ところころ笑った。
「どうしてそんなに怖い顔してるの? ほら、立って」
一年前と変わらない、芯の通った声と指先。その二つが揃って、花崗の前にあった。息をするのも忘れて、彼はジッとその女を見ていた。
警察官達は目の前の男女から揃って背を向けると、人だかりに消えた。数秒も経てば、花崗の周囲にあった空間すら無くなっていった。
そんな周囲の変化にも気づけないまま、花崗はただ、目の前にいる女だけを見ていた。
白いオホーツク海と砕氷船を背に、その女は明るい笑みを浮かべていた。やつれ細った手で、艶を失った髪を耳にかける。
「うちの妹がお世話になったみたいね。」
女――――遠野明美は、そう行って目を細めた。彼女の深く濁った青黒い瞳に、花崗は視界を滲ませた。声が出ないまま、彼は首を横に振った。ゆっくりと流れる数秒間を噛みしめるようにして、花崗は明美から数ミリ離れた。ブーツがつるりと滑りそうになって、体勢を直す。背後へ倒れようとした彼の腕を、細い左の指先で支える。明美はそのままその腕を掴み、引いた。
「おいで。大丈夫、うちの妹には園崎さんがチケットを渡してくれてるはずだから。これは貴方の分。本当は史化と一緒にって思ったんだけど」
会話を放棄した明美は、花崗にそう淡々と言葉を置いた。明美の冷たい額が当たって、花崗は荒く息を吸った。
「明美さん」
花崗は彼女の名を呟く。しかし、明美は何も答えなかった。
「ほら、行くわよ」
花崗の呼びかけに答えることもなく、明美はまた笑った。その笑みは史化と似ていた。アパート前のワゴン車で見た、彼の孤独に酔うような瞳。それと似た冷ややかな艶が、遠野明美の女性性を際立たせていた。
定型文をなぞるだけの明美の誘いに、乗ってはいけないと、花崗自身も理解していた。しかし、その言葉に乗る他に、花崗の中で選択肢が浮かぶことも無かった。
「持ちますよ、それ」
花崗はそう言って、浅い息を整えた。彼は自由な左腕を、明美の塞がった右腕に回す。彼女が右脇に抱えていたのは、軽く白い箱だった。その中身が何であるかは、花崗にも想像はついていた。
「随分と軽いですね、ご両親は」
言葉を続けなければ、対話を発生させなければ。そうしなければ、明美のペースに飲まれる。それだけは避けたかった。どんなに明美を傷つけることになっても良い。彼女がこちらと言葉のキャッチボールをしてさえくれれば良かった。そんな花崗の考えを嘲笑うかのように、明美はハッと大きく鼻を鳴らした。広く開けた明美の口からは、黄色く染まり茶色の苔を生やした歯と舌が見えた。
「だって頭蓋骨のほんの少しと、首の骨だけだもの。首の骨。アトラスだけね」
「第一頸椎ですか。綺麗ですよね。仏様みたいで」
「綺麗かしら、仏様って」
「綺麗なんじゃないですか。宝石で敷き詰められた極楽浄土にいらっしゃるらしいですよ。実家の祖母が言っていました」
花崗のずらした返答に、ついぞ明美は腹を抱えて笑った。
「貴方、相変わらず会話が下手ね! 自分の言いたいことばっかり!」
彼女の笑う声を合図に、目の前の女が動いた。乗船口へ、人が集まって、正しく進んでいく。周囲を見渡した花崗の背を押すように、背後の乗客が「前が開いてますよ」と小さく言った。
「でも残念ね。私の神様は浄土ではなくて海の底にいらっしゃるわ。宝石じゃなくて暖かくて冷たい砂と死骸の敷き詰められた、海の底よ」
明美はそう言って、周囲に目を回す花崗の腕を掴んだ。船員に二枚のチケットを見せると、軽やかに船のスロープを上がっていく。痩せ細った女とは思えない力で、明美は花崗の巨躯を引き摺っていた。
花崗はただ、片手に収まる明美の父母の遺骨を、白く軽い箱を、抱えて歩く以外出来なかった。
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